2017-07

有機体茫洋

時には朝四時半に出勤したりする人がいるので、
朝が弱い僕は、最近晩御飯のあとにお米を炊いて、真夜中12時過ぎにお弁当をつくったりする。
冷え冷えとした台所は足首か凍えそうだけど、なんだか不思議に面白かったりする。
オイスターソースの匂いが、豆板醤の匂いが、真夜中に換気扇から周囲の家の屋根にむかって流れてゆくのだ。

***

魔の山のサナトリウムの風景。
もっともそのユートピア的な風景は、夜の横臥療法の時間に尽きるだろう。
一日五回の栄養満点の食事。
合い間の少しの散歩にお昼寝三昧の日々。

横臥療法は、個室のベランダや屋上で行われている。
最適な角度に保たれた寝椅子と、下界では見つけられないほどの最適な硬さの枕。
冬は皮袋を加えた二枚の毛布で、彼等はプロの手つきをもって全身をくるんでゆく。
枕もとの小さなランプひとつ、静かに音楽が流れ、零下を超えた寒さの日にも、アルプスの山並みが闇に溶けた中、澄み渡り凍てつく乾いた空気の中で顔だけ出して、満天の星空、月明かりを満喫する。

贅沢な空間の中で、時間は通常の測量法を逸脱して、針を失う。
漫然とも、退屈とも、不精とも異なる、ただただ横たわるだけの時間のなかで、
われらが、悩みを哲学の不毛の種を買いあさるハンス・カストルプは、このサナトリウムにきて造船技師としての未来を投げ打ったかにみえる。
そして、にわかに買い取った種、医学や科学といったものに目覚め、自己陶酔にはいる。

思索の種。
枝葉をのばし、一見非常に美しい箴言めいた言葉を連ねているが、
そして僕自身、いつだかの青い青い時間を思い出し、
たとえば、ロラン・バルトの響きのよい、エクリチュールなど読んで浸った分ったような気分、
自分だけがひたすらに純化していくような気分を、もう一度体験するのだ。

さてそれなら、生命とはいったいなんだろう?それは熱であった。形態を維持しながら一瞬も同一の状態にいないものがつくりだす熱、同一の状態を維持することが不可能なほどに複雑で精巧な構成を持つ蛋白分子が、たえず分解、新生する過程に附随する物質熱である。したがって、もともと存在しえないものの存在であって、分解と新生が交錯する熱過程においてのみ、甘美に、せつなく、辛うじて生命線の上にバランスを保っていることができるものの存在である。生命は物質でもなければ精神でもなかった。両者の中間物であって、飛瀑にかかる虹のように、または焔のように、物質を素材とする一現象である。生命は物質ではないが、しかし快感と嫌悪を感じさせるまでに官能的で、自分自身を感知するまでに敏感になった物質の恥知らずな姿であって、存在のみだらな形現であった。万有の純潔な冷気のなかにおける敏感なひそかな蠢動であり、栄養摂取と排泄のみだらなひそかな不浄であり、炭酸ガスと素性も性質も明らかでないいかがわしい物質とからなる排泄的呼気であった。生命は肉と呼ばれるぶよぶよしたもの、水と蛋白と塩分と脂肪とからなり、形、高貴な形像、美ともなりうるが、また、官能と欲望の塊りでもある物質が、転変きわまりない生活の余剰を資本として、あたえられた組成法則にしばられつつおこなう増殖、発展、形態の組成であった。生命が達しうる形と美は、詩や音楽の作品のように精神を素材とするのではなく、また造形美術の作品の形と美のように、中間的な、精神に浸透された物質、精神を純潔に官能化している物質、を素材とするものでもなかった。むしろ、生命の形と美とは、ある未知の過程によって肉欲に目ざめた物質、分解しつつ存在しつづける有機物質、臭う肉を素材としていた。
「魔の山」(岩波文庫) 上巻 478p



「魔の山」の面白いところは。
非常に特化された生物学/医学の専門用語と、
まったく同じ地平の上に観念語彙が並べられている箇所が多数あり、
そのくせ超婉曲、超暗喩と思わせながらも、けっして読者をワケワカメな状態にはしないことである。
一体、これを該博とか呼ぶべきなのか、本気で考えて書いているのか、
それともマン自身が37.8℃ほどの微熱に浮かされたまま、書き綴っているのか不思議でならない。

まさしくこんな凍える冬に。
もしできるのなら、僕たちも屋外に寝袋でも包まって、青く乾いた指先で頁を繰りたいと
そんな風に、日々思っている。
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絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
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