2017-05

ひゅーまにずむ

連日マンのことばかり、それも訳のわからぬ称揚ばかりが続いていくが。
どうやら本年上半期はマン祭になりそうなので、致しかたあるまい。
なにしろ、頁を繰る毎に思うことが多すぎて、読了してから何かを書こうとしても、
指の隙間から零れ落ちてゆく水を押しとどめることができないように、
なにもかもが、消えてしまう惧れがあるからだ。

トーマス・マンの肩書きには、よくヒューマニストと書かれている。
しかし僕は、概念としてのヒューマニズムというものが実感できないので、
この名前を安直に引き合いに出すことは避けたい。

マンは恐らく驚異的な思索家であり、懐疑派であり、実証主義者であるのだろう。
彼は、自分は何ものであるか。世界は如何にして掴むべきものなのか。
を延々と若い頃から、考え続けていたに違いない。
そしてその答えを得るべく、悩むよりも、知ること、特にギリシャ哲学まで遡った長い哲学の道のり、
あるいは、神学におけるあらゆる認識を必死で学び取ろうとしたに違いない。

そして個人及び世界が必ず孕んでいる罪を実視しながら、
なぜ罪は生じるのか、ひいていえば、悪魔のイデーはどこにあるのかを考え続けたのだろう。

彼の物語は、勿論大きな底流としての、通常の小説でいうところの筋をもっている。
けれども、その筋よりも、装飾というには余りある、思想問答に重きを置いている。
あるいは「魔の山」で顕著であった、僕が勝手にオタクと呼んだ、
あらゆる世界の興味(特にデモーニッシュな)の要素を組み込んでみようとしている。

思想問答と書いたけれども、マンの脅威的なところは、
決して己の主義を前に出さないことである。
通常A主義をもった作家は、対立項であるB主義をもつ人物/事象を引き合いに出し、
戦わせ、Aを勝たせて、自分の主張を正当化するという流れを持たせるだろう。

しかし、マンは、学ぼうとするのである。
「魔の山」よりも「ファウスト博士」の方が顕著であるが、
幾人もの個性的な神学部の大学教授・講師を登場させ、
彼らに全く異なる神と悪魔の存在意義を語らせるのである。

いつだったか。
素氏が美学校時代に受けた種村さんの講義を引き合いに出して。
「あの講義は、もう一度種村さん自身が、マニエリスムについて学んできたことを整理しなおそうという行為だったのだと思う」
と語ってくれたことがあった。

マンは、恐らく同じことをしている。
自分の中で未消化に分散していた、多くの思想を登場人物に担わせ、考えさせ、
そして自分の中で世界を掴もうともがいている。
しかしこの苦悩は、彼自身の非常に控えめで謙遜に満ちた態度と、無尽蔵の筆力によって
丁寧に折りたたまれ、
吾々に、全くといっていいほど押し付けがましさを感じさせることがない。

もし彼をヒューマニストと呼ぶとするならば。
こうした、人々の心根の秘密、神と人との関係、混沌の世界をつかむ術を
彼自ら先頭に立ち、優れた教師のように、あるいは最も悩み多き青年として
吾々を導こうと努めている、そんな点で呼ぶに相応しいといえるのではないか、と僕は思う。
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絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
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