2017-08

こんな雨続きじゃ春眠も貪れない

今朝のことだ。
真っ黒な視界。
その向こうから、ひとつの女の声が聞こえた。
「しいちゃんが自殺したんだって」
どっどっどっどっどっど。
遠くから低いドラムのような響き。
視界は相変わらず、真っ黒なまま。
そのまま私は眼を開き、息を詰めたまま自分の心臓が不用意に激しく打っていることに気づいた。

「しいちゃん」が誰なのか分からない。
今まで、そんな渾名の知人には一度も出会っていないから。
とはいえ自殺してもおかしくない人は身近にあって、なんとなく夢の来歴を結論づけようとすれば結論づけられるのだけど、境界線のない夢はなんとも恐ろしい。


春昼(しゅんちゅう);春昼後刻(しゅんちゅうごこく) 春昼(しゅんちゅう);春昼後刻(しゅんちゅうごこく)
泉 鏡花 (1987/04)
岩波書店
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さて、岩波月間4冊目。

鏡花を読むのは数年ぶりだろうか。
なんとなく鏡花はハードルが高くて、感想を書くなら「草迷宮」「海神別荘」なんかを再読しても良かったのだけど、あえて読んだことのない話を手に取るのも一興。
鏡花のハードルの高さはおおむね自分の教養のなさに由来していて、ついつい単語で躓く。
同時に必死に具象化映像化を試みようと四苦八苦しているうちに、石にまろび、気づけば彼の地に立たされている。
いわく夢の場である。
特に今回の作品はのどけき春の暖かみが頬の寸前にまで近づいてきており、鏡花お得意の艶やかな色彩と微に入り細を穿つ部品に見とれていると、もうすっかり掌の上で転がされているのだ。
ただ今回は、なんとなく少し、本当に少しだけ頭が柔らかくなったのか、その靄けぶる世界を楽しむことができた。

随分と昔に読んだ「外科室」の時にも思ったのだけれど。
人が恋に落ちるとは、かくも短い瞬間に、かくも他愛ない道理で起きることなのだろうか。
簡単にいえば、ヒトメボレの信憑性はどのくらいあるのかとか。
そういった数理的には身も蓋もなくなってしまう、不可解なつながりに(私も運命は信じておりますが)我が身を捧げてしまう姿が、さらにいえば、まるでどこか確固たる信念の置き所を求め続け、見つけたならば喩え何の根拠もなく昏い淵であろうとも死を簡単に選んでしまえる姿。
情念はひとしおに強いのに、凄まじいばかりの美しさを誇っているというのに、なぜか鏡花の描く人物には、実体がないような、生まれ落ちて以来ずっと幽霊であるような、質感が薄いような気がしてなりません。
こんな事を書くと、ちゃんと読み込んでいる人からはめちゃくちゃ叱られそうなんですがね。

今回のお気に入りのシーンといえば。
件の二人が、夢でまみえる舞台の幕が広がるところ。
一体広さにしたらどれほどの距離があるのか、山にかかった靄が幕と混じり合い左右に分かれていく壮麗さ。
壮麗と呼ぶ前後には物の怪が蠢く不気味さも聴覚から視覚へとじっとりと繋がっていきます。

また、陰気な、湿っぽい音で、コツコツと拍子木を打(ぶち)違える。
やはりそのものの手から、ずうと糸が繋がっていたものらしい。舞台の左右、山の腹へ斜めにかかった、一幅の白い靄が同じく幕でございました。むらむらと両方から舞台際へ引き寄せられると、煙が渦くように畳まれたと言います。
不細工ながら、窓のように、箱のように、黒い横穴が小さく一ツずつ三十五十と一側(ひとかわ)並べに仕切ってあって、その中に、ずらりと婦人(おんな)が並んでいました。
坐ったものもあり、立ったものもあり、片膝立てたじだらくな姿もある。緋の長襦袢ばかりのものもある。頬のあたりに血のたれているものもある。縛られているものもある、一目見たが、それだけで、遠くの方は、小さくなって、幽(かすか)になって、唯(ただ)顔ばかり谷間に白百合の咲いたよう。
慄然(ぞっ)として、遁(に)げもならない処へ、またコンコンと拍子木が鳴る。
すると貴下(あなた)、谷の方へ続いた、その何番目かの仕切の中から、ふらりと外へ出て、一人、小さな婦人(おんな)の姿が音もなく歩行(ある)いて来て、やがてその舞台へ上がったのでございますが、其処へ来ると、並のおおきさの、しかも、すらりとした脊丈(せたけ)になって、しょんぼりした肩の処へ、こう頤(おとがい)をつけて、熟(じっ)と客人の方を見向いた、その美しさ!
正しく玉脇の御新祖(ごしんぞ)で。
p79



夢とうつつの境界線はあまりにおぼつかなく。
うつつでは視線を交わした程度の男に(男はとっくにメロメロなのですが)既に恋が芽生えていたかは定かではなく、同じ夢の舞台に立った時点で唐突に恋を確信したと、女は「後刻」で主人公に切々と訴える。
そして、男が怯えながらも招かれて夢とうつつの境目で足を踏み外した淵へ、女は進んで身を躍らせる。
このゆるゆるとした、読者もぼんやりと夢になだれ込んでいるうちに、ぽいと放り投げられる感覚。
私のように読み下手であれば、投げられた事すら気づかず、引き戻っていざと構えなくてはならない感覚って、独特です。

いつも鏡花を読むと、その擬音語、擬態語の多様さに新しい渦に巻き込まれる気がするのですが。
今回一番感心したのは、変なところで。
他にもいいところはたくさんあるんですが、爬虫類好きとしてはなんとも蛇の描写が素敵だわ。

「湯殿の西の隅に、べいらべいら舌さあ吐いとるだ」(p91)

「べらべら」でも「にょろにょろ」でもなく「べいらべいら」ですもん。

最後に蛇足な突っ込みですが。
描写絢爛な鏡花にかかれば、人づての話でも事細かになるのは当然なんですけど。
ちょっと語り部の坊さん、アンタ詳しすぎ。
講釈師見てきたような嘘をいい(笑)。


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