2017-11

サナトリウム

毎日ダメな自分に向き合う。
不惑と呼ぶけれど、本当のところ惑いすぎるのがこの年代ではないかと思う。
叶えたいと願った夢が少しずつその手から遠のき、
指を伸ばそうにも、体は膿んで頭は倦んで思いだけが熟んで、
何も動けないまま時は過ぎる。

今はただグラフは急激に反比例を辿るけれど、
この下降線はこれから数年もすれば等しく下るわけではなく、
とても緩やかな下降線に変わると
通過した人はいう。

僕が中学一年生だった頃
よくもあれだけ動いていた、かの人を思い出すのだ。
激高しそこらじゅうを蹴飛ばし、大勢を蹴飛ばしていたエネルギーを思うのだ。
あの爆発の動力は、いま自ら渦中にいる負に向かう下降線と同じ源であったのかと。
それならば、決してこれから先も赦すことはないけれど
少しは、ほんの少しは、この倦怠をもって労うことくらいはできるように思う。

人は選ぶ。
何はともあれ、意思をもって選んでいる。
運命などない。
人は選んでいる。
必ず、瞬間瞬間選んでいる。
あなたたちが、家族をもったのも、その結果である。
その結果に責任をもたずに、何事かを叫んだとしても、
そこに残されたのは、未来への長き怨恨にすぎないのである。

だからここで僕が同意できるのは、
汎論的に「うんでゆく」時間なり肉体なりのみであって
一切合財、何も、かけらさえ、僕は継承していないと信じたい。

その確信を得るためには、僕はなんども登山列車に乗って山に向かおう。
高速鉄道の急激に飛び散る景色は僕たちを座席に縛り付け
スイッチバックを繰り返す鈍い登山鉄道は、座標軸を狂わせ
辿り着いた低酸素の気圧は、嘔吐と発熱と眩暈と夢幻を呼ぶ。

そこは天国と見まごう美しい風景を持ちながら
僕たちは幾度となく臨死を体験するのだ。
今一度、呪わしきものを思い出してもいい。
今一度、憎んでもいい。
幾度も死んで、幾度も目ざめ、
そのたびに浄化されるのかと問えば、
或る者は黒ずみ、或る者はいっそう穿たれてゆくこともある。
それでも、そこは。
サナトリウムと呼ばれている。

***

いつも同じことばかり云うけれど
美しい文章に出会うと涙が出る。

魔法の山に登る―トーマス・マンと身体魔法の山に登る―トーマス・マンと身体
(2002/12)
田村 和彦

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この本を開くと
もう一度、僕たちは山に登れるのだ。
ハンス・カストルプと共に、魔法にかけられて。
その半死の楽園で過ごすことができるのだ。

文学研究なんてけっとばせ。
(僕は何度生まれ返っても、文学をお勉強にはしませんので)
そういう珍しいセンセエと共に横臥療法繰り返し、検温繰り返し、血液検査に一喜一憂して、レントゲンの美しい影に花を咲かせ、美味しい食事を日に五度摂って、難解な討論を笑い飛ばし、我らが愛すべき神経衰弱先生・
マンが大好きなレコードを一枚ずつ聴く。

カフカもサナトリウムの常連だったそうじゃないか。
乾布摩擦に冷気浴にミュラー式体操を繰り返し身体の全体性を回復させうるならば、なんでも手を出したそうじゃないか。
病み歪んだものと認識された「ユダヤ的身体」から逃れようとしたそうじゃないか。
ついでに、本の外にも死の山には沢山のお客さんが来ていて
酸素がどんどん稀薄になって失神しても
まだまだ、倦むことから瞬間解放されるようにできている。

およそ対極と見られがちなカフカとマンであるが、前述したヴィラ・クリストフォロは二人を結びつける接点でもある。(略)このサナトリウムの滞在リストには、ズーダーマン、モルゲンシュテルンといった文学者のほか、チェザーレ・ロンブローゾ、マグヌス・ヒルシフェルト、ルドルフ・シュタイナーらの名前もある。山深く人里はなれたサナトリウムを中心に、プラハやミュンヘンの文学者から始まって、イタリアの形質犯罪学者、ベルリン性科学研究所の同性愛研究者、後の神智学の創始者までが次々に逗留しているのは興味深い図とはいえまいか。
62-63p

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Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
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