2017-11

hesitation

その人のことはいままで書いた事がない。
大勢ファンがいて、大勢が応援している人だからね。
だからこそファンですと公言するのが気恥ずかしい。

twitterを始めたのもその人がきっかけだった。
以前から社会に向かって真っ向勝負なモノ言う人であり、
沢山の衝突があり、空回りしているような部分もあり、
その骨太さは才能も声も作品も精神も一貫していて、
高い誇りの持ち主だった。

3.11の後、その人は休むことがなくなった。
小柄な体躯で次々になすべきことを探し、動き回り、新しい力を生んできた。
有名人は知名度を生かすことによって、
人々の中に小さく芽生えた何かしたいという気持を現実のものと
大きなものにする纏め役を買って出る人もいた。
勿論この人も自分の影響力を知った上で動くこともあったけれど、
それ以上に一個人として新しい動きを起こそうとしている。

一年間、僕はずっとそれを「傍観」していたにすぎない。
こんなに毎日無理を重ねて大丈夫だろうか、
それでもこの一年継続された力は、この人の中で恒久的に続いていくだろうと
何の疑問もなく思ってしまう強靭さがある。

呼びかけに応じて募金をするだけ、
地産品を積極的に買うだけしかできなかった僕は
後ろめたさと同時に、より一層の傍観の気持に陥る。

人の心がわからないと日々絶望しても
こんなに明明白白な悲しみさえも理解できないのだろうかと
一年たって思う。
全ては自分よがりに時間軸が回っていて、
個人主義はとても安らぎを与えるけれども、
昨日の自称・不適合者と同じに、同じ分量だけ不能感を味わう。

むかし。
中学の社会科で一年生の担任だった先生が、
僕たちが高校生の時に40代で天に召された。
葬儀に行ってきた同級生にかけた問いで
僕は彼女から絶交を申し渡されたのだった。
自分の好きだった国語の先生は参列していたのかと
尋ねてしまったのだった。

自分勝手な利己的で浅薄な心持ちは、きっと今も変わっていない。

だから、日曜の日比谷の3.11イベントに
本当に向かっていいのかと何度も問いかけるのだ。
足を向ける理由は、その人の歌声をまた聴きたいなと思っているからが
ほとんどじゃないのかと。
トークイベントを観たいというのが
ほとんどじゃないのかと。

そういうあざとい心で向かう場所ではないはずだと、
足に釘を打つべきではないか。

でも、もしかしたら。
黙して祈ることしかできない人たち
あざとい気持で、ファン心理だけで誰かを観たいがために向かう人たち
であっても
そこにいて、彼ら人々を動かす人達の発信を聴くことによって、
この先へ続く別の動きを生み出す機会がひとつでも生まれれば
彼らの一つの役割は成立したことになる、
という考えも十分にある。
いや、もしかしたらではなく、
ミーハーでもいい、やじ馬でもいい、
そこに集った人たちの心に何か動きが生まれたら、めっけもん。
そういう明るい前進を望んでのイベントなんだろうと思う。

だから、前日まで、決断を延ばして、
行けるか行けないか、行くか行かないか、
考え続けようと思う。
そうして熟考することが、最低限の償い/礼儀ではないかと思う。
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絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
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