2017-07

カポーティ・ラッシュ

トルーマン・カポーティ〈上〉 トルーマン・カポーティ〈上〉
ジョージ プリンプトン (2006/07)
新潮社
この商品の詳細を見る


ローカル・カラー/観察記録―犬は吠える〈1〉 ローカル・カラー/観察記録―犬は吠える〈1〉
トルーマン カポーティ (2006/09)
早川書房
この商品の詳細を見る


映画「カポーティ」のおかげで、出版界は小さなカポーティブームに沸いているみたい。
普段はタイアップなんて商業主義の副産物にしか思えないのだけど、今回はうふふーと万歳してみたりする。
入手しづらかった『夜の樹』や『草の竪琴』も増刷がかかった気配があるし、何より単行本を探すしかなかったものが、続々と文庫化されているのも嬉しい。
こういうマイブームと世のブームが合致することもあるんだーと、妙に感慨深かったり。

『トルーマン・カポーティ』は、彼の周辺をすり抜けた色んな著名人の膨大なインタビューのみで構成されている。
なーんだただのインタビューの寄せ集めかよ、作者の意図なんてないのかよ、って侮るわけにはいかない。
記憶の中にある、つまりは写像であるカポーティの姿は、決して真の姿とはいえないかもしれない。
けれど作品が多面体であって一元的に捉えられないのと同じに、彼自身(特に彼のような人であればなおのこと)のホントウなんて、誰も分からない。
齟齬や記憶の混濁、自己防衛なんてものは結局どうでもよくて、様々な偏光をこの本で読者が浴びることができたら、プリズムの集積に一塊の姿を見ることができたら、ファンとしてはそれで十分すぎるほど幸せだと思う。

私は作品自体だけでなく、作家の生き様とかを追いかけるのが好きなのだが、さらにそれが奇妙であったり切ないものであれば余計に喜ぶのだけれど、たとえ平板であってもあるいは不快なものであっても、作品自体に視線を戻した時、嫌いになるなんてことはない。
世間の人がゴシップを好むように、彼/彼女にまつわるエピソードを見せてもらうたびに、カーテンを潜って向こうの世界を覗きみた気分にワクワクするのだ。
で、双眼鏡をきゅっとあげると、こんなものが揺らめいてます。

一九四八年の夏、パリでガリマール――カポーティの版元だった――が開いたパーティの席だったと思う。カミュとサルトルが来ていた。その夏の終わりごろ、カポーティはカミュと寝たことがあるといった。しかし、カミュはパリで女優と見れば片っ端から尻を追いかけていた。男や少年に興味を示したとは聞いたこともなかった。しかも、その夏、トルーマンはアンドレ・ジッドとも寝たといっていて、私はその嘘を見破っていた。トルーマンによれば、ジッドは金とアメジストの指輪をくれたという。その二週間ほどあとにジッドに会ったので、「どこでトルーマンを見つけたのですか?」と聞いてみた。
「誰だって?」
私は名前をくりかえした。すると彼は「ああ、その名前は聞いたことがある」といって、ソファに寝そべった彼の写真を手に取った。「パリに来ているのかい?」
「ええ。あなたと会ってとても楽しかったといってましたよ」
「会ったことはないな。しかし、この写真なら郵便で十枚以上送られてきたな」
(上175p ゴア・ヴィダルの証言)

 

写真というのは『遠い声 遠い部屋』の裏表紙に使った12歳くらいにみえる、迷子の妖精みたいな彼の写真。
いわゆる「これをもって、私の決定版とする」というやつ。
カポーティは自信満々に「写真を撮られるときは頭の中を美しいことで一杯にしなくちゃだめだ――それがコツさ――そうすれば誰でもきれいになる」とも語っていたらしい。

さらに一粒で三つ美味しいこんなオマケが、くっついてくるんですよ。

カーソン(・マッカラーズ)とトルーマンは真実を作り変えて微調整する才能に恵まれていた。ある日カーソンは、『ニューヨーカー』に書いていた作家のエドワード・ニューハウスに、父親がソファで煙草を吸っていて焼け死にそうになった話をしはじめた。父親は上の空だったので、気がついたときには炎がかなり大きくなっていた。そこまで話したとき、ヤドーの夕食を知らせるベルが鳴った。話はそこで中断された。エドワードはその先がどうなったのか、気になってしかたがなかった。食事を早々にすませてカーソンに話の続きをせがむと、彼女はいった。「あら、エドワード、あの話を本気にしてたの?私の話しぶりもだいぶ上達したのね」
(上113p ヴァージニア・カーの証言)



鋭敏な感性と過剰な自意識を保ちながらも、誰よりも人を楽しませることに長けていた彼が、映画の舞台となるドキュメンタリー『冷血』を完成し、華やかな社交界で壊れていく。
この本の中で、一番切なく美しいおとぎ話みたいに輝いているのは、ケイト・ハリントンという女性の証言。
彼女はアル中薬中になった晩年のカポーティと時間を共有した少女。
そして、同時に彼女は、彼の愛人の娘だった。

父親がカポーティと関係をもった始めの頃は、家族ぐるみで彼とつきあっていたけれど、そのうちに両親の不仲は決定的になり、離婚後子供三人は母親に引き取られて貧しい生活を強いられる。
何か働き口はないかとカポーティを頼ったケイトは、モデルの仕事を紹介されて、平日は高校に通い、週末になると彼の広すぎる家に寝泊りして仕事を続けた。
カポーティがどんなに有名な作家か彼女はよく分かっていなかった。
退屈だとテレビの在処を尋ねると、彼はケイトを図書室に案内して、これがテレビだよと言う。
二人は時間があると一緒に遊んだ。
二人でお話を作って、遊んだ。
素敵な淑女になれるように、カポーティは進言と援助を惜しまなかった。
それらの言葉が、『ティファニーで朝食を』にすっかり収められた言葉だと知ったのは、何年も経ってからのことだった。
アメリカ版『失われた時を求めて』となると信じて書いた『叶えられた祈り』が辛辣すぎるゴシップとして捉えられ、社交界から蹴りだされ、多くの友人から捨てられた時、ケイトはベッドの中で泣きじゃくる彼を抱きしめた。

ところで映画に行くかどうか、迷っている。
実は『冷血』を読んでいないし、この先読むことになるかも分からないから。
詩的だった『冷血』以前の作品達との距離を知るのが、怖いから。
一家四人惨殺の犯人の片割れと、強くシンパシーを分かち合ったカポーティ。
死刑延長を求める一方で、死を持ってエンドマークを打たねば、「小説」が完成しないというジレンマに陥ったカポーティ。
この辺りの鋭い葛藤なんて、かなり好みなんだと思いつつ、少なくとも先に『犬は吠える』で一息入れてから、向き合いたい。

※今回、思わぬ発見があった。
あのパーフリちゃんのブレインこと小沢健二の徹底したサンプリング・マシン振りを示す事項がこんなところにあったのだ。
「犬は吠えるが、キャラバンは進む」
これが『犬は吠える』の巻頭に掲げられている。
翻訳の小田島氏の解説によれば、アンドレ・ジッド邸を訪れたカポーティが、押し寄せる良悪の手紙の山に辟易したと告げると、ジッドはこの古いアラブの諺を紹介したという。

あらゆる諺の例に洩れず、この諺も多義的にいろいろな意味に読みとれる。でも、とっさにつかまえられる意味は、うるさい批評なんか気にしないでどんどん書くことだ、というものだろう。
(2巻 272p)


まあ、オザケンの同名のアルバムをお持ちの方は、リーフレットを開いてください。
少しだけ引くと、こんな風になってます。

言い古された言い方をすると、作者に全てが分かる訳じゃない。でもお喋りな作者というのは常にいて、哀れにも自分の作品には及びもつかないみすぼらしいメモ帳の切れはしを読み上げてしまったりする。僕は過去に何人ものそういう愛すべき作者たちが好きだったんだけど、今回はどうやら僕の番のようだ。



でもね、ここはパクリじゃなくて、我らが偉大なるサンプリングの手法なのですよ。
本当にいつも早熟ぶりに頭が上がらない。
私はいつも十年以上遅れて、たった一つ年上の彼の色々に気づくんだ。

それにしても、オモロイところで、世界はつながってるなあ。
スポンサーサイト

● COMMENT ●


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://quinutax.blog35.fc2.com/tb.php/29-af7dc0bf
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

陳腐な決め台詞 «  | BLOG TOP |  » 新刊買おうぜ:新潮パンダ入手計画。

プロフィール

絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
Twitter account:@quinutax

最近の記事

FC2カウンター

カテゴリー

リンク

このブログをリンクに追加する

ブログ内検索

月別アーカイブ