2017-08

つれづれてれび

通販お申し込みたくさんいただいているそうで、ありがとうございます。
骨牌はマニュファクチャなので、少し増刷かけたいと思います。
五月の文フリにも、持っていけるといいなと考えています。

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年末年始はテレビ漬け。
といいますか、あまりにも机の前に座っての作業が多く。
絵筆を握り、カッターを握り、年賀状を書き、春巻きを巻き、御節をつめ、入力作業をし、電卓を叩く。
この連続だったため、燃費の悪いラジオ状態で、テレビを聞いていました。
落語CD聴いとけばよかったと後悔しつつも、それなりに面白かったので徒然テレビ感想。

僕、マツモトヒトシのお笑いに対するストイックな挑戦姿勢が大好きだ。
お笑いの基本は話芸にあり、瞬発力にあり。
ではその真髄を極めるにはどんな番組をつくれば、若手は磨かれるのか。
後進に棘だった手を差し伸べて、一方で、自分ならこう語る、こう反応するという例をしめす。
これはあくまで「例」であって、必ずしも「お手本」というわけではない。
かっこ悪い、すべる時だってある。
つまり彼自身が王者としての座位に甘んじることなく、よきにせよあしきにせよ、「現在」や「瞬間」の自分の回答を示す。
その飽くなき挑戦を見ていると、ぞくぞくする。

僕は一発ギャグというのが、非常に苦手だけど。
一発屋が一発屋であるのは、「瞬間」にだけ許される観覧者の驚きに甘んじるからだ。
甘んじたくなければ、「瞬間」を投げ出すか、変化を加えていくしかない。
落語が同じ話を何度聞いても面白いのは、「瞬間」の驚きなどものともしない、四次元をとらえているから。

というわけで、「イッポン」「すべらない話SP」「ホテルマン24時」はたいそう面白かった。
加えて、マツモトヒトシの遺志(笑)を一番継承しているのは、チハラジュニアじゃないかと最近感じている。
若い頃は、刃物の鈍い光が奥に見え隠れして、発声がいいとは言えないしわがれた声も危なつかしくみえたけど。
負の要素が余裕に転化されて、なおかつ笑いの真髄を極めてやるぞという、別のギラギラ感が出てきたのがすごいと思う。
「イッポン」「すべらない話」の挑み方も素晴らしかったけど、「携帯大喜利」の選者ぷりがすごいのだ。
何万とやってくる投稿は勿論先にフィルタリングされているけど、最終的には彼の手腕にかかっている。
生放送、場の空気を読み、投稿者の段位をふりわけ、詠み上げる作業は、半端なくしんどいはずだ。
たとえ瞬間芸だろうとも、むしろお題に対して自分で答えを出す方が遥かに楽にちがいない。
僕的には大喜利の答えを楽しむよりも、この技や、パソコンのモニターに噛り付いているジュニアさんの眼光を求めて毎回見ている。

NHKもここ数年様々な挑戦をしていて、やはり一番すきなのはNHKといわざるをえない昨今だけど。
年明けの「新春テレビ放談」はまさに砲弾級にぶっとんだ番組だった。
民放を含めたテレビ番組を各ジャンル毎にランキングを出し(ほとんどNHK入ってないのに)、番組の流行と趨勢、未来像を読み解く。
といったらカッコいいけど、かなりぶっちゃけた制作裏話が飛び出し、制作費がない、バラエティの出演者は大量のアンケートに答えなければならない、そのアンケートを元に台本が用意され、笑いのオチまでカンペ出されるとかなんとか。
一般人もある程度は予測可能な話だけど、ここまでぶっちゃけていいのかと思われるほどだった。
ジュニアさんはむしろこの討論では、よき聞き手になっていて土石流を素手でとめる的存在だったけど、合間に流される「テレビの思い出」というコーナーでは、あのザラザラ声で、ほのぼのとした思い出話を朗読するのが面白かった。
いったんとり散らかった空間が、不思議と整理整頓され、観ている人が、安堵できる時間になっていたように思う。

なんだかお笑いの話ばかりだけど。
結構お笑い好きなんですよね。
誰でもいいわけではなく、基本的には練りこまれた中堅以上。
職人芸はどんな職種でもうっとりするので、極めている人はやはり観ていて飽きないというわけ。

で、マツモトヒトシが飽くまで笑いを追及するなら、バクモンは笑いのない世界で笑いを織り交ぜつつ自己表現することに挑戦する人たちだ。
彼らの番組で好きなのは、「検索ちゃん」と「ニッポンの教養」
後者は各分野で活躍している研究者に会いにゆき、討論を戦わせる、めちゃくちゃエキサイティングな番組だ。
普段はオオタさんが、ふっかける。
それも尋常じゃない極論でもってふっかけ、研究者が戸惑い言い淀む隙をついて、さらに畳み掛けるのが常だった。
時には失笑ではなく、激しい反発をもって対抗する先生たちもいる。
が、亀山郁夫先生の時は、まったく違った。

そもそも撮影場所が研究室ではなく、ロシア料理店だったのだ。
ウォッカを飲まされて、口から炎を吐く二人。
タナカさんにいたっては、意味が分からない飲み物と叫ぶ。
僕がカメヤマ先生をかなり好きなのは、あまりにも切ない人だということ。
これだけの仕事をなし、ドストエフスキーを通じて世界を変えたいと願い、多くの読者を得て。
けれども世界は結局変わっていない、僕はこのままこの道を進むだけでいいのか、救わなくちゃ、もっと世界を救わなくちゃ。
と、あの独特の話術、あの独特の瞳を潤ませて、懇々と訴えられると、切なくてどうしようもなくなる。

結果、オオタさんも、ウォッカで酩酊した分も差し引いても、切ない先生に押される形になったのだった。
疑問を投げかけるのはオオタさんではなかった。
「なぜ秋葉原の事件は起きたのでしょうか」
カメヤマ先生に質問されて、答えて、とても素敵だとうなずいてもらって、ほっとロシアンティーにジャムを浮かべた瞬間に、「でも」と質問がさらに加えられる。
その瞬間、観ている人は、ああオオタさんの答えは真摯で明快ではあったけれど、やはり深層は避けていたのだと気づく。
話芸の達人が逃げている、極端な喩えで分かったような気にさせた退路は、さらに狭められて、喘いでいる。
それでもオオタさんが屈しないで、未来像の話に世界を転換させたのは素晴らしかった。

最初に提議された、ラスコーリニコフが最後に汚れた地面に口づけし、大地に帰依することによって、己を選ばれた者とする考えから開放するといったことを引き合いに出し。
アメリカ文化に子供時代から浸っていた、戦後の日本の子供たちは、地球の未来にチューブハイウェイで繋がれた高層化された無機質な都市を描いたけれど。
タルコフスキーが「惑星ソラリス」で描いた荒野、一面の大地を、「今」の子供たちは未来像と描いておかしくない。
と、そんな風に、不思議と(カメヤマ先生もひどく嬉しそうに同意した)日本とロシアの深い根底のつながりを感じてしまうのだと。

ネットに浮かぶ幾万の「消えろ」という他者殲滅願望、自分は特別なのだという思い、荒野、眼前にはなくとも頭の中に広がるひたすらの荒野。
それらは全てドストエフスキーが既に書いたもので、「知って」いさえすれば同じ行為を行う陳腐さを簡単に思い知ることができるのに、僕たちは知らないまま終わらせようとする。
僕は、本を読む。
疑似体験を重ねて、時に本の世界の凄みに押されて、震えが走る。
別段露文にかかわらず、打ちのめされると、痛みは強いけれど、とても安堵する。

絶望しながら、それでも世界を変えたいと戦う人たち。
バクモンさんたち、カメヤマ先生、その他、このシリーズに出てくる多くの研究者にいつも感銘してしまう。

で。
時々素氏と話していて、この世の中には、悪しきアカデミズムの申し子がいて、小説をすべて私小説的解釈で論文にしようとする、アホな輩がいるのだと、嗤笑することしばしばだけど。
内面の発露、軛からの解放、激しいカタストロフィ。。。まあ僕も嫌いじゃないけど、その計算機、全てに使えるよと思うなよと。
先日のジュール・ヴェルヌ協会の講演会でも、奥泉光さんは、「書きたいことはないけど、小説は書きたかった」「書いて気持ちのいい小説ではなく、読んで面白い作品を書け」っていっていたように、書く=解放じゃない、方法論に突き進むヒトだって、沢山いる。

そして、同議題でよく例にあがる星新一ですが。
NHKさん、星新一のショートショートを映像化していました。
アニメも実写もあったけど、どれもシュールで可愛いんだ。
僕が幸運にもみられたのは、年明けの「ひとつの装置」「殺し屋ですのよ」「調査」の三本でした。
また観られるといいなあ。
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絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
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