2017-06

mouth piece

一体人は、如何にして己を、この重い重い己を脱いでいくのだろうか。

本当に他者の存在を無視して、真の個人主義を貫けるものは、
こうした比較に基く疑問など、抱くことはない。
考え続け、夢を見、考え続け、また。
同じでなくていいはずの己を擁護し、
同じでない、同じでいられない、脱いでしまった、脱いだことを忘れた
数多を呪い続ける。

そして呪詛返しにあう。

真夜中に眼を覚まし、奥歯を噛み込んでいる、その力の強さは
そのまま本当の何も知らない、無垢の眠りに奪われても、
朝が来ると、力の欠片だけが、枕元に落ちている。

***

ちっとも。
ちっとも変らない、あの頃と同じ。
横にいた彼女の冷たくもなく暖かくもない視線、無感動の声、震えることのない足や手の先たち。
あの日の敗北は、現在の敗北であって。
もはや彼女は、別の人になってしまったけれども。
もし闘っているのだとすれば、もし近づこうと手を伸ばしているのだとすれば、
おそらくあの頃の、彼女から受けた眩暈を、今も探しているのだろうと思う。

彼女は、精確に決められた歩幅で、決められた速度で歩いてゆく。
その遥か後方で、壊れた踏切板の上を、前にいっかな飛ばないバネの上を、
愚かしく、阿呆のように飛んでいる。
けれども、もしかしたら、傍観者ではなく。
マンの描く主人公達、語り部のような傍観者ではなく、
ほんの一瞬でも、高みから、何か別のものを見つけることができるのならば、
永遠に此処で、上昇と下降と、下降に伴う手痛い打撲を繰り返していても、
いいのかもしれない。

 私は、この講演からアドリアンと共に帰途についたときのことを、まるで昨日のことのようにはっきりとおぼえている。私たちは大してお喋りをし合ったわけではないが、なかなか別れる気になれなかった。そして私が彼の叔父の家までついてゆくと、彼は私を薬局まで送ってくれ、またもや私がバロヒアル街まで一緒に行く、という工合だった。ともかくそんなことを何度も何度もやった。私たち二人は、このバイセルという片田舎の独裁者の滑稽な精力を嗤った。そして二人とも一致して、彼の音楽改革はテレンツ近傍の《理性をもって愚かな行動をする》という諺を大いに思い出させられる、と言った。だが、こういう妙ちきりんな話にアドリアンが見せた態度は、私の態度とはひどくちがっていたから、私は間もなく、対象そのものよりも余計にその方に興味を持つようになった。つまり、私とは違って彼は、嘲りながらも価値をみとめるだけの自由は残しておこうとしたのである。――嘲笑や哄笑のほかに、好意ある承認や条件つきの賛成、半ば讃嘆などの可能性をも含む距離を保持する特権とまでは言わないまでも、そうする権利を残そうとしたのである。一般的に言って、このようにアイロニカルに距離をおきたい、たしかに事の名誉よりも自由な人格の名誉を問題にする客観性を持ちたいという要求は、私にはいつも並々ならぬ自負と見えた。当時のアドリアンのように年が若いと、こういう態度は何か人を不安がらせる不遜なものと見え、あの男の魂は救われるだろうかと気がかりになるらしいと言ってよかろうと思う。もちろんこういう態度は、精神構造の単純な者にはきわめて印象が強くもある。そして私は彼を愛していたが故に、彼の自負をも共に愛した。――おそらく私は、その自負ゆえに彼を愛していたのかもしれない。いや、きっとそうなのだ。だからこそあの不遜が、私が一生彼に対して心に抱いていた、おそれをまじえた愛情の主要な動機だったのである。

「ファウスト博士 1」97-98p

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狸穴幼稚園の図書委員

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