2017-04

あんちくらいすと

サイラス・マアナー〈上巻〉 (1952年) (岩波文庫)サイラス・マアナー〈上巻〉 (1952年) (岩波文庫)
(1952)
G.エリオット

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今年はちょっとでも読書量を増やそう。
でも一月はもう終わりに近付いている。
自分にとって、あくまでも己にとって美しい、浜辺に打ち捨てられたような物語に出会いたい。
人はあっけないほど残り少ない時間の中にいつもいるのだから。
少しでもその危機感を自らに課しておかねばならない。

ジョージ・エリオットは男名のペンネームを作った女性。
ディケンズはその繊細さから、女性にちがいないと見抜いたという。
彼女は、清教徒的家庭で育ちながらも次第に反宗教的な感覚をふくらませ、翻訳や随筆を産み出してロンドンに出てきて、そこで出会った妻帯者の男性と恋におちた。
後に終生の伴侶となった彼ジョージの名を、彼女は筆名に使った。

『サイラス・マアナー』は孤独な一職工の闇と光の物語だ。
つづめてしまえば、出来すぎた偶然の重なりを大きな円で包む勧善懲悪譚。
サイラスは、生まれた町で熱心なキリスト教徒であった。
無二の親友があり、婚約者もいた。
癲癇の発作を幾度となく繰り返すので、意識が回復すると周囲の人々は彼に何らかの奇蹟が起きたのではないかと尋ねる。
しかし、彼には「何かが自分に起きた」と感応するほどの思いこみの強さも、あるいは、「何かが自分に起きた」とありもしないことを触れまわるほどの狡猾さもなかった。
彼はあくまで彼自身のみであって、想像によってすらその枠の外にでる人間ではなかった。

サイラスが瀕死の教会の長老を一人で看ていた夜ふけ、事件は起きる。
癲癇の発作が起きたのか、睡魔に襲われたのか、親友が交替にきてくれるはずの時刻がとうに過ぎている。
さらに長老の寝息を確かめると、こと切れていた。
慌てて人を呼びにいき、夜明けを迎えると、彼は殺人犯と窃盗犯になっていた。
長老は失くしたサイラスのナイフで刺され、挙句金が消え、さらにはサイラスの家に証拠となる財布が隠されていたことが発見されたのだ。
勿論、彼は無実を訴えた。
そして失くしたナイフは、かの友人の革紐を切ってやった時以来消えていたことも思いだした。
サイラスは裁判にはかけられなかった。
代わりに、教会は神籤によって真偽を確かめようとした。
結果、彼は有罪とされ、教会からの永久追放を言い渡された。
サイラスの婚約者は、無二の友人のもとへと嫁した。
彼は、すべての絶望の原因を知り、神から見放されたと知って、町を去り、小さな、まるで今まで暮らした町とはまるでしきたりの違う村で職工として暮らすことになった。

これが、サイラスの辿る第一の宗教との別れである。
自主的に神に背くのではなく、神に捨てられた子。
ゆえなく(この時点では)捨てられ、神を忘れざるを得ない、受動的な反宗教の一例が示されている。

そこから十五年あまり、彼は仕事の代価として得られる金貨を集めることにのみ喜びを見出す。
贅沢を欲するのではなく、ただ輝く美しい金貨が床下に溜まって行くのを、夜ごと取り出して枚数を数え、煌めきに触れることだけが、充足であった。
彼の眼は人とのつながりを断つという行為を反映するごとく、実際的に次第に小さくなり、視界は狭まっていった。
なぜつながりを断ったのか。
勿論、他者全般への不信もあったが、村の人々からの扱いも彼にそのような姿勢を作らせたのだ。

その村は、十九世紀前半においても、いまだ中世のごとき匂いが色濃く残っていた。
人々は日々の豊かな穣には恵まれていても、日々の農作業にのみ一生縛られていた。
農作業に従事しないもの、あるいは外部からやって来たものは、すべて異物であり、かといって異物の由来を考えることは、渡り鳥がどこからきたのかと考えない彼らにとっては、無用の疑問であった。
そして何かしらの知恵(薬草程度のことさえも)を持ったもの、何かしら器用にこなすもの(機織りさえも)も、異物であり、異物は「魔女」「魔法使い」と呼ばれてもおかしくない存在であった。
だから、サイラスが村にきて間もなく、母親から教えられたジギタリスを煎じて老婆の病を治したことで、そして彼が織物を次々と生み出すことで、恐ろしい「魔法使い」、そうでなければ「変人」として扱われても、この村では普通のことであった。
そして、この村ではキリスト教の根はまだ浅くしか根づいておらず、文盲の村人にとっては、教えは口伝えによってすら、いまだ深く理解されることはなかった。

つまり、この村の存在、サイラスが逼塞した地全体が、第二の反宗教的のあらわれだったといえる。

村には地主の一家があった。
父親は健在であったが、母親はすでに亡くなっていた。
息子が二人あり、兄は一見信頼に足る後継者にみえて実際は優柔不断で、放蕩者の弟に弱みを握られていた。
一家は、放任主義の父と二人の息子によって破産が近づいていた。
兄には、村一番の美しい恋人がいたが、弟の陥穽によって、近くの街の娼婦と秘密の結婚をしてしまっており、さらに子供までできていて、それを弱みと弟から幾度も金をせびられる事態となっていた。
そして兄は最も大事にしていた愛馬すら弟に奪われる羽目に陥った。
愚かな弟は、馬を売りにいく最中に不注意にも馬を骨折死させてしまう。
そして借金を返す手立てを失った彼は、豪雨の中、以前から金をしこたま溜めこんでいると噂になっていた、サイラスの家へ押し入るのである。
その夜、偶々サイラスは帰宅が遅れ不在であった。
弟は床下から隠された金貨をまんまと盗み出し、遁走した。

こうして、サイラスは、唯一の喜びを奪われた。
神は再び彼を捨てたのである。
だが、彼はここにおいて、自分の金が盗まれたと訴え出ることによって、初めて人々と交流をもつことができるようになった。
そして、彼が「魔法使い」ではなく、一人の「憐れむべき悲しき仲間」であるという小さな扉が開かれた。
人々は彼に助けの手を少しずつ伸ばし始めた。
けれども、彼の眼は絶望に深く引きずられ、ますます小さくなった。

光が齎されたのは、ひどい吹雪の夜だった。
地主の家では豪勢な夜会が開かれ、兄は弟が消えてからも秘密の結婚を解消できない不甲斐ない兄のままであったが、恋人になんとか近づこうともがいていた。
そして街から一人の娼婦が全ての秘密を暴露するために、子供を抱えて雪道を進んでいた。
もう村はすぐそこであった。
けれども彼女の疲弊は限界であり、一本だけと点けた阿片の酔いに惑わされて、雪を暖かなベッドと思いこんだ。
眠りこんだ彼女の腕の中から、幼女がとことこと歩きだす。
扉は開かれていた。
扉のそばに、久しぶりに癲癇の発作を起こして意識を飛ばしたまま立ちつくすサイラスの姿があった。
幼女は、彼の横をすり抜け、暖かな、偽の臥所ではない、本当に暖かな炉の前で眠りに就いた。
意識を取り戻したサイラスは、そこで金色を見た。
自分が集めていた金貨が戻って来たのだと、疑わなかった。
しかし、触れてみるとそれは硬くはなかった。
やわらかな、やわらかな金の巻き毛だった。

こうして彼は、奪われた金貨の代わりに、小さな女の子を与えられたのである。
神は、非常に遠回りな方法で、ようやく巨大な円の切端の一つを繋げ始めた。

物語は、まだ長い時間をかけて、すべての謎解きや、サイラスのみならず登場人物の多くに喜びや悲しみにみちた結末を用意しているのだが、粗筋を追うのはここまでにしょう。
かなり書きすぎてしまったので、特に第二部は、読む方の楽しみにしておきたい。

こうやって書き出すと、本書はまるでメロドラマの原形のような形態だと分かってもらえると思う。
ドラマチックで取り返しのつかない愛憎劇はいつの時代も人気で、少女漫画も僕の子供時代に流行った「赤い○○」も韓流もみんな同じだ。
でも、そうした劇場型の内側の筆致は、ひどく内省的で、時に説教的で、そこがジョージ・エリオットの特質でもあり欠点でもあるように思える。
いや、全体の構成の理に落ちる男性的なダイナミックさの裏側に、人の心根の複雑さを読みとる非常に鋭敏で、一種穿ち過ぎにも思える女性的な部分が見え隠れする。

僕はこの美しい物語の中で、ずっと作者の抱えている「神の非在」という疑問を感じていた。
受動的に産み出された反宗教的な状況のなかで、間接的に問いかけ、問いかけする声を聞く。
そして、典型的な一農婦でありよき母であるサイラスの隣人ドリーに担わされた答の一端に涙を浮かべる。
無口で話のうまく喋れないサイラスから何度も、彼の若き日の神から捨てられた事件のあらましをドリーは重ねて尋ね、ようやくと彼女は彼女なりの答を導くのである。

「ええ、それでねマアナーさん、わたしはこういう風におもうんですがね。わたしは神籤を引くことや、答えがただしくなかった、というようなことは、少しもわかりません。牧師さんにでも話してもらうより他にしょうがありますまい。(略)
わたしにはっきりわかって来たというのはね、あの可哀そうなベシー・フォークスのことで心配していたときのことですよ。人のことを、ああ気の毒だと思ったり、真夜中におきてやったりしたところで、とうていその人のことを助けてやることは出来ないような気がするとき、いつでもわたしの心に浮かんでくる考えなんですよ。
―神様はわたしより、ずっとずっとやさしい心を持っておいでになる、ということが思われてくるんです―
だって、わたしは、わたしをつくって下さった神様より、どうしても善くなれる筈がないんですからね。そしてどうしてもわたしには難しいように思われることがあるのも、わたしたちにわからないことが世の中に沢山あるからなんですね。(略)
若しわたしが心の中で、あの悪い男は別として、あんたや、お祈りをしたり神籤をひいた人たちが、正しく、道にもはずれていないと思ったり、またその連中も出来ることなら、あんたに正しいことをしたかったのだ、と考えると、わたしたちをおつくりになり、わたしたちよりずっと物を知っておいでになり、ずっと立派なお心をもたれていられる神様というものは、矢張りいらっしゃるのではないでしょうかね。これだけは、わたしは確に信ずることが出来るのです。(略)
わたしたちのしなければならないことは、信ずるということだけですよ、マアナーさん―わたしたちの知っている限りの正しいことをして、そして信ずる、ということです(略)」



導かれた答に、何を今更と鼻白むむきもあるだろう。
けれども、愚者の、私は無知ではあるが、そこに一つの真実をみるということこそ、それこそ闇の中の一撃の光であると感じるのだ。

ドリーはサイラスへの質問の際、何度も、同じ「聖書」を使っていたのでしょうかと尋ねた。
これも宗教から身を一歩引いた作者の迷いの現れである気がしてならない。
ドリーのたどたどしい言葉の端々には、同じ神の言葉、同じ教えがあったのにも拘わらず、どうして貴方の身にそんな悲劇が起ったのか、無学な私にも(どんなものに対しても)分かるような答があるのでしょうか、という問いかけが確かに潜んでいたのだ。

最後にもう一つ。
成長した愛娘エピーを連れて、サイラスは捨てた町を訪れるエピソードがある。
彼が暮らした町は十九世紀半ば、どうなっていただろうか。
彼に有罪を言い渡したあの教会は、どうなっていただろうか。
親しんでいた人々は、どうなっていただろうか。
あの日の自分はやはり無罪であったと、彼は誰かに告げられたのだろうか。

円は閉じられる。
すべて美しすぎるほどに。
けれども、作者は一点、完全な円は描かず、小さな風穴を残した。

そこが、作者が残したすべて理解することができない、神の業である。










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絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
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