2017-06

Never Let Me Go

映画館で映画を観る理由。
月に三本、四本と。
きっかけは休日ひとりきりが増えたから。

なんだろう、海の底にいるみたいになる。
受動態のひとりきり。
すぐそばに人がいてもひとりきり。
二時間ちかく、潜って、泡も出さずに、呼吸をつづめる。

本の世界は、想像の糊代を多分に残して、人の心を、
普段はいっかな見つけることのない心を見つける旅。
僕の余白と、目に見えない余白をつないで、震える。

そういえば、吹き飛んでしまったけど。
マンの「ファウスト博士」を読了したとき、僕は電車の中にいた。
ちょうど代々木上原から新宿に入る急行電車で、一時間のクライマックスを味わった。
不覚にも?
いや、もうマンはちゃんと最初に粗筋をきちんと開示していたのだ。
なのに、僕はその技巧もケレンも一切なしのレーベルキューンの心に打たれて
ボロボロと大勢の前で泣いていた。

たった一度きり娼婦と寝たことを、悪魔に魂を売り才能の花を授かったと思い込み、
たった一度きり、十代の少年の何十倍も拙く無知な求婚で絶望を味わい、
たった一人きり手許に来た、まさしく天使と思しき甥っ子を失い、
一度も自ら生み出した曲を己の力によって為し得たものと信じることなく
自らを穢れたものだと思い込んで、発狂し、天に召された彼の。
その非情な絶望を思い。
僕は、氷づけにされた花弁が、一度も完全に蕾を解くことなく砕かれるような
哀しみに打ち震えた。

本当は人には目的なんてなく。
意味もなく。
それを知っているからこそ、何か証拠が欲しいと足掻いている。
でも最初から目的を与えられて、時限を定められた生を享けたなら。

奇しくも、ここ数日。
僕がずっと眼を背けてきた、一切の関心を払うことを拒んだ話題が身近で何度も出て。
事象の表には必ず、裏側があると驚いていた矢先だった。
端的にいってしまえば、僕のように子孫を残すことを全否定する裏側には、
どうしても残したいと願う人が、そこにもここにもいるということ。
アウトローと己を呼び、そちらを憎き順当/因習と呼び、
何もかも分っちゃいるけど、俺の言い分も聞けよと声高に叫ぶばかりだった僕が
いかに、裏側の実態を知ろうともしなかったことに恥じ入った。

本当に憎むべきは
苦もなく、集合体の中心、切り捨てられない整数に乗り、切り捨てられたモノを省みない人なのだ。

「わたしを離さないで」の原作を読んだとき。
カズオ・イシグロに抱いたのは、作りこまれ過ぎている、
完璧すぎて逆に生々しくあってはならないはずの造作に現実感が強まり、
腐り落ちる寸前の完熟具合に首を縦に振れなくなった。
膨れ上がった絶望は、読了に至る前に弾けていた。

今日、映画を観て。
その完璧さの意味を知る。
予告編を観て泣いても、本編では原作と同じように置き去りにされる予感が、
映像の中途では次第に強まったというのに。

映画評で、この作品を過去SFと呼んだ人がいた。
医学の画期的革命により、平均寿命が百歳を越えた世界。
「誰かの延命のため」に作られた子供たち。
肉体の健康だけでなく、心の健康を保つことを義務づけられた子供たち。
どうして?
部分だけが欲しいのなら、ずっと保育器の中で目覚めることなく、培養すればいいのに。
どうして他者を認識し、心の葛藤を教え、心の生み出すものを奨励しなければならなかったのか。
シャーロット・ランプリングが校長であるあの特別な学校は、
医学革命の先駆者ではなく、むしろ婉曲すぎる反革命の旗手であったと思えても仕方がないのだ。

僕はいままで何匹の実験動物を殺してきたことだろう。
平気だった。
少しの躊躇もなかった。
動物を愛玩とするために飼うことなど、まったく出来ない僕は、
動物に感情をいだくこと、好きも嫌いもない無感覚のことに疑問を抱いたことはなかった。
ならば。

僕を継続するために、同じ遺伝子配列をもった、同じ姿形のもう一人の僕が殺されることを知って。
果たして平気でいられるだろうか。
ましてそのもう一人の僕が、同じように本を読んで泣き、誰かを好きになり、笑っていたとしたら。

原作も、勿論映画も。
この提供受ける側の人間については、一切が描かれていない。
むしろ本来感情を持つべきではない提供者に感情が与えられていて、
施術者はロボットの如く手術を行い、為政者は無感動に規則を伝えるにすぎない。
この恐ろしく倒錯した、心の配分は、考えれば考えるほど震えてしまうのだ。

キャシー、ルース、トミー。
三人の運命の子供たち。
感情を与えられていると書いたけれど、彼らは本当の意味で逃走を考えてはいなかった。
猶予は求めても、拒絶や反抗は考えていなかった。

詳しく描かれていない管理方法については、想像の域をでないけれど
たとえ、肉体にチップが埋め込まれ逃走することは不可能だったとしても
彼らは、自らの意味を放棄する、命を絶つこともできたはずなのだ。
けれども、彼らには、やはり遵守と統制が植えつけられていて、
我々が安易に想起するような手段など、初めから抱くことのないようにされていた。
あるいは、元々自身が培養器であった彼らは、命を絶ったとしても
部品のいくつかが欠けた、納期が遅れた程度にしか思ってもらえない絶望を、
とっくに知っていて、考えることもなかったというのだろうか。

完璧なのだ。
僕たちが考え考えても答えの出ない、余白も糊代もあまりにありすぎて。
今日、涙は流れたけれど、それは自然の涙じゃなかっただろう。
無理やりにでも、泣いておきたいと引き出した涙ではなかったか。
裏側の、そのまた裏側で思いつくたくさんの想像は、
たとえば、僕たちに与えられた生殖を拒む自由/自らの命を絶つ自由が
いかに不遜な、無感覚に享受してきたものかと知らしめる。

もし、僕がこの映画で泣いた理由をひとつ挙げるなら。
それは、キャシーに最後まで貫かれた抑制であったと思う。
子役を演じたキャシーと大人のキャシー(キャリー・マリガン)の酷似は、
驚くべきものだった。
顔が似ているとかではなく、
その押さえ込もうとする、ささやかな幸福をかみしめて、大きな忍苦を耐える微笑が
全く同一のものだったからだ。
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絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
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