2017-08

照射

たとえば、人格というものはこんなものではないかと想像してみる。

形はなんでもいいが、円筒形あるいは円盤を螺旋状にねじったものが
中空からぶらさがっていると仮定する。
穴があいていて色とりどりのセロファンが張られている。
そこへ光が当てられる。
光はいずれの方向から来るかといえば、勿論さまざまであって、
我々は光源を他者と呼んでもいいし、状況と呼んでもいい。
光は必ずしも一個所から発せられるわけではなく、多くは同時に多方向からやってきて
あるいは、円筒内部から、または螺旋の中心から発せられることもある。

そして、いずこからか発せられた光の一部はそのセロファンを通過し、色を得る。
光源が複数ある場合には、色は混じり合い、
あるいは円筒や円盤のセロファン以外の部分に当ったものは影をおとし、像を結ぶこともある。

そして、そこに出来あがったものを、人格の持主も見るわけであり、
光源たる他者も見るわけだ。
当然ながら、複雑に交差した色や像は視点の違いによって、異なる様を産み出す。
ただ、人格の持主には、その結果はある程度予測されたものであり、
あるいは彼に慣れ親しんだ者にとっても、予測された範囲に収まることも多い。

勿論、状況という異なる光、他者の組み合わせによって予想外の結果も生じるであろうが
概ね、彼はその結果を知っていて、
知っているからこそ、彼は時に自ら円筒を廻し、螺旋の褶曲角度を変えて
光に当る部分を減らそうとしたり増やそうとしたりもする。

さて、予測されうる結果というのは、
それが個人にとって佳きものであっても悪しきものであっても、
概ね、身構えることができるという意味で、安堵を生む。
円筒の方向転換をすべきことであっても、余裕をもって行うことが可能だからだ。
そして、結ばれた色や像をすでに、ある値の範囲で提示できるということは
彼だけでなく、他者にとっても安堵を生む。
それを、私達は、「顔」と呼んでいるかもしれない。
あの人に見せる顔、あそこで見せる顔といった具合に。

重ねていう。
この安堵は、照射される光の範囲に応じて対処が可能だから生じる。
では、この範囲が全く異なるところから発せられることになった場合はどうだろうか。
いや、言い方を変えよう。

円筒や円盤は決して無為にぶら下がっていることはないものであって
たとえその光が自ら発せられたものしかない場合であっても、
確実に恣意的に歪まされているものであるのだと考える。
つまり、人格はその個人にとっても、ある限られた顔しかみていないものであると。
そして、彼は、すべての人間はいくつもの顔を持っているのが当然であるとするとき、
光が、全く通常は同時に発せられない状況が産み出されると
無意識であれ、意識的であれ、
その歪みを「同時に」多方向へ向けることは不可能であると結論付ける。
あるいは、結論付ける前に、狂いが生じる。

狂いは制御不能のものであり、
像は瞬く間に崩れ不定型をなし、色は混濁し、乱反射を繰り返す。
たしかに。
その結果は、必ずしも悪でもなく、人格の持主を苦しめることではないかもしれない。
けれど、苦しめうることも、
あるいは、円筒を切り裂き、セロファンを引き破る結果も生むことも
確かにこの世には存在するのだ。

僕はそういうことが云いたいのだよ。

まだ読んでいないけど。
ヒラノケイイチロウ氏の分人という考えも、
こういうことが入っているんじゃないかと予測する。
ただ、僕が云っていることは、説得のためのマイナスイメージだけであって
恐らく、多くの像が混じり合うこと、色の変化を良しとすることだって多分にあるのだろう。
そうでなければ、人と人が新しく出会う意味は
特に新しい集団と集団が出会う意味は無に帰してしまうのだろうから。

ただ、個人的にはすでに予測の段階で、三次元に曲げても四次元に捩じっても
醜い結果しか生まないと思われる橋は渡れないというのが
臆病者の僕の考えである。

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狸穴幼稚園の図書委員

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