2017-07

記号化

僕はブランドというものの意義がどうしても理解不能なのだが
いつだったか、神戸から来ていた妹が
例のでぃーん&でるーか、とかいうロゴが書かれただけの
布袋を持った女性とあまりに行き逢うものだから
「記号じゃ記号」と云っていたことを思いだす。

何も入りそうもない小さな小さな紙袋。
ただ、てふぁにーとか書かれているだけをぶら下げる。
雑誌付録についている袋、記号としてのロゴと記号化した文様を
洗いざらしで煤けても持ち続ける心理。
どうしても分からないんだなあ。

もし本当のブランドの持つ中味の良さが真にあるのならば
(そこは理解できていない)
それを分かっている人は、そういう記号に
惑わされたり、気どりに使ったりしないのではないだろうかとも思う。

少なくともいえることは、
たしかに記号は一部の人を惑わし、
表層的に過信を呼び起こさせ、
同時にそれを見る一部の人間は、揶揄の対象にするものだということ。

その揶揄が極めて洗練されてゆくと
時に記号は謎と恐怖と、揶揄よりも数段高い笑いを産み出す。
そういう小説が、結構僕は好きで
記号がもつ無機質の美学みたいなものまで感じ取ることができる。

失脚/巫女の死 デュレンマット傑作選 (光文社古典新訳文庫)失脚/巫女の死 デュレンマット傑作選 (光文社古典新訳文庫)
(2012/07/12)
フリードリヒ・デュレンマット

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「失脚」にはAからPが一室に閉じ込められて、恐ろしい心理戦を繰り広げられる。
国家にまで肥大化し崩壊寸前の革命組織の成れの果て。
いつ自分は粛清にあうのか、己の権力を奪われるのか、いずれもが戦々恐々としている。

この場面を見ていて、僕が思いだしたのは
同じ光文社古典文庫で初めて読んだ、チェスタトン「木曜日だった男」。
ABCではなく、曜日でのみ呼ばれる男が見えない組織に潜入する。
あるいは、スミヤキストQ。

それにしても、革命集団やアナーキストは、なんと戯画化されることか。
同時に記号化されることか。
それはそこに、禁欲的で美しいはずの志に遂行のための暴力が加わると、
眼を背けたくなるような非道と恐怖が必ず生まれ
その恐怖が硬直して、外部と乖離していくと、
必ず強烈なバカバカしさ、遂には笑いが生じてしまうからだ。

僕は、いまだ大真面目に内部で結晶化してゆく清い使命も
溢れてしまった恐怖も
最後の笑いも、みんなひっくるめて革命というものに
いつも心惹かれている。
内部で用いるコードネームでも、外部から意図的に名づけられた記号にも
惹かれ続ける。

けれども、意志も恐怖も何もない
巷に溢れる記号には、ただ辟易とするばかり。


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絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
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