2017-08

孤独の秘密

「魔の山」がいかに面白かったか、それを語るにはまだ熟成がたりないかもしれないし。
あるいは忘れないうちに早く早くと急かされる気持ちも募る。
途中からこの心地よい社会と断絶したユートピア熱は、読んでいる僕にも明らかに伝播し
永遠に、三十巻でも百巻でも続いて欲しいという願いに変っていった。

連日「『魔の山』すごい展開だよー!」とか。
「『魔の山』は二千倍『黒死館』だ!」とか。
「トーマス・マンは最高のオタクだ!」とか。
その意味するところを説明するには何文字もかかりそうな話を、延々吠えまくる僕に、
素氏が小宮山ガレージセールから次の里標、『ファウスト博士』三巻組を買ってきてくれました!

そして、分っていたけど投げ出されちゃったんだ、僕もハンスもな、と悲しい涙を拭いつつ。
早速『ファウスト博士』を読み始める。

嗚呼、関さん(親子?)の訳の素晴らしさもあるのだろうけど。
(常々翻訳にケチをつけまくる僕にしては珍しい)
マンの文章の美しさは天下逸品!
そして電車の中や、一人ぼっちの昼休みに、数行読んでは血管に漂白剤を流し込まれたような
清らかな、同時に唯我独尊の気分に晴々とし、胸をはりつつ呆然とする。

「他人の99.9%が大嫌い」とか
「人に心があると実感できない、本の中にだけ心の真実がある」とか吐露する僕の信条を
ますます加速させるのは一見問題ではあるかもしれないが、心強い味方であるのはたしかだ。
別にマンはこんな気持ちを代弁しているわけでもないのだろうけど。
結局、どうしても「人と人とのつながりが一番」という文言が何歳になっても分りそうにない。

だって、深い心は(きっとこの心という言葉の意味するところだって人それぞれ違うのだ)
向かいに坐ってスマートフォンを撫でている人、
ビューラーでない睫毛を瞼ごと掴んでいる人、
口からでるものがペラペラの人の表皮のどこに、
どうやって見つければいいというのだろう。

自分勝手だとか、子供だとか別に呼ばれたって構いはしない。
この空疎な。
空疎とは、空気が薄いと読んでもいい世界で。
毎日絶望の足ばかり引きずってはいても、ただ本の中にだけ、
遠い過去の遠い国の人の言葉のなかにだけ
僕が探している、綺麗なものが待っている。

綺麗なもの、それは、孤独だ。
孤独の匂い、孤独の真実、孤独のみる慎ましい夢。
僕はノッケから、愛しさで一杯になる。

即ち読者は――いや、未来の読者と言った方がよいであろう、なぜなら、この著作が何かの奇蹟で、不安につつまれているわれわれの城砦ヨーロッパをあとにして、海の彼方の人々にわれわれの孤独の秘密の息吹きなりとも伝えることができれば話はまた別であるが、今のところ、陽の目を見るだろう見込みは全然ないからである―そこでもう一度はじめに帰ることを許されるならば、読者は、著者が誰で何者であるかについてついでに知りたいと望まれるであろうと思えばこそ、私はこの書の前おきとして私個人に関する覚え書を少々添えるのである。

『ファウスト博士 1』 関泰祐・関楠生訳 岩波現代叢書 1952 1p
(旧字は新字に改めて引用) 



引用は続くけれど。
もはや説明不要の輝きに充ちてゆく。
働くこと、社会に触れねばならぬこと、恐怖のなかでも、ギリギリ爪一枚で残っているのは
時折こんな自然の一端が心を慰めてくれるからかもしれない。

 さよう、父親のレーヴェルキューンは思弁家、沈思家であった。そして、すでに述べたことであるが、彼の探求的傾向――本来夢想的瞑想でしかないものを探求と言えるならの話であるが――は常に一定の方向、つまり神秘的な方向、あるいは、自然のあとを追う人間の考えが殆んど必然的に向わせられるように思われる、予感に充ちた半神秘的な方向に傾いていた。それにまた、自然を実験し現象化し、また、実験によって自然の作用を暴露することによって自然を《試みる》という大胆な企て――こういうことはみな魔法ときわめて近い、いや、もう魔法の領域にふみ込んでいて、《試みる者(悪魔)》の仕事でさえあるとは、かつての時代の確信、それも尊敬すべき確信でもあったのである。私たちが時々見せてもらった目に見える音楽の実験を、ヨナタンの話では百数年前に工夫したというウィテンベルクの男が、その当時どんな眼でみられていたか私は知りたいと思う。アドリアンの父が使っていたわずかな物理学の器械の一つに、真中にある軸で安定しているだけで自由に動かせる円いガラス盤があった。奇蹟はここで演じられるのである。この盤には細かい砂が撒きちらしてあった。彼は古いチェロの弓をとって、盤のへりを上から下へこすって盤を振動させる。動いた砂は位置を変えて並び、おそろしく精密な多様な図形やアラベスク模様になる。明確と秘密、合法と不思議なものとを頗る魅力的に兼ねそなえているこの視覚音響学は、われわれ子供たちにひどく気に入った。われわれはそれをやってみせてくれと何度も彼に頼んだものだが、それもしまいには実験者を喜ばすためのみではなかった。
 これと同じような喜びを彼は氷の花にも寄せていて、冬になってブーヘル屋敷の農家風の小さな窓が結晶した水滴におおわれると、肉眼でみたり拡大鏡を使ったりして、三十分ものあいだ一心にその構造を調べていた。もしその産物が、それにふさわしくシンメトリックな比喩的なかたち、厳密に数学的で規則正しいかたちをしていたのだったら、一切は事無く終り、そんなものは顧みないで済んでしまったことだろうと私は言いたい。ところが、そいつは一種人をまどわすほど思い切って植物に似ており、牛の尾、草、受け形の花と星形の花とをこの上もなく美しく摸していて、氷の素材を使って有機体状をなしていたので、それがヨナタンの頭にひっかかって、彼はひっきりなく、或る程度否認するように、しかしまた讃嘆をこめて首をふるのだった。彼の疑問はこうだった。この不思議な模様は植物のかたちを予示しているのだろうか、それとも模写しているのだろうかと。そのどちらでもないと彼は自らに答えた。――それは並行して生成したものなのだ。創造を夢みる自然は、そことこことで同じものを夢みたのである。たとい模倣が問題となるにしても、相互間の模倣ということになるだけであろう。平地の実験的な産物を、それが有機的な深い現実性を持っているからとて、予表として挙げられるものだろうか。氷の花は単なる現象にすぎないのではないか。しかし氷の花の出現は、植物の場合と同じように、諸種の素材が複雑に競合した結果であった。この家の主人に対する私の理解に誤りがなければ、彼がやっていた仕事は、生命ある自然と所謂生命なき自然との統一であった。彼の考えによると、われわれがこの二つの領域のあいだに余りに鋭く一線を画すと両者の統一を犯すことになる、この統一は現実にはっきり見えているのだし、生物にのみ保留されていて生物学者が生命のないものを例にとっても研究し得ないような自然力というものは元来存在しないのだ、というのである。

23-24p


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Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

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