2017-10

アンドロギュヌスの宴1

やっと週末が来た。。。
しかし、土日はおでかけ予定がしっかり入っているのだ。
この黄昏時期に、たくさんの人に会って、大丈夫かな、僕。
少なくとも喋らなければいいわけだ。
喋らないで聞き役に回れば、きっとフラッシュバックは起らないはず。
酒を飲んでも調子に乗るなよ、絹山!

とりあえず日記でリハビリを図っておこう。
で、多分、内容が複雑化することは目に見えているので、数回にわけて「二つの庭」と「オーランドー」をある視点からながめて観ようと思う。
視点は、両性具有とかフェミニズムとか同性愛とか、その辺り。

しかし僕はフェミニズムに関していままで意図的に目を瞑ってきたので、
実際には何も語ることがない、語れない、語りたくない。
でもきっと触れないわけにはいかないので、最初はその目を伏せてきた理由と僕のスタンスを書いておく。

以下、気持ちが重いので、三人称で話を進める。

Kは昔から他人の大多数が嫌いであった。
最近は、静かなる無視という技を身に付けたので、苦手という言葉に変換している。
Kが苦手なタイプで今回関係があるといえば、例えば、こんな感じだ。

・流行/王道に手放しで身を投じ、他の道の存在すら認識しない人
(認識を行ったうえで、意図的に流行/王道を選択している人はのぞく)
・流行/王道から外れたことを本質的には苦々しく思っていて、そのくせ彼らの「理想の本流」に近づく努力を一切行わず、不平ばかり並べる人
・あらゆる意味で鈍感な人

Kは粘液質に、再びこう宣言する。
「万民すべて異端児である必要などない。
しかし、マイノリティの存在を認めよ。
異端児が異端児の道を進むのを、拒む権利は、彼らにはない」

ここでKは考える。
Kにとってのフェミニズムの最初の定義は、女性の権利の回復を目指すというものだった。
たしかに、「かつて」はそれが非常に重要な課題であったことだろう。
けれども、Kがフェミニズムに不快を覚えるのは、「女性」という一元化された語彙にある。
運動には集団の力が必要である。
しかしまるで差別される側が、差別語をそのまま使って集団化するかのごとく、
「女性」という二分法には、一切「個」が見えない。

K自身には根本的に性別の認識がない。
肉体的にどうであれ、精神はいずれにも属し、いずれにも属さない。
homosexualであり、heterosexualであり、Narcissistである。
集団として一纏めにされているゲイ文学に触れ、いわゆるやおい小説を書き連ねて、足が動かなくなる。
そうして煩悶と数年置きにたちどまり、こうした分類が完全に無意味なものであることも気づく。
つまりKは、集団化して行動を起こす意味は分かっても、結局集団自体の意味がいずれ瓦解すると感じているからこそ、ismを受け入れられず、我が道を進む。

「二つの庭」の一面として。
百合子と芳子の同棲生活が描かれている。
しかし、実際には当時の経験を振り返っておよそ20年を経て小説にし、一種客体として二人のすれ違いを浮き上がらせている。
果たして、それだけの時間をかけて過去を再構築する意味はどこにあるのか。

「二つの庭」の時間軸の後、二人は揃ってソ連に赴くのだが、違和感は既に浮上している。
単純にいえば、芳子は百合子に確かな恋愛感情と、同時にライバルとしての敵対心を抱いている。
百合子は、時間をおいてなお、相手の剥き出しの感情を思い出し、同調できず、「深く考えないようにしよう」としている部分が多い。
気づいていながら、無神経に自分の内側に閉じこもってしまおうとすることが、多い。

今夜は、芳子の二つの感情が織り交ぜられた場面を引用して、いったん終了。
それにしても「二つの庭」は、引用一つすると、リストカット一回みたいな気分になる。
加えて、こうした男女を規定した考え方は、さきほども述べたように、かなり息苦しい。
二人とも、その枠から抜け出すのは、まだまだ時代的に難しいのだ。

あー、リハビリというより、余計に首を絞める真綿を自分で探しているみたい。

素子と暮らす話をきめてから、伸子は、二三日佃のところへ戻った。にげたようなままで離別することは、伸子に心苦しかった。佃に会って、別れる結末をつけて、そして新しく素子と生活をはじめようと思った。けれども佃のところへ行ったら、伸子は又ほだされた。涙を流して生活のやり直しをしようとすすめる佃を拒絶しかねた。佃は、気をかえるためにと、それまで住んでいた家の、前のせまい通りをへだてた向い側の新しい二階家に引っ越しかけていた。伸子は、そこにこれから住もうとは、思わなかったが、佃にたいする最後の思いやりとして、その引越しを手伝った。引越しが終わった日の夕方素子の家をたずねた伸子は、
「ああ、さわぎだった!引越ししたの」
といいながら、坐った。
「引越し? だれが」
「わたしたちの家」
素子は、坐り直し、その二つの視線で伸子の顔をハッシとうつようにけわしく、
「だから、この間、いったでしょう。君に私の気持なんてわかりっこないんだ。馬鹿馬鹿しい!」
眼に涙を浮かべた素子は、
「だから女なんていやだ!」
侮蔑と痛苦とをこめた声でいった。
素子の苦痛は伸子を畏縮させた。けれども、伸子のこころもちは、ぼうっと広く開いたままで、素子の切迫した感情の焦点を一致するようにしぼりが縮まらなかった。そのことに気づいて伸子は一層素子にたいして気がひけた。
「君はよかれあしかれごく自然なひとさ。自然なだけ、ひどいめに会うのは私にきまってるんだ」
素子は伸子の方を見ないまま、
「いつだったか、いったろう? 私は、男が女を愛するように女を愛すたちだって。――あのとき、ぶこちゃんはわかったようにあいづちをうったけれど、実際には、いまだって、わかってなんかいやしないのさ。わからないのが、佐々伸子さ」
涙の粒が、素子の小麦色の頬をあとからあとからころがり落ちた。
「私に、ぶこちゃんの自然さがわかるのが、百年目だ」
伸子も泣いた。素子の苦しさがせつなく、自分が素子をそんなにせつない思いをさせた、それが苦しくて。――素子の手を自分の頬にもち添えて泣きながら、伸子は、それでもやっぱり自分の心が素子と同じ皿の上の同じ焔とはなっていないのを感じた。素子に誠実であろうとしている自分の心の偽りなさは伸子にわかった。素子にもそれは通じている。それもわかった。しかし素子は、女はだからいやだ、とそんなに苦しむ。そのいやさを、伸子は自分の感情として実感することが出来なかった。どっさりの黒い髪を頸の上につかね、小麦肌色の顔を苦しさに蒼ずましている伸子に向かっておこる。その素子にわるい、と思う気もちばかりつよく感じられるのであった。

新潮文庫 1949年 92-94p

  

伸子は老父の滞在中、毎晩編物をした。(中略)伸子は、編むひとめひとめに、まぎらわしようのない心の憂さと屈託を編みこんでいるのであった。だけれども、佃は、激しい言葉をいわなくなって、手もつけない本棚の下で、赤い毛糸の玉をころがしながら編んでいる伸子の姿をよろこんだ。家庭生活らしい、そして家庭的なときの伸子は美しいと、ほめた。ほめことばは、編物の上に伸子の涙をおとさせた。
伸子は、素子に、その話をした。
「だからね。わたしの場合一人一人の道具立てのちがいだけが問題じゃないのに……いくら違ったように見えても、男のひとたちの考えかたのなかには、どっか同じようなところがあるわ。そこがわたしには問題だのに」
「そりゃわかってる。――ぶこちゃんとしては、ほんとにそうなのさ。それに関係なく私は不愉快だよ。私が女だもんだから、そんなにして暮らしている心持の真実を無視する権利が、男の自分にあるようにうぬぼれてやがる、そこがいやなんだ」
「対等に考える必要なんかないのに」
「私は、ぶこちゃんに都合のいい範囲で仕事をたすけてやって、都合のいい範囲で利用されて、おまけに、虚栄心まで満足させるような、そんな便利な愛情なんか持てないんだ」

95-96p

スポンサーサイト

お散歩ラララ «  | BLOG TOP |  » タダイマケンサクチュウ

プロフィール

絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
Twitter account:@quinutax

最近の記事

FC2カウンター

カテゴリー

リンク

このブログをリンクに追加する

ブログ内検索

月別アーカイブ