2017-05

without myself

冗談で、誰かのことを揶揄して、ありえざる単語としてworstestって呼んだけど
どうやら、真逆のbestestっていう語彙が存在するようだ。
っていうことを、クリスティ自伝のルビで知る。
ならば、ワーステストもネイティブさんは使うのかもなあって思う。

ネットを巡る発言には色々あって
ついでに、安直な共感とも呼べるのか呼べないのか
「いいね!」とか「拍手」とか「リツイート」とかもあって。
ただ色んなものの中で、僕が一様に思うことは
「ああ、世の人は自己を語らない事こそかっこいい」ってことになってるんだなということ。
ジャンルはなんでもいい。
感想でも、面白いとか悲しいは許される。
でも、自己の内面の奥の芯を絡めたら、もうそれは不細工とみなされる。
ようだ。
意見を述べてもいいけど、自分の芯とは必ず距離を置く。

どう云ったらいいのかなあ。
それが自然に出来る人が現代人なのかな。
例えば、愚痴や、自分のネガティブ思考は決して出しちゃだめだと、みんな無意識に抑圧してるような。
もちろん、それが自然に出来てる人も沢山いる。
でも、同じことができない人はどうしたらいいのか。
できないけど、吐露せずにはいられない人はどうしたらいいのか。

恐らく、昔の人は、日記という紙に綴ったものなのだ。
決して誰にも見せないという密約のもとに。
けれど、どこかにいても決して現実の自分を知らない誰かにだけ、己の狂気を知っていてほしいと願う、まったく矛盾した、全くの得手勝手な人間は、どうしていたのだろう、かつて。

考えられるのは
多くの筆名をもち、
なんらかの印刷物に刷ってばらまく
(今では秘密のブログの開設とか)
それでなんとか手の隙間からこぼれそうな吐瀉物を落とすこと。

でも。
果してこれで、その人の苦しみは緩和するのだろうか。

人格は過度に細分化されてゆく。
狂気は進む。
本当の狂気の淵を超えれば楽になるけれど、こうした利己的な苦悩者は、いつまでも現実を手放せない。
何を求めているのかすら分からないのに、強請りつづけ、突っぱね続ける。

本当に喋りたいことがあると信じつづけてながら、
喋れば拒まれると先回りして、自分で檻の中に入り、さらに子持ちの檻を作って閉じこもり、さらに小さな檻へと進む。
もう最初の鍵の在処は消え、実際には予測の上に立つ「本当に喋りたいこと」もシャボン玉みたいに弾けて消える。

この重み。
胃の上に押しかかる愚昧な重み。
嘔吐もできぬ脆弱な横隔膜。

僕を救うのは僕の使命だろうが、
匙を投げたい。
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絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
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