2017-04

不遜

カラマーゾフの妹カラマーゾフの妹
(2012/08/02)
高野 史緒

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いいたいことはいっぱいあるけど、脳が吃音状態なので。
勿論、是とする人と向き合うくらいの気概は残ってるんだけど。
ちゃんと論理的に問題点をまとめられず、我ながら卑怯だと思いますが、
とりあえず、メモとして容認できなかった点をあげておきます。

ネタバレにはならないようにしたいけど、
未読の人は、視ない方がいいと思う。
少なくともテンション下がるからねー。

原作を読んだ人が、どの部分に共鳴したかにもよるだろうけど、
少なくとも登場人物の造型の深みに驚嘆した人も多いはず。
父殺しという確かに殺人事件が一つ起き、逮捕され有罪判決を受けた長男ミーチャ(ドミトリー)、実行犯と告白したスメルジャコフ、そして実行を無意識裡に教唆したとされる次男イワン。
各々の役割が明らかにされてはいたが、それが真実であったか否かというのは、
原作では突き詰める必要がないことだった。
少なくとも僕自身は、「そんなこと」よりも遥かに恐ろしい人間の心理劇が原作にはあり、行動原理が個々人の意識を超えて産み出される卓越したドラマ性に、胸を突かれたといって過言ではない。
行動原理のひとつは、カラマーゾフの血であり、その系譜にない登場人物は別の、制御不能な手によって動かされていた。

本作では、まず僕が軽視していた「そんなこと」(事件の真相)を洗いなおすことに主眼がおかれている。
それは、それで悪くない。
なにも問題ではない。
ただ二名の登場人物を除き、ほぼ全ての主要人物を使って、既にドストエフスキーが肉づけした複雑極まりない登場人物をそのまま使って謎を解くならば、最低限、そこに確かにあったはずの人物像を受けなければ、たとえこれが、高級な「二次創作」と呼ばれたとしても、許されることではないと思う。
勿論、時間は十三年間経っている。
けれども、人はそれほど変わってしまえるだろうか?
経験を積めば、行動原理さえも捨てて「丸く」なってしまえるだろうか?

問題は13年後に留まらない。
「二次創作」を行うために、原作を読んでいない読者のために割かれた原作の紹介は、ただ枚数が膨大で本来おこるべき新たな物語量を逼迫するという物理的な問題だけでなく、ここに作者による解釈が完全に侵入した状態で紹介が行われている点にある。
原作で緻密に練り上げられたドラマが、必要な要素のみを抽出するために、切り刻まれている。

言葉はきついと思うが、この作品はオマージュ/パスティーシュと呼ぶことはできない。
僕には不遜きわまりないと感じられた。
まず、受刑者ミーチャが獄死していたこと、そして捜査官などになってしまったイワン、教師になった三男アリューシャの行動。
かくも浅薄な人間になってしまったのか、
かくも口先三寸で愛を語り、涙を流す人間になってしまったのか。

本作では、第二、第三の殺人が起きる。
そして、零番目の殺人も明らかにされる。
ミステリーなら、殺しは起きないといけないのか?
いや、原作のフョードル殺しだけ突き詰めるだけでは、纏まらなかったのか。
焙り出された真犯人は、すべての殺人に関わったという。
確かに、原作の穴をつき(特に金の重複問題や扉の開閉問題)、新たな可能性を導こうとしたのは面白かった。
けれど、もっとも重要な動機はどうだったろう?

原作で産み出された、登場人物の複雑な精神に、果たして合致したか?
少なくとも、赦しうる範囲内の行動であったか?
譲歩して、フョードル殺人に関しては「可」と云えると思う。
だが、第二、第三については、赦しがたい。

本作では、原作にはない人物が二人でる。
心理学の心得があり、イワンと行動をともにする人物、
そして、問題の「妹」である。
前者はほぼ話の中心になるイワンを解明するには不可欠な人物で、問題はないし、かなり魅力的に造型されている。
だが衝撃的で、非常に好奇心をそそる、このタイトルにもつながる「妹」は、どうだろう。
僕には、まったく無用の人物としか感じられなかった。
封印されたイワンの過去を解くための、あるいはイワンとアリョーシャの真の和解のためのアイテムだったのだろうが、逆にいえば、それだけの役割しかになっていない人物である。
悪く言えば、タイトルに衝撃性を付加するために造型された者であり、作者がそうした流れを作りたかったのならば、新キャラなど産まずにエピソードの力ひとつで、なしえたことではなかったか。

本書の最後に、乱歩賞の講評がでていて、本作は亀山訳をベースに作られていることに問題がややある、と書かれていた。
僕が読んだ原作も亀山訳で、他訳とどれほど印象が異なり、亀山訳で人物像がどれほど変化しているのか把握できていないので、この点に異議を唱えるのは問題があると思うが。
少なくとも、亀山氏が予測した、検証し可能性を追求した十三年後、第二部のカラマーゾフの兄弟と本作は全く異なっている。
異なっているというのは、登場人物がとりうる行動原理が、亀山解釈とは完全に一致していないということだ。
確かに、僕の批判のなかには亀山贔屓的な部分があるとは思うが、もし作者が亀山訳や第二部予測図を踏襲しているというのは、おかしいと感じる。
少なくとも、アリョーシャ=革命戦士という構図、アリョーシャが革命に身を投じようとするその理由(本作ではその点が、かなり蔑ろにされていて、理解できない)は全く違っている。

僕はTwitterで「不遜にして無神経」と書いた。
最後に、ペラペラの人物造型以外に赦しがたかった「無神経」について三点挙げておく。
些細な表現の違和感かもしれないが、このような日本語を用いて是とすることがあってはならないと思う。

・スメルジャコフの母リザヴェータの形容
彼女は精神薄弱者で町をさまようことが多かったが、当時このような者は一種聖なる者とみなされ人々からは保護の対象にあったという。彼女がある日妊娠し、カラマーゾフの敷地内で男の子を産み落とした。無類の女好きであったフョードルが手をつけたと専らの噂であったが、本当にフョードルと関係があったかは原作では不明。ただその子はスメルジャコフと名付けられ、カラマーゾフ家の下男に育てるようフョードルは命じた。

そして冒頭で「三兄弟、ないし四兄弟」と言った通り、フョードルには、実はもう一人息子がいた。それはきちんとした結婚から生まれた子ではないばかりか、母親は街中を徘徊する、いわゆる佯狂の女《ユロージヴァヤ》、リザヴェータ・スメルジャーシチャヤだった。
『妹』11p



佯狂!?
これは、狂ったふりをするという意味ではなかったか?
それとも、亀山訳で「聖痴愚」と名付けられたこの単語は、本来そういう意味なのか?
もしかしたら、全体の構成にも関わって来る、あるいは「妹」にも関わるポイントなのかと思い、最後まで我慢したが、このまま放置されている。

・『罪と罰』への言及
どれほどの必要性があったのか、ドストエフスキーとの連環を少しでも滲ませたかったのか、二箇所本作では、『罪と罰』の内容に言及されている。
高利貸しの老婆を殺害したラスコーリニコフは、その場にいたもう一人の女性リザヴェータをも手にかけた、というのが実際の事件である。空間的にも時間的にも、二つの殺人にはラグはほとんどない。

かつてペテルブルグに、似たような思想でもって連続殺人をやらかしたラスコーリニコフという男がおりましたのですが、彼も同じですよ。
『妹』105p

ペテルブルグの連続殺人犯ラスコーリニコフも、イワン・カラマーゾフも、哲学者フリードリッヒ・ニーチェも、人間なのです。
『妹』215p

細かい日本語の問題かもしれないが、個人的には原作への冒涜と感じた。

・「大審問官」という人格名
本作では、イワンを多重人格者とし、現れる人格に名前がつけられている。作者はそのうちの二つに「悪魔」と「大審問官」という名を付した。
原作で長老ゾジマの長い講話と呼べばいいのか、非常に難解で読むのが辛くなる第二部にこの「大審問官」というタイトルがつけられている。
難解こそ素晴らしいわけではないが、幾重にも解釈を読者にもたせるこの第二部の奥行を、本作で「悪魔」などという語彙と並列して用いることによって、あるいは殆ど「大審問官」という人格がどんなものだったかも明らかにしないまま放置することで、どれほど軽薄扱いにしているか、耐えられなかった。
そして、この名前を軽々しく用いたことは、僕が零番目の殺人と呼んだ事態を、作者がどのように扱ったかにも繋がっている。

なんだか、本当に読了して悲しいとしかいいようがない。
こんなにミステリって、人物造型を無視して成立する、謎さえとければいいというものだったのか。
そういう大きな概念すら、個人的には雲散霧消した。
現代の特に日本人の作家を読んでいなくて、そうなった理由がよくよく分かってしまった。
もしかしたら面白いと思える作品があるかもしれないけど、
確率論に促されて、僕は古典の世界に戻ります。


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