2017-05

X月X日、美術館ニテ

口にしてはならない欲望を、口にした時、人は裸体をさらけだすような羞恥と興奮を覚えるだろうか。
もし蔑んだ目で見られ、社会的制裁をうける覚悟ができているといいながら、狡猾な隠匿を図るならば、それは嗜虐者の風上にもおけぬ、明らかな裏切り行為だ。
ただ、そうした「裏切り」を告白することで、彼らは二重に封印された恍惚にひとり酔いしれるのかもしれない。


僕は十六の時から、「死」の甘美な匂いに吸い寄せられていた。
ちょうど、同じ頃、自分に同性愛傾向があることに気づいた時でもあった。

高校一年の国語の授業は、僕にとって苦痛だった。
教師がどうしたとか、内容がどうということはない。
自分が教科書の余白に描いた落書きが気になって、硬直していただけである。
それが、物理の教科書なら物理の時間、何もできなくなっていただけだ。

中程のどの頁に描いてしまったか分かっているくせに、その頁を不用意に開いてしまって、教師にその絵を見られるのではないか、前の席の奴が振り向きざまに見るのではないか、そう思うと気持ちが高ぶって、違う頁を開いているのに、指がかたかたと震えた。
活字がびっしりと並んだ頁を開いているのに、その絵が悩ましげに浮かびあがっている気がして、その度に股間の幼いふくらみが痛いほど張り詰める。
また、その机の下の秘すべきことが、露見するのではないかと心臓が痛む。
それなら、そんな愚かしい落書きをしたものを捨ててしまって、新しいものにすればよかったのにと、今は冷静に裁量できるのだが、あの時は、新しい教科書を購うすべも思いつきはしなかったのだ。

問題の絵は、桜の大木にクラスメートのKが裸体で磔られている絵だった。
教科書に載っていた或る作家の随筆に惹かれ、他の作品もと読んだ桜を題材にした小説が僕の妄想を具現化した。
今まで、特別他人を意識したこともなかったのに、何故Kを贄にしたのかわからない。
Kは凡庸な級友であって、特に何かに秀でていたわけでも、劣っているわけでもなかった。
それに、その稚拙な線で縁取られた人物をKと思いこんでいるのは僕だけであって、他人が見ても誰かは判別できなかったろう。
唯一、他の者より肌の色が白く、悪ふざけで付いた引っかき傷が、妙に赤く印象的だっただけかもしれない。

両の腕は高く掲げられて、二本の大枝にそれぞれ縄で固定されている。
首はのけぞり、頭、背中、尻は荒れた木肌の幹にびったりとはりついて、曲げられた足は宙に浮き、足首を幹の後で縛られている。
自身の体重に重力がかかるから、浮いた体を支える両手首には、どんどん縄が食い込んでいく。
裸体の中心にあるものだけが、重力に反して天に向かって咆哮してるのだ。
その絵を見てはならないと誓った禁忌は、毎日のように破られ、絵の中のKの全身には切り付けられた痕が、加えられていく。
Kは血をたらたらと流し、その目はあらぬ方に向かって空ろに開き、そして「死」を迎える刻が遠くないことを予感させた。
処刑されるものが見せる表情の中に、明らかに苦痛に悶絶する以外に、快楽に繋がる顔があることを、成長するにしたがって知るようになったが、拙い描線に裏打ちされて、妄想の中のKは遂に大量のスペルマを撒き散らして、息絶えるのだった。

二十代も半ばにさしかかると、僕は自分に決定的な悪癖があることに気付いた。
決して罪咎を問われることはなかったが、何人もの人たちそして自分を失望させてきたのだ。
それは簡単に言えば、物事の完成真近になると、完結を放棄してしまうという癖だった。

たとえば、精緻に作ったプラモデルをあと僅か数本のパーツをとりつける、あるいはあと一箇所色を塗るだけで完成するという段になってしまうと、投げ出す。
資格習得のために通った学校も人より早く学科をこなしても、卒業試験になると退学する。
たとえ、資格が取れてもそれを生かそうという気概がない。

それでは、仕事も長続きしないだろうと思うが、新しい人間関係を築くのが面倒だという新しい課題にぶつかる。
そこで、なるたけ同じ職場に身を潜めていたりするのだが、一度上司に認められたりすると、もう嫌で嫌で仕方がない。
猫かぶりに生真面目に微笑んでいた顔は、前日までは相手に誉められたい一心で作っていたくせに、それが成就されるや、過剰な期待が振りかかるのが恐ろしくて、逃げ出してしまうのだ。
逃げ出す理由が見つからなければ、わざわざ相手に疎まれる能無しを演じてでも、立ち去ろうとした。

恋愛関係においても、この傾向は顕著だった。
同性愛者であることを隠すこともなかったが、決まった相手を探そうという努力はなかった。
それでも性欲は高まるから、同じ嗜好の人間が集まる場所に行き、じっと待つ。
自分から仕掛けるのは面倒で、顔も見えない映画館の暗闇や公園のトイレでことを済ますこともなんどかあった。
僕の肉体的特徴も、学歴も、些細な趣味の語らいも必要とされない、ただ肉欲に支配されたドライで動物的な交わりが、一番性に合っていると信じていた。

Fと同棲するようになったのは、些細なきっかけだ。
或る夜、道端で酔っ払った僕を拾い、一晩介抱した彼のところで図々しくも、数日厄介になっていた。
今思うと、本棚に詰め込まれた書籍が魅惑的だったとか、まめに世話を焼いてくれたとか、居心地のいい空間に身を横たえていただけの軽い気分だったのに、Fには僕が随分と我侭で、放埓な人間に映ったようだった。
外で別の男と寝て、Fの家に真夜中過ぎに戻ると、Fは血相をかえて僕にくってかかった。
僕がゲイだと知らずに、涙ながらにこう言ったのだ。
「毎日君と居ると、おかしくなりそうだけど、おかしくなってもいいから、君といたい。男に告白されて、さぞかし気持ち悪いだろうけど、どうかここにいてくれ」と。

彼の告白は怒気をはらんで、僕の肩を掴んで揺さぶりながら延々と続けられたが、僕にとってもここまで感情を爆発させる相手に恵まれていなかったから、Fに興味を持たざるを得なかった。
いまだに僕がFの目にどう映っているのか、何が「おかしくなりそう」なほど自分が変っているのかも掴めず、Fの世話になって五年が過ぎていた。
相変わらず、僕はセックスの相手を求めて外遊を続けていた。
実際、訳もわからず肉体が火照ると、誰かに組み敷かれないと、気持ちが収まらなかった。
Fは、セックスを求めることがなく、僕が迫ると決まり悪そうな顔で僕を抱きしめて、揺籠になって安住の地を提供することがほとんどだった。

一年前、僕に小さな不幸が訪れた。
耳下腺を襲ったウイルスによって右耳の聴力を喪失し、永遠の耳鳴りを授かったのだ。
Fは相変わらず、優しく看病してくれたし、病いの衝撃に打ちひしがれた僕には、嘘偽りなしに彼の慈悲は慰めとなったのだ。
しかし、発病から半年過ぎた頃、体調によって激しく打ち響く耳鳴りにも慣れるにしたがって、また日常生活における支障も軽減されるにつれて、僕の中にアンビバレンツな感情が芽生えはじめた。
ひとつは、当然ながら、残された聴力を失ってしまったらどうなるのかという懼れ。
・・・・・・・・・・・・もうひとつは、失ってしまいたいという、暗い欲望。

実感に基づけば、片耳の聴力がなくなった場合、伝達許容量は決して0.5にはならない。
健常者よりも残された片耳の感覚は、研ぎ澄まされ補足され、0.8程度にはなっているだろう。
しかし、両耳の聴力を失えば、全きゼロ、まさに耳鳴りのノイズだけが走る無音の世界に陥る。
懼れは、その世界を迎えたとき、己に課せられる不自由に耐えられるのかということにあった。
そして何よりFに与えてしまう多大な負担が、二人の関係を終わらせてしまうのではないかという怯えにも繋がった。

暗い欲望。けっして、口にしてはならない欲望。贅沢な破滅を夢見る、許されない欲求。
それは、雑多に流れ込んでくる音声によって構築された人間関係から離脱し、沈黙の世界に没入したいという感情だった。
勿論、ひとつの感覚器を絶ったくらいで、世界との関わりを絶無にする事はできない。
逆に、こんな方法を取らなくても、一人で山ごもりでも、あるいは簡単に「死」でも選択すれば煩わしさからは開放されるのだ。
僕はFと暮らしながらも、Fの帰らない時間が愛しかった。
一人押し入れの隅に隠れて、本を読んでいる時間を愛する子供と同じだった。
だから、予期されるその音のない世界は、きっと自分を一人にしてくれる場所だと黒い誘惑者は僕を招くのだ。
でも、愚かしい想像はつきつめれば、その無音領域にずっと居なければならないことを暗示する。
いつまでも押し入れにいて満足できる子供がいるだろうか。
押入れの外まで暗くなってしまえば、怖くて出なければならない、誰かしらを求めていかずにはいられない。
本当に孤独が必要なら、Fを求めてはならないのだ。

Fに与える負担について、Fが居なくなる寂しさについて考えながら、この暗い欲望の果てには、Fに捨てられたいという欲望もあることが鏡像のように、しっかり屹立していると思い知らされる。
Fの愛情が重荷になって、息苦しくなっているのも否めないのだ。



前週の日曜からはじまった、ある展覧会に僕は来ていた。
会期終了までまだゆうに二ヶ月あるからだろう、人気の高いはずの現代美術家の作品の周囲は閑散とし、薄く張った絨毯を歩く足音さえも、響きわたるような静けさだった。
こういう場所では、耳鳴りはラジオのチューニング途中のような細かなノイズとなって身を潜めている。
空調で一定に保たれた湿度や気温の中でも、昼下がりの気だるさは漂い、柱の角々に座った学芸員の半数は、睡魔に襲われて首を垂れていた。

展示の半ば、百号キャンパスの大作の前で、思索ありげに腕組みしていた僕の耳に、その時、女の甲高い悲鳴が黒板を引っかくように、一筋聞えた。
館内は白いパーテーションで幾重にも区切られ、必要以上に曲折しているので、声がした方へ振りかえっても、死角となって状況が飲めず、立ち尽くす人が数人目に入るだけだった。
長い一拍をおいて、次の悲鳴が聞え、床をどかどかと走りまわる足音が響きはじめた。
見通しが利く柱の角まで、20メートルばかり。
パーテーションを取り払えば、単純な構造体である筈の空間は、必要以上に迷路めいて、自分がどの座標軸にのっているか判別がつかない。
目の前の大作の他に、三枚の小さなデッサン図がかかり、絵のない面には背丈の二倍はあるガラスにグラスファイバーのカーテンが垂れ、その前に背もたれのない四角のゆったりとしたソファが並んでいた。

何か異様な気配が転がり膨れあがる雪だるまのように近付いて、心臓を圧迫する。
次々と上がる悲鳴。
静寂に包まれていた僕の内耳は混乱し、精確に情報がつかめない。
甲高い叫び声、走りまわる沢山の足音、高音域と低音域が交錯している。
世界にはありとあらゆる音が犇きあっているが、人はその中から自分に必要な音だけを取捨選択して、情報を得ている。
ただ、僕のように、外音の増加にあわせて内音も複雑に反響してしまう感覚器では、その濾過作用が上手く作動しないのだ。
否応なく高鳴る心音に呼応して、ずっくずっくと血流がノイズに変換され、悲鳴に似た高周波のぴんと張り詰めたノイズも混じりはじめる。
処理可能な量をはるかに上回った外音と内音のミクスチャアが、脳髄で激しく明滅する。
こうなると、もう僕は聴覚を捨てて、視覚に頼るしかなくなるのだ。

火事や地震ならば、入口に近い方に戻るのがいいのだろうが、その角を戻ってはいけないと第六感が知らせた。
奥の展示室へ逃げようとしたとき、「助けて!」と絶叫する女性が飛び込んできた。
顔面は全く血の気をなくし、振り乱した髪は頬にはりつき、紫に黒んずんだ口の端からはだらだらと唾液をたらして、顔を構成する部品がことごとく褶曲し、そしてどさりと倒れる。
衣類は背中をななめに裂かれ、吹き出る血液に染まり、もはや元の色も分からない。
誰かが刃をふりまわしているのだ。
悶絶する彼女が、恐怖のあまり絶ち尽くす女子高生とおぼしき若い女の足首を掴んだ。
「ひっ」息をつめる短い叫び声を上げた少女は、歩行を阻まれたまま、その場にへたりこんだ。

こんな酸鼻な光景が、パーテーションの死角の向こうにも続いているのだと確信した時、あいつが現れたのだ。
酩酊したように、歩行はジグザグに揺れて、壁や窓にぶつかっては大きく体を傾ぐ。
目は血だまりのようだ。
返り血が、幾方向にもしぶき、恐ろしい模様になって、男の貧相なTシャツを飾っている。
右手に握った刃を振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。その繰り返しだ。
刃が描く弧の中に、物質がはいっていようと、いなかろうと男は連続運動をやめようとしない。
展示物のかかった白い壁にも、陰惨な模様をまきちらす。
ぶつかる対象が、ソファでも人間でも、同じ動きを繰り返す。

ねじの切れかかった不気味な自動人形のように、僕のいる場所に近づいてきた。
先程、へたりこんだ若い女性は、恐怖で硬直した足を動かす術が見つからず、まるで熊に襲われた人間が演じるように、床に臥した女性に覆い被さって、血の通わぬ物体に身を転じ、湧きあがる震えを必死に抑えようとしている。
僕もまた、逃げ出せず、その場に愚かしい塑像のように立ち尽くした。
筋肉は萎縮し、足は一歩も前へ出せないのだ。
しかし、視覚だけは冷静沈着に男の姿を捉えていた。
凝視すれば、相手にその視線を気付かれて、自分の身が危ないとわかっていながら、目を離すことができない。
日常の時間軸ならば、彼が刃を振り下ろす速度、右へ左へと体を翻す動きが、もっと早く見えているはずなのに、視覚が過敏になっているせいか、まるでコマ送りをしているように、空間で動くものすべてが緩慢に見えるのだ。

ぶるぶるした卵白に浮かぶ真っ赤な男の眼球は宙を見つめているだけだ。
対象物を捉え、認識する機構が脱落している。
だから、床にうずくまった二人の女性の体に足が引っ掛かった時、男はあっけなく毛躓いて倒れた、僕のつま先すれすれに。
「ううう、ううう・・・」獣を思わせる唸り声。
男は勢いよく立ちあがり、なんの躊躇いもなしに、自分の行く手を阻んだ慄く女に刃をつきたてた。
引き抜くと血しぶきが舞いあがり、僕の白いズボンに無数に汚辱の斑点を吹きつける。
男が振りかえった。

どろり、濁った眼球が零れ落ちそうな視線。
ああ、僕はその時、その全く意味をもたない無感情な視線に射抜かれて、磔にされた気分だった。
そう、かつて僕がいたずらに描いた磔刑図の少年のように、遅からず訪なう「死」を甘受する身。
ひた隠しにしてきた赦されない欲望を、露わにし、轟々と風が鳴る荒野に野ざらしにされる。

耳殻の奥で、延々と反響していたノイズが不意に消え、世界は凍りついたように思えた。
背後に回った男の左腕が、僕の首を挟みこんだ。
息苦しさよりも、頚骨の一節一節がぎりぎりと締め付けられる痛み。
背中は荒い呼吸で上下する男の胸に押しつけられ、男の汚れた汗の飛沫は僕のうなじに弾け飛ぶ。

次の瞬間、入口の方から慌しい複数の足音が、怒号と共に乱入した。
容赦ない殺傷運動が停止し、僕を羽交締めにした男の周りに、警備員が円をなす。
「おい、もう馬鹿なことはやめろ!」「それ以上人を殺めるな!」
男は答えない。
右腕に握り込まれた刃は金属的な光沢を失って、手指と一緒に錆止めのペンキをかぶったように、大量の血で穢れている。

左耳のすぐそばで鳴る男の息づかいが、あまりにも大きい。
警備員の動作が滑稽な無声映画のように、かくかくと関節をひとつずつ捻るように見える。
耳朶にかかる淀んだ熱風は、僕の体温を徐々に攪拌し始める。
満員電車や映画館の狭い個室の中で、真近に感じる懐かしいすえた男の匂いだ。
眩暈を覚えるほどに、Fと暮らしはじめてから遠ざかっていた、獣の匂い。
Fに操を立てていたわけではないし、性欲を満たすために遊び歩いてはいたが、それでも相手は得体が知れた範疇の男たちだった。

この匂いには、希望も幸福もなにもない。
ただがむしゃらな、交尾だけを暗示させる匂いだ。
「死」がそこにある。
男が持つ、切っ先が僕の体を切り刻む。
極上の痛みと闇が、そこにある。
そう思うと、僕は男の汚れた衣類を破って、性器にむしゃぶりつきたいような興奮を覚えた。
僕自身も猛っているのが、はっきりわかるのだ。
ゆらりと勃ちあがり、血管を波打たせ、蒼ざめた亀頭から喜悦の涙を流している。

警備員は、相変わらず、口をパクパク開けて、何事か叫んでいる。
彼らには、僕がどんな風に見えているだろう。
人質にとられた恐怖で、ガタガタと震えているように見えるだろうか。

張力限界にまで引き伸ばされた均衡が、プラトーを迎え、崩れようとしていた。
男の呼吸はあくまで荒く、途切れてしまった刃の対象をどこにもって行こうかと、唸りながら観察している。
しかし、男の目には本当は何も映っていないのだろう。
網膜に結んだ像は、単純な像にすぎず、なすべきことを決定する情報とはなり得ない。
僕が、こいつの次の行動をきめてやらねばなるまい。
美術館一杯に、はりつめた悲鳴と戦慄を、もう決壊してやってもいいはずだ。

僕は、首を傾け男にしなだれかかった。
そして、男の耳元に囁いたのだ。


熱い、熱い、熱い、熱い、・・・・・・・・痺れ。
閉じられていた外音のバルブが一気に口を開け、そして一瞬にして、消えた。
内側から発するノイズは恐ろしいほどの勢いで加速増大し、右脳を押しつぶすように爆発したあとに、さわさわと鎮火した。

激しく床に振り落とされたもつれた肉体の中から、僕は腕をあげ、左頬に当てた指先にぬめる液体を感じた。
そして、そっと上方へ指を伸ばし、探った。
顔面の横に位置する飛び出した器官は、美しく刈り取られていた。
渦巻き模様の指紋を象るあらゆる溝に、爪と肉とのはざまに、血液が流れ込む。

その時、薄れていく意識のなかで、明らかに内腿に流れる液体をも感じたのだ。
Kが絵の中で最期の瞬間に放ったのと同じ、大量の白く濁ったゼラチン質を。
強烈な快楽を。
迎えるべき絶望の壁面に向かって、ぶちまけられたのだ。


新聞には、事件は次のように記されていた。

・・・・X日午後三時ごろ、都内XX美術館(X区XXX)に男が乱入し、持っていた出刃包丁で八人を無差別に切り付けた。容疑者、XXXX(高校教諭・36)は館内で警備員に取り押さえられ、XX署に殺人・傷害の疑いで逮捕連行された。容疑者は精神錯乱状態で、事情聴取は不可能として、一旦警察病院にて入院のもよう。また、被害者は美術館に来ていた女性・XXXX(21)さん、勤務中の学芸員XXXX(34)さんをはじめとして七人がすでに出血多量により搬送先の病院にて死亡、最後に怪我を負った男性XXX(29)さんは顔面に損傷を受け、意識不明の重体。
容疑者XXの勤務先であるXX高校校長によれば、XXはX月より欠勤が多くなり、授業も中途で退室するなど、勤務態度に対して何度も訓告を受けていた。また、X日は朝から無断欠勤であったという。・・・・・


事件から一週間後、ようやく意識を取り戻した僕は、警官が面会を申し込んでくる前に、事件のあらましを知ろうと新聞に目を通した。
マスメディアでは、ヒステリックに犯人が極度のノイローゼ状態にあったことや、無差別に死を迎えてしまった女性たちの家族の無念さを主に取り上げていたが、被害者の中で唯一生き残った僕については、重体ということも手伝って、ほとんど情報をもたらしていなかった。
何よりも僕は、犯人の死を望んでいた。
無差別殺人を行った彼の非道ぶりに、鉄槌を食らわさんためではない。
まったくの自己防衛のために、彼の口を封じたかったのだ。

新聞を与えてくれたのは、ほかならぬFである。
目覚めた時、泣きはらし充血した目で心配そうに僕を覗き込む彼の掌に、「大丈夫」と指で字を書いた。
「よかった・・・・・」
Fの唇はそう動き、しゃくりあげながら涙を流しつづけた。
でも、もう僕には、彼の嗚咽も優しい声も、二度と耳にすることはできない。

「疲れただろうから、少し眠った方がいい」
新聞を取り上げ、毛布と布団を襟元近くまで引き上げ、眠りを促すように僕の瞼を閉じさせたFはICUからでていった。
薄目を開けて、スライドドアの向こうに消えるFの姿を目で追いながら、事件の光景を反芻し、心の中でFに話かけた。

「あの男は自殺して、僕の裏切りを永遠に秘してくれると思ったが、あいつは死ななかった。
でも、狂気の果ての自供は僕を破滅させることはないはずだろう。
僕が裏切ったのは君の愛情だ。
告白すれば、君は僕を捨てるだろうか。
いや、君は気付いても隠しつづけるにちがいない。敏感過ぎて、悲しみをひた隠す君だから。
捨ててくれていいんだ。
僕は、本当はそうやって酷くされることを望んでいるんだから。

犯人に刃を突きつけられて、僕はこう言ったんだよ。
『左耳を切り落としてくれ』 とね」


********
絹子は左耳の中にある有毛細胞の100%を殺してしまいました。
そして、他人には聞こえない色んな音を毎日蒐集しては、小さな壷に溜め込んでいるのです。

このお話を書いた頃、絹子は世界から壷にもぐりこんで、あらゆるお仕着せの「愛情」から身を引き剥がしたいと望んでいました。
いまは・・・想像するだけです。絹子’という存在が、音をなくした世界で彷徨し、絶望する様を想像しぞっと総毛立ちながら、口の中にできた角砂糖を舐めているのです。
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Author:絹山絹子
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