2017-07

順応主義者

孤独な青年 (1984年) (ハヤカワ文庫―NV)孤独な青年 (1984年) (ハヤカワ文庫―NV)
(1984/01)
アルベルト・モラヴィア

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子供時代の彼がいかにもだったので
もっと触れなば斬る的なスパイに成長するのかと思ったけど全然違った。
たかがトカゲを殺して歩くことを、本来なら別段おかしくもないのに
「自分の行為を普通」だと認めてくれないとイヤだと言っては友人と大喧嘩し
母親に救いを求めて、猫を殺したといっても話もきいてもらえず、
偶発の使い魔によって、猫も人間も殺してしまうはめになった少年時代。

自分の殺戮の欲望は、いつか大きく膨らむだろうと怯えた少年は
怯えたまま憂いの中にとけこんで、ひたすら思索する人になった。
もっと正常に、いやもっと凡庸に、平均の中の平均のなかに隠れてしまいたい。
それができるならば、結婚もし、懺悔もし、聖体拝受もみんなやる。
嬉しくなるほど雑然と安っぽい、けれど平凡な家に棲み、正常とよばれる場所に留まりたい。
彼は知っている。
本当の「凡庸」の中に暮らす人は、一度だってそのどっぷり浸かった湯の存在に気付かない。
考えることもない。
湯がこぼれることも知らない。

思索する人としない人に優劣はない。
おそらく、彼が「正常」と名付けた範疇の人々に善悪の分かれ目もないように、
範囲の内外で優劣はない。

ただ、悲しいかな、思索する側に生れた人は、
一生考え続ける。
何も生まないかもしれない、ほとんど何も生まない。
それでも考えて考えて、メランコリーから解き放たれることは一生ない。

原題は、"Il conformista" という。
つまり、彼マルチェーロを「孤独」と呼ぶのはちょっとおかしい。
彼は外側の人だから、むしろ「凡庸に順応し見えなくなってしまう」ことを希求する、狂気に近しい人だ。
不思議だ。
多くの外側の人間は、ある種の選民意識で、自ら外へ向うのに。

仲間はずれだけれど、他の外側の人を恋焦がれない。
仲間を探さない。
ただ中に這入りたいだけで、既にもうくぐっているのに、足は湯の中に入っているのに
気付ききれない。
寂しいわけではない。
一人で荒野に立っているわけでもない。
だから、孤独ではないけれど。
ただ神経は、思索する側に入ってしまった者の宿命で、本人に無遠慮なまでに鋭敏に外界を感知する。

誰かの眠れない夜に似て。

疲労と死ぬほどの無気力にぐったりしている感じなのに眠ることができなかった。まるで自分の存在全体に対する悲しくも深い抵抗感といったものを感じていた。そして一風変った比喩がしつこく何度も思い浮かんだ。
自分の電線なのだ。
人類という電線にほかならないので、拒むのも、受け入れるのも彼の力をもってしては如何ともし難い、そんな恐ろしいエネルギーの電流が休みなしにその電線を流れているというわけだ。それは『死の危険』と書いた鉄柱に張ってある高圧線にも似た電線だった。彼はそうした導線の一本にすぎず、電流が時として全身を貫いてうなっても、彼は苦痛を覚えるどころか、かえって大いなる生命力を吹き込まれた感じであり、ときとして、たとえばいまのように、自分にはあまりにも強く、あまりにも烈しく感じられることがあり、そういうときなど、ぴんと張って震える電線であるよりも、いっそ引き抜かれて、作業場の内庭の奥に積まれた屑の山の上で、錆びるにまかせて放置されるほうがよかった。
それに大体、多くの人たちは電流がかすりもしないのに、なぜ自分だけ電流が通されて耐えなくてはいけないのか。さらにいえば、電流はなぜ中断したことがないのか、いっときも彼の中を流れるのをやめないのか。この比較は分離し、答えのない疑問へと枝分かれしていった。
その間に悲しくも気まぐれなけだるさが募って行き、頭をぽっとさせ、意識の鏡をくもらせるのだった。ついにうとうとしてきて、眠りがどうにか電流をさえぎったように思えば、自分が本当にいっとき、ほかのごみといっしょに片隅に投げ棄てられた錆びた電線の切れ端になったようにも思えた。

260p

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狸穴幼稚園の図書委員

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