2017-09

世界は方形に殺される

芸術における実験は、しばしば分りやすさを拒絶する。
つまりは大衆性を失うことである。
レーニンは、映画は最も重要な芸術のひとつであると呼んで擁護した。
スターリンはレーニンの同じ言葉に、「大衆的な」という語彙を付属させたがために
スターリニズム旗下において、実験芸術はことごとく改宗と抑圧にあうことになった。

先週からアテネ・フランセで始まった
「ジガ・ヴェルトフとロシア・アヴァンギャルド映画」に通う。
一生に一度、観られるか否かの瀬戸際のお祭りである。
しかし時間の制限があって、すべての作品をみることはできない。

僕、こんなに頑張ったんだからよう、たまには早退させてねと言い残し
(じつは結構勝手に早退してるんですけどね)
金曜夕方六時に御茶ノ水に出没。

アテネ・フランセは、実は僕の憧れの語学学校だ。
高校生の頃に安吾を好きになったときには、上京したら通ってやるとか思っていた。
(安吾は東洋大学印度哲学科在学中に神経衰弱を病んだ後、昭和3年に入学。
フランセ仲間と同人「言葉」をつくり、サティにいたく影響を受けておりました)
そのくせ大学で御茶ノ水に三年間通ったのに、一度も立ち寄らず、
周辺で働いていたときも、そんな思いは消えていて。
バカだなあ。
今回、なんだか二十年越しの小さな恋を実らせて、校舎の階段を四階まで上った。

金曜に観たのは、「キノプラウダ No1-9」。
ニュース映像、エスエル党(右派革命社会党)の裁判を中心にサイレントで流れる一時間半。
いや、ぼくはストーリーのないサイレントに慣れていないこと自体に、まず驚きましてね。
身じろぎ一つ、咳払い一つできない異様な緊張感が会場を包んだのですが、
仕事の疲れもでて、同時に非情なる睡魔にも襲われたのです。
一体、このモノクロの無機質な映像の連続は、単純にニュースと呼んでいいものだろうかと。

エスエル裁判ひとつとっても、弁護人や裁判官の名前は何度も字幕で出るのですが
口は動けど、何を言っているのかは説明がない。
そして差し挟まれる映像は、機械文明の象徴たち。
ユンカース号の飛行シーン、あの榮のエンジンにも似た巨大空力エンジンを後に積んだ自動車、工場群。
後に解説を伺ったところでは、これはNo23まで存在しており、次第に実験映像色が強くなっていったとのこと。
その片鱗は、わずか二ヶ月あまりの間に撮られた9番までの変遷でも伺うことが出来ました。

ジガ・ヴェルトフがめざした【映像眼】という手法は、
人間の眼では捉えられないもの、カメラしか捕捉できないものを人間に提示し、新たな認識を促すこと、
そのためには、エイゼンシュタインが用いたような心理的手法で劇映画は作らない
ということらしいのです。

ただ、僕は9番に近づくうちに、二つの変化を見ていました。
ひとつは、洗練されたデザイン性。
差し挟まれる画面一杯を覆う字幕に並んだ文字列が明らかにタイポグラフィックであること。
(そういえば、『市川崑のタイポグラフィ』っていう実に面白そうな新刊が出たらしい)
新聞に「キノプラウダNO●」と書いた新聞を広げさせてつくる、タイトルロール。
そして俯瞰にしろ、漸進接写にしろ、単純な記録映像とは思えない、美しさ。

もうひとつは、本来はないはずの、演出めいたもの。
一番印象的だったのは、エスエル裁判の判決が出る前に、
二人の男が、有罪か無罪かを賭け、判決の出た新聞を必死に読むシーン。
(関係ないけど、無罪側に賭けた男が、ぞっとするほどの美青年なのに驚く)
あるいは、競馬場で外れた馬券が地面に投げ捨てられ、その上を犬が踏みつけて行くシーン。
これらは、排除した劇的なものを抱合していると感じたのは、僕だけだろうか。

さて、土曜日は二本ともみることが出来ました。
はたして、僕はこの二日間水難の相に見舞われたらしく。
急いで昼食をと入ったエクセルシオールで、机にトレイを置こうとした瞬間。
ずるずるっとグラスが滑り落ちまして。
今夏お気に入りで使っていた、僕にしては珍しく2000円も出した(そう僕にとってはね)
白地に可愛い動物のシルエットが飛び交うトートバックが全面的に珈琲まみれ。
グラスが割れなかったこと、他のお客さんにかからなかったこと、店員さんが即座に反応してくれて掃除と新しい珈琲を持ってきてくれたのはよかったが。
なんだか、頭から冷や水かけられたみたいになって、煙草も吸わずに、会場に逃げる。
そして今夜は、グラス一杯の焼酎をこぼして、パジャマの上下が水浸し。

そんなこんなで観た二本は。
どちらも再びジガ・ヴェルトフの「11年目」「世界の六分の一」。

「世界の六分の一」は、前日の「キノプラウダ」に似ていて。
かなり睡魔を誘うものがありましたが、字幕が扇情的でありました。
世界の六分の一を有する我々は、こんなにも充実しているのだと、国策に過ちなしという風に
植民地の比較や工業政策の意気顕揚を示すのですが。
そのプロパガンダぶりが、どうも狂信にのっとったアジの裏側の冷気みたいな雰囲気がありましてね。
なんといいますか、僕は映像をみているのだけれど。
全く音のないモノクロの世界は、夢を誘いつつも、脳の奥をつついて、観るものに別のものを観させるわけです。
次第に僕は、聴こえないBGMを再現したり、全く関係のない思い出を抉り出したり。
あるいは、100年という時間を考えて(制作は1926年)、
ここにいる名もなき人々の大半は、もはやこの世にはいないのだということをじっと考えたりしていました。

少々脱線しますが。
僕は子供の頃、テープレコーダというものが、少し恐ろしくてですね。
吹き込まれた人の声は、その人自身の断片であり、その人が他界すれば、声も消えるのだと信じていました。
誰が、そう教えたわけでもなく、思い込みで。
本当に消えてしまうのなら、余計に恐ろしく、あるいは小説の小ネタにでもなりそうですが。
だから、映写機や写真も同じことで、
もはやこの世にいない人の何かが残されているのだと知ったときの恐怖は、
子供の頃の、不可思議な死の認識だったのですが。
まあ、そのようなことを土曜の二本を見ながら、ぼんやり考えていました。

そしてこの辺りから、映像はますます冴えていくのです。
ジガ・ヴェルトフの機械、それも円運動する機械フェチぶりはすさまじく。
シャフトが複雑な環を描きながら、こちらに向かう映像は圧巻であります。
そして重ねというのかな、農業政策(コルホーズ・ソフホーズって習いましたね)の一環、
耕作地や、発破をかけらる鉱山が超俯瞰で映されると、そこに働く男の映像が重ねられて、
まるで一人の労働者が、巨人と化し、大地を圧しているような効果が与えられるのです。

あるいは、白い晴れているのか曇っているのか全く分らない空を背景に
黒々と描き出される、架橋や高圧線群の美しい構造体の姿といったら、溜まりません。
おそらく現在、工業地帯に夜間ライトアップされた姿を見に行くツアーでどきどきする
工場フェチの人には、わくわくするほどの無機質美をこれでもかと見せてくれるのでした。
「11年目」も、本当は、
革命後ソビエト政権が最初の10年を終えて、まさに次の10年を迎えようとする、
プロパガンダそのものなんですけど、ニュースを通り越した非現実めいて見えるのです。

さてと。
そんな眠いくせに、夢の断片のような既存の「映画」とは全く違うものをみたあと。
仕事帰りの素氏が、一階にやってきました。
この特集の企画をされた、井上徹さんの講演を一緒に聴くためです。
この日記の一番最初に書いたのは、講演で一番頭に残ったお話の要点みたいなもの。

講演会の質問コーナーというのは、僕はとても苦手で、
なぜかといえば、質問の意味が抽象化されて意味不明だったり、
あるいは聴いているのが恥ずかしくなるような質問が飛び出したりするからなのですが。
井上さんは困惑しつつも、とても洗練された回答をされていて、
このまとめも、その回答のひとつだったというわけです。

たった一人で、「いまロシアが熱い!」と盛り上がっている僕には
他国のアヴァンギャルド映画よりも線引きの難しいロシアのそれを
ぼんやりと、整理することができて嬉しかったです。

ほんと、全11本見られないのが、残念なのですけど。
きっとこの先、見られる機会もない気持ちがひとしおなんですけど。
わがままを許してくれた、素氏、ありがとう。

あと一本、「アエリータ」(1924)というソ連初のSF映画、
ドイツ表現主義の影響を受けたというものだけは、なんとしても見に行く予定です。
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絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
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