2017-05

カメラ!カメラ!カメラ!

第二回 ズンドコ杯争奪 読んでみやがれ!感想文の会
指定図書:『フリッカー、あるいは映画の魔 上・下』 セオドア・ローザック
田中靖・訳 文春文庫 1999

推薦人:素天堂
感想担当:絹山絹子

フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉フリッカー、あるいは映画の魔〈下〉


欠如は想像を喚起する泉だ。
読書は、物語を掴み取ることは、欠けた情報を読者の来歴をもって補完しつつ目裏の劇場に投影する作業。
過剰な情報が与えられ続けても、視覚聴覚を不足した状態では、例えば「映画」のようなものに対抗することができないのかといえば―――。
現実対抗し、凌いでしまう作品も数多ある、というしかない。
それは、想像というものを補完すべき色彩が、不足した状態に、穴の空いたそれもどう空いているかも各人各様にしか取れない穴に、ぎゅっとシリコン剤や絵の具や音質をあてはめることができる自由度からきている。
例えば小説から始まった一つの世界が、挿絵を加えられ漫画として動きをもち、さらにアニメーションへと広がって、最後に実写化されるに伴って抱く、喪失感と違和感がそれを裏打ちしている。
では、言葉だけで、どこまで音と画をもった「映画」というものに肉薄することができるのだろうか。
あるいは、極限にまで肉薄できるなら、読者の想像力を欠如させ不満を抱かせる一点にまで到達することが可能だろうか。

プイグの『蜘蛛女のキス』を読んだ時、そこに浮かび上がった映像の、もしかしたら真実その映画を前にしても見落としてしまう部分にまで視線が誘導されていく快楽に酔いしれた。
映画監督を目指したプイグは、なしえなかった映像への憧憬を方法論に転嫁して、新たな境地を小説というジャンルに広げて見せた。
一方で、セオドア・ローザックはまったく別の方法で映画を小説に飲み込んでしまっている。
『蜘蛛女のキス』は、実在する映画、あるいはそれらのミクスチュアを会話文の間に過剰に挟みこむことによって、二人の男の関係を浮かび上がらせた。
だが、『フリッカー』においては、実在の映画を映像をただ読者の網膜に投影し、浮かぶとも消えるともいえない淡い感情の機微を惹起するといった、いわば甘い方法に頼っていない。
もっと高等な、いやむしろもっと狡猾で悪魔的な方法で「映画」を語っている。
映画の「魔」という副題は訳者によって付されたもののようだが、これはまさに推薦人の言葉を借りるまでもなく、「魔」というしかない大作だった。

この作品は、ミステリーであるという。
推薦人は、あやふやな記憶のまま「人が死ぬ」と告げたが、いつまで経っても順当な意味の殺人事件は起こりはしなかった。
嘘を言って。
そう詰っても、この場合意味はないことを、終盤において、残り二章に突入して卒然と理解した。
誰も死なない。誰も殺されない。
悪、主犯格と捉えられるカタリ派の教団・嵐の孤児の重要な教理そのものが、「殺さない」なのだから、通常の意味での死体は転がらない。
とはいえ、死体は予め転がっている。
謎の中心人物であるマックス・キャッスル本人が、水難事故により死んだと、伝えられているからだ。

もうひとつ、あやふやな死体はゾンビとして、彼の実体以上に雄弁で魅惑的な映像の断片、フィルムの隙間でほくそ笑み爪を研ぐトリックとして、徐々に立ち上がってくる。
主人公の指南者クレアは最初にマックス・キャッスルの映像を見たとき、身を震わせた。
辛辣な唇は、惹かれてしまう魔の力に抗おうと、二度と彼の映像を見ないと誓った。
監督は死しても、その作品はまざまざと蘇る。
そして、我々は最後に驚愕を持って、本物のゾンビが、孤島に生きながらえていることを知る。
この生霊が、マックスが生み出したあらゆる怪物よりも当然に人間臭い塊であることで、余計に驚かされる。
最後の二章にかかったら、一種の嘆息が洩れてしまうのはこのためだ。

ミステリーには謎が不可欠。
それでは、解き明かしたかったものは、本当の謎はなんだったのだろうと、首を振ってしまう。
結局我々は、マックス・キャッスルという亡霊の実体を追い求め、彼の映像が望んだ闇を貪り、その闇の意味を知りたがっていたのではなかったか。
悪く言えば、荒唐無稽化していく、あらゆる歴史上の「悪い種」(ヒトラーなど)はその宗教団体が、この世から全てを抹殺し、己たちをも含めて無に帰してしまおうという、忍従に継ぐ忍従によってなしえた成果であるという話に辿り着いたときから、首をひねり始めていた。
これでは、執拗に描き続けたマックス・キャッスルの映画、あらゆる映画を取り巻く気配が霞んでしまうではないか。

だが、セオドア・ローザックは、大仰に広げてしまった風呂敷を、収拾不能になったと逃げてしまうわけではない。
むしろ風呂敷自体が、曖昧な織物であったと、翻すのである。
敵は味方であり、味方はまた敵である。
読者は最後に、翻った半透明の敷物がもやもやと霞んでいくのを眺めながら、はたと自分たちは何を探していたのか分からなくなる。
マックス・キャッスルは、本当に教団に対立する忌むべき孤児だったのか。
教団は、本当に主人公に宣伝塔の土台になって欲しがったのか。
彼らの世界滅亡への暗躍は、どこまで進んでいたのか。

謎の骨格自体を謎として、読者の目的を海中に沈め、作者は微笑むこともなく去っていく。
このスタイルを呆然と眺めては、なんとなく、アンチ・ミステリーだのメタフィクションだの血にも肉にもならない形容が頭の中を掠め去っていくのだった。

知りすぎた主人公は、今やゾンビと暮らしている。
餌としての鉄缶の中でフィルムが日々朽ちていくのに、獣じみた唸りを上げながら、うろうろと孤島を徘徊している。
彼もまた、魔に飲み込まれ、一種の怪物となる。
おそらくたった一人の理解者であったクレアも、どこかで徘徊しているのだろう。


全体としては、以上のような印象だったのだが、もう少し、細部について書いてみたい。

おそらく、この作品では、映画だけでなくあらゆるこの世界の「魔」というものを文字媒体によって描くことに挑戦しているように思える。
女性読者ならば、全体に流れる言い知れぬ不快感を特に感じることができるのではないか。
主人公は、ありふれた男だ。
思春期から壮年期に至るまで、常に肉欲と隣り合わせにある。
彼が関わった主に四人の女性は、いずれも型は異なるとはいえ、彼女達との交情はひどく猥雑で息苦しい。
野心的な映像評論家であり、あらゆる意味で彼の導き手であったクレアは、セックスの最中に講義を行い、むき出しの肉体のまま、原初的な腕力で、こちらの首を絞める。
キャッスルを英雄視する貶められたカメラマンの妻は、いまやかつて主人公に映画の喜びを知らしめ夢中にさせた女優の俤をすべて消し去って、醜悪に肌を密着させる。
キャッスルの愛人だったオルガは、まるでその名が語るように、肉を交わさないヨガの手法で最高のオルガスムスを与えてくる。
60年代フランスの典型的なインテリ哲学者の元から主人公の元へとやってきた女学生も、キャッスルの魔手に侵されて(教団の教理は、子供のを産まないことだから)、主人公が性的不能になった事実をあからさまにして去っていく。

こうして多面的に捉えられたと思われる四人の女性の姿は、明らかに男性の捉える集合体に過ぎず、捉え残された、忘れ去れた影こそと、読者を憤怒させることに成功している。
また、過剰な不快感というならば、マックス・キャッスル作品の描写以上に、キャッスルの後継者であり、教団の洗脳部隊ともいうべき「若き天才」の作品は、グロテスクを極め、嘔吐を催さずにはいられない。

もうひとつ気になることは、これだけの分量においていわゆる空虚で形而上的な言葉を一切用いず、同時に一瞬も飽きさせずに(訳出の妙も素晴らしいです…とはいえ、導入部は少々苛々させられましたが)映像と映画を取り巻く60年代の情況、そして魅惑的な人物像を描き出しでいながら、消失しているものがある。
豊穣な五感への訴追に目を回しながら、ふと冷静になる瞬間がある。
ここまでくると、これは作者の意図としか思われないのだが。

常に――主人公の姿が見えない。
勿論、彼には名前があり、喋り、感じ、懊悩する。
けれど、この大枚の中で、一度たりとも彼の容姿について描かれている部分がないのである。
ありふれた「一人称」の物語として片付けられないほど、消えてしまっている。
そう、彼の映画館でフィルムに釘付けになる目(五感)も、女の肌を触れる肉体も、最終的には思考する脳さえも。
すべては、収録するものになっていると感じたのは、いきすぎなのだろうか。
彼は、まさにバイオカメラ(笑)、オブスキュラマキーナ(いい加減)。
最後まで己が一体の精巧な機械であることを認知することがなかった彼は、架空世界を現実に肉薄させるために産み出された「道化」として、今も、マックス・キャッスルのフィルモグラフィーを整理し続けているのだろう。


最後に。
蛇足だが、改めて興味を抱いたので、こんな疑問符を。
テレビという媒体が、映画と異なる最大の点は、真の黒が表現できるか否かにかかっているらしい。
ビデオやDVDといったソフトを用いて、今では簡単に家庭で映像を楽しみことができるようになっているけれど、さてフィルム変換方法はどうなっているのか、というのが疑問。
単純作業が、世の倣いなのか。
サブリミナルはさておき、作中でキャッスル監督が多用した光の明滅は、テレビの中ではどんな風になるのかなと思うわけです。
遠い昔、ゾーエトロープに恐れをなした教団は、1/24秒以上の速度変化を認識できない人間の目に潜む「隙間」にまさしく盲点を突こうとしたけど、安易に移行しつつあるフィルムとテレビの間にも、なんだか不気味なものが隠れているような気がしてならないのでした。

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**************

読了まで三週かかりました。
一日50頁目標が100になっても終わらず四苦八苦。
家では本を読めない絹子が、寝る前に読書生活なんてという日々で。
挙句読み終えてから、ボンヤリしているうちに三週間。
相変わらずの体たらくですみません。
でもまあ、こんなどえらい法螺話が書けるのは、日本人じゃ今のところ見当たらないような気もします。
読めてよかったです。

さて、感想は随所で見られますが、ここのマックス・キャッスルとは誰なのか!に迫った一文には物凄い気迫を感じました。
この本の中には多分に遊びの要素が隠されていて、本気で立ち向かえば十年単位の時間が流れてしまうのではと、それだけオタク心をくすぐる一冊でもあるわけです。
遊び方は千変万化ありそうですが、個人的には、キャッスル作品の題名に触手が伸びました。
だって、小説の題名にはもってこいな、想像を掻き立てられるタイトルばかりなんです。
『瞳は夢を見ている』 なんてどきどきしますよ。
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Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

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