2017-04

ダイナマイト充填完了

かくも世間が喧しいと、
そんなに蹴飛ばしたいなら、自分たちの頭を互いに蹴飛ばしちまえと
思う日々である。

いつもながらのことだが。
僕はよく「人に『心』があることをなぜ教えてくれなかったのか」と嘆き、
また「本の中でのみ『心』に気づくことができる」と嘆くのであるが。

この『心』と再び曖昧な語彙で名付けなければならないものとは、
結局のところ『感覚』というものであろう。
『感覚』といっても、表層の、刹那的享楽的
(誰が主義などと呼んでやるものか、彼らにイズムなどないのだから)な感覚ではなく、
非常に微弱な波形であっても、精神の根幹まで深く張られた針金のことを呼んでいる。
たとえ細く不可視ではあっても、地に足のついた感覚に限られるのだ。
だから、そういった『感覚』を持ち得ない大多数に対して、僕が絶望を続けるのは、
当然といっても過言ではない。
書物にだけ『心』があるといっても、おかしいことではない。
感覚の欠如=鈍感さほど、醜悪なものはないからだ。

今日、気晴らしに「千夜千冊」のBNを眺めていた。
テネシー・ウイリアムズの『回想録』を取り上げた回を読んでいた。
そして最後に。

テネシー・ウィリアムズの作品は、彼自身にとってはたったひとつの目標しかもっていなかった。
その目標というのは、「たえずはかなく消えかかる存在をなんとかしてとらえようとすることである」。


という一文に突き当り、なぜ今まで自分が彼テネシーに惹かれ続けてきたかがよくわかった。
やっぱり松岡正剛の洞察はすごすぎるのだ。
だから、もうどんなに落ち込んでも、
彼らに触れ合う必要などないと、欠如を呪う時間さえ惜しいと思えばいいと。
僕は今日、結論づけた。
大丈夫、元気出せるはず。
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絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

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