2017-06

時折焦点があう

トーマス・マン (同時代ライブラリー)トーマス・マン (同時代ライブラリー)
(1994/01/17)
辻 邦生

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とても分かりにくいけど、愛はいっぱいのこの本。
湯船に落としても、それもまた愛(なんじゃらほい)な気分でお風呂で読む。
湯あたりしそうです。

ぼくカタカナがとっても弱いので。
ノイシュバインシュタイン城とかタマクラカン砂漠とか戦艦ポッキンチョムとかマレーデ・ネートリッヒとかツトラストラストラはかく語りきとか…。
いつもそんな酷い状態なので、今回もイロニーとかフモールとかデモーニッシュとか混ぜ混ぜに出てくるので、
「エローニッシュってなんだよ!ずーっと分からないまま半分以上過ぎたぜ」
と云ったら。
実はイローニッシュとエローテッィシュでした。
みたいな事件が起きています。

しかし…それにしても…この本は、しいて言うなら。
松本人志のMHKに出てくるコントの探偵・三河安城シリーズ。
前回は犬神家のパロディで、ゴリラがあのスケタケに扮する!でしたが、
この高下駄ノビタ眼鏡角帽姿の探偵は
みゃあみゃあ名古屋弁なのですが、口癖の一つに、
「○○的かつ、▼▼的かつ、□□的かつ、★★的にみても、犯人は…でしょう」
というのがございまして。

まさしく、この本は、「○○的かつ、▼▼的かつ、□□的かつ、★★的」の
「かつ」すらないのであります。
つまり「○○的▼▼的□□的★★的」

おお、呪わしきかな抽象名詞群よ!
何が書いてあるのか、愛なくして読めないのであります。
でも、ラブ眼鏡でやっと理解できた、お気に入りの所を抜き取る。
そしてニーチェもショウペンハウワーも一向に分かっていない僕は、なるほど~と感嘆するのであります。

前半でたとえ評論においても、
小説家にしか書けない「エピソードに富んだ楽しい概念の展開」とマンを讃え
自らも、北杜夫との学生時代のマン談義の花をとても面白く読ませてくれながら。
それ以降は、自分も作家なのに、
ガッチガッチの鋼鉄評論、洒脱の欠片もない状態に陥るのもいただけません。

が、ひとつ、いいなあと感じたのは。
仏文畑にいる人が、ドイツ人マンを深くとらえようとする時、
必ず出てくるジッドをはじめとしたフランス文学との対比、これは深いように思えるのです。

今まで、予備知識なく読んだ「魔の山」と「ファウスト博士」。
あの魂の揺さぶりをもう一度というわけで、
昨日素氏が見つけてくれた、「ブッデンブローク家」に入るのであります。
カタカナ弱い族は、当然ながらつい最近まで、ブッテンブローグと覚えていました。

トーマス・マンは『略伝』のなかで「疑いもなくニーチェから精神的にも文体的にも影響をうけたことは、私が発表した最初の散文習作から見ても、すでにそれと明らかに知れるのである」と書いているように、ニーチェは若いマンの精神形成に本質的な役割を果すが、しかしマンがニーチェに見たものは、決して「ルネサンスかぶれの、超人崇拝の、チェザーレ・ボルジア式の唯美主義」ではなかった。むしろ若いマンは、ニーチェかぶれした「血と大地と美の讃美」に軽蔑さえ感じている。現在たとえばハイデガーを通過したあとのわれわれの眼から見ると、西欧ニヒリズムの克服者としてのニーチェの相貌がはっきりと浮かび上がってくるが、ほとんどニーチェと同時代者であった若いトーマス・マンが、「自己克服者」としてのニーチェを眺め、「ニーチェの言うことはほとんど何一つ信じなかった」と言っているのは、若いマンの洞察力がなみなみではなかったことを示している。マンが「何といっても、ニーチェが私に及ぼした個人的変化は市民化するという意味のものであったと思われる」と述懐するとき、ニーチェ哲学が果たした両刃の剣に似た役割を考えないわけにはいかない。
ニーチェが精神を憎み死を憎むのは、精神が、生から、生本来の故郷を奪い、認識の中立性のなかに孤立するからである。彼ははっきり生の拒否者としての大ヴァーグナーを否認し、生と戯れ、生の心意気をうたう小ビゼーを認めようとする。ニーチェ心酔者は生を謳歌するが、それは内面化されたままの生、いささかの市民性・社会性のかかわりをも拒否し、生それ自体の肥大化のなかで個人意識、文化意識を高めていく生、にほかならない。トーマス・マンは、はっきり、この内面化されたままの生が、ニーチェの誤読によって、唯美的に生そのものを讃美する危険をみていたのだ。ニーチェがヴァーグナー対ビゼーという極端な図式まで出して糾弾するのは、こうした精神化し内面化した生のなかに見てとれる青白い孤独性、倨傲性なのだ。ニーチェは生を謳歌するが、それは何よりもまず生の内面に食い込み、深く巣食っているニヒリズムの源泉たる精神を、克服することであった。それは、生が、自らの孤独を脱して、生命のほうへ、市民のほうへ、政治のほうへ、文明化された社会のほうへ歩み出ることに他ならなかった。
マンがニーチェを「自己克服者」と呼び、ニーチェを通して自らが「市民化する」と言ったのは、こうしたニーチェの真意を読みとり得たからであった。「ニーチェが文学的に煽りつけた一切の英雄的な美的な陶酔」が決してニーチェの真意ではなく、あくまでニヒリズムの克服こそが――西欧的生、とくにドイツ的生のなかに食い入ったこの孤立化する精神という〈生概念の反対者〉の克服こそが――ニーチェが生涯かけて戦った相手だったことを、マンは小説家本能によって嗅ぎとっていたのである。

126-127p


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