2017-08

言葉の説得力・幻視の説得力

池袋にお昼前に到着。
なぜか自分の腹具合を忘れて、冷やし坦坦麺&ミニチャーハンなぞ食してしまう。
光文社ビルに向かう途中に中古レコード店と合体した趣味のいい古書店をのぞく。
百均ワゴンで亀井勝一郎の中世日本精神史シリーズを4冊掴む。
でも、僕は世界史以上に、王朝文学とか苦手なのだ。
ココロが傾いたためしがないのだ。
なのに、精神史という言葉だけで掴み、そのまま職場にまで持っていく羽目に。

資料館で時間待ちするあいだに、「ぷろふいる」とか「仮面」とか捲って、やや興奮する。
先日素氏が謹呈した「逍遥」が書架に並んでいるのをみて、ぷひひと笑う。
トイレが怪しい地下に潜り込んで作られていて、うわと怪しむ。
講演会場の会議室が、さらに怪しい地下通路の先にあり、にひひと笑う。

講演は、黒死館と音楽ということで、実際に関連音源聞きながら、楽しみました。
カリヨンの実際の演奏が、マッチョな作業でちっとも優雅じゃないこととか、面白かった。
そういえば、平山さんって、大学の先輩だったんだーとか、別の意味で驚く。

ディスカッションの時間、素氏は、トンスラだけじゃなく、輝いていました。
素氏はのったりのったりの発声だけど、愉しげなこと、とめどないこと(とりとめない時もある・笑)には、いつも感動する。
文字の言葉も大切だけど、声の言葉は時にもっと大切だし、遥かに説得力を持つ。
僕は「忘れる」ために頭の中で声を刻み、外には出さないことにしてきましたが、
そうすると、「忘れないでいい」「忘れたくない」ことも全部消えてしまい、
いつも空洞を抱えて彷徨うことになります。

講演後、また休日出勤で夜半まで作業。
(また、ない智恵がでんぐり返って、おなかが崩壊中)
作業をしながら、空洞を埋めること、僕なりに声に出せなかった、虫ちゃんへの想いを考えていました。
伸子のことや、白蟻のこととか、じっと思い出しながら、パスツールピペットで、ぞーーっと吸っていました。

***

「黒い時計の旅」読了。
そうね、これ、粗筋書くのすごく難しいけど、それにしても、あの表紙に書かれた筋はなってない。
たしかにヒトラーは生きていますけどね。

S・エリクソンが幻視の作家、といわれる意味がよくよく理解できる作品でありましたが、
後半萎えてしまったのは、いくつか理由があって。
まず、僕が萩尾望都とか、手塚治虫とか、その他諸々の漫画家が苦手なのと共通項がこの作品にはあります。
漫画だけじゃなく、ひとつの芸術を追求していく過程で、一部の人は、宗教、宇宙、無限といった、非常に遠大なものに向き合いたくなる、表現したくなるのは、当然なのかもしれません。
向き合った人すべてを否定する気は毛頭ありません。
でも、表現の拠り代を考えあぐねて出てきた結果を、特に視覚的に顕そうとする時、それも具象として示そうとする時、表現者は既存の物質/映像を用いるために、歪みが生じます。
観る者との間に、乖離が生まれます。

エリクソンは、僕たちを、現と幻の狭間にいざないます。

主人公は農場主の父親とインディアンの母の間に生まれた子という事実を知って、家族をほぼ皆殺しにし、都会に出て、ポルノ小説を書く。
彼は書くというよりも、夜毎彼のところにやってくる女たちと交わる幻とともにあるだけです。
けれど、彼の小説はドイツ語に翻訳され、姪に恋焦がれるZ(ヒトラー)の元に届けられていく。
小説でありながら、女は実在する。
女はZの姪ではなく、まったく異なる歴史を抱く女であり、同時に彼の小説の中では、Zの姪であるという複雑な構造を抱いている。
主人公はZの部下に妻と子を亡き者にされ、ついに老いぼれになって存在し続けるZの傍で、戦後も小説を書き続ける。
そして、復讐のために、小説の女にある変化を植えつける。

その復讐の過程が、とてもまずいのです。
醜悪なのです。
小説とはいっても、エリクソンは文字よりも絵画的/映像的でありますから、読者にはその瞬間、多量の映像情報が流れ込んできます。
他の場面の数倍量、洪水状態で。
しかし、映像を与えられれば与えられるほど、僕は空白になっていきました。
情報を与えねば、その子宮で育つ怪物なるものの不快感レンジを振り切ることができないのかもしれません。
けれども、エリクソンの画法をもってすれば、ヒトラーの悪の種子を逆に濃縮できたはずと思えてなりません。
幻想と呼んで龍が飛ぶ世界、宗教と呼んで釈迦が光臨する直喩を呪う僕には、抽象や瞼の裏に明滅する馬を宇宙と呼ぶミニマムな曲喩を好む僕には、どうしても理解することができない場景の連続になっていきました。

第二に、前半の主人公は圧倒的な暴力に支配されています。
圧倒的に幻と時間を手玉にとる力を備えています。
けれども、それを老いや死に至近することのデクレッシェンドと結び付けろというには、ひ弱すぎるほどに、後半は力を失ってしまうのです。
さきほどの最大の復讐、練りに練ったと声高に叫ぶ復讐は、あっけなく実在の女によって、壊されてしまうのです。
暴力が何かを能動的に崩壊させる速度をもっている一方で、能動的に崩壊を享受するカタルシスの烈しさが、後半で完全に失速してしまうのも残念でなりません。

第三に。
エリクソンはやはり、南部系ではないアメリカ人であるということ。
ひとつは、二次大戦/対ドイツの捉え方。
もうひとつは、情念の捉え方。
柴田元幸さんは解説で、彼の幻視力が情念の世界を内包し、ウエットな闘争を主軸に置きながら、現れるものは既存の作家とは全くことなっていると述べていましたが。
でも、彼の描く情念って、やはり薄ぺっらいとしか感じられなかった。
悲劇はある。
憎しみはある。
でも、本当の人の奥に眠る悲しみは、事実だけでは推し量れないということが体感できていないと言えばいいのか。
親を殺された子と殺されていない子、それぞれの絶望は秤にかけられないということ。
もう好みの問題だろうけど、僕は他者を納得させる事由なき絶望の方が、染み込むタイプなので、(単純にいえば、メロドラマには一滴も泣かないぞっていう感じ)
まあ、エリクソンの情念は、物語を操作するための、彼自身が内包しないものであると、認識した訳であります。

まあ、後半は、文句ぶーぶーの感想になりましたが。
もう一作くらい、彼の作品に挑戦して、判断したいと思います。
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絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
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