2017-05

another answer

本日より仕事開始。
ねむーい空気がそこら中に漂っている。
みんなで口を揃えて言ったこと。
「始業式終わったんで、午前中で帰っていいですか」・笑。

さて、年末の素氏の日記に反論する訳じゃないんですが。
実は全く違うことを考えていたので、少しだけ書いておこうと思います。

棒がいっぽん (Mag comics)棒がいっぽん (Mag comics)
(1995/07)
高野 文子

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僕は親しい人の思い出話、特に子供の頃の話を聞くのがとても好きです。
お布団に入って、子守歌めいて響くそういう思い出は、何度聞いても飽きることがありません。

素氏が話してくれた、その溝の口にかつてあった社宅の話も幾度も幾度もねだって聞きました。
平屋建てカマボコ長屋の十畳一間に両親と、素氏少年と弟さんと妹さんと、途中からおばあちゃんとおじいちゃんも加わったそうです。
共同の洗い場で料理も洗濯もして、棟々の間に共同トイレがあって、連なる棟の端っこに購買所があって。
手先が器用で優しいお父さんが、学芸会のくらげの衣装を作ってくれて、一躍人気者になった話。
お盆休みやお正月に、富岡の祖父母の家に泊りに行って、浴衣を着て盆踊りをしたり、一日で蜜柑一箱食べてしまった話。

可愛い話もあるけれど、ほろ苦いというよりも、もっともっと苦みの強い話も多くて。
僕はそのたびに胸をつまらせてしまう。
そして、一度も見たことのない、その社宅の風景が、頭の中でしっかと刻まれていく。
そう、まるでその思い出は、自分の思い出でもあるかのように、
夢の景色、あるいは本当に在ったはずの自分自身の思い出と同じに、
色彩の乏しい連続写真として、脳裏に浮かんでいる。

『棒がいっぽん』の巻頭にに収録された「美しい町」の舞台は、
おそらく60年代から70年代初頭にかけてだろう。
同じ社宅といっても、平屋ではなく、ごく初期の三階建ての棟がつらなる団地だ。
お見合いで一度だけ会っただけで結婚を決めた若夫婦のもとに
労働運動に熱を上げる若い社員たちが真夜中まで押し掛けて集会を開く。
ある夜、二人の住む部屋の真上で夫婦げんかが起こり、
何やら得たいのしれないものが、ベランダへと飛んでくる。
それは、上の住人のパンツだった。
隣の先輩格が、届けにいけば面白いことになると、悪戯(というよりも意地の悪い試験)をけしかける。

二人は、つつましやかだった。
派手なことは好まなかった。
その証拠に、休日となればデパートの人混みへと出かけていく人が多い中で、
お弁当を片手に、裏山へとささやかなハイキングに出かける。
小川を裸足で越えて、誰も訪れることのない朽ちた社に手を合わせ、その日の「頂上」でお昼を迎える。
多くを語らず、風の匂い、空の色だけを物静かに楽しんでいる。
そんな二人には、先輩格の隣人が仕掛けてきた遊戯の面白味など、困惑の対象にしかならないのは当然だった。

渡しに行っていないと答えると、隣人は、無理難題を告げる。
明日の朝までに、組合の名簿を仕上げろと。
逆らうことはなかった。
鉄筆をにぎり、ガリ版を刷り、狭い部屋の床一面に乾かない紙が、広がってゆく。
濃密なインキの匂いも一杯に広がる。
夜明けに二人は、クラッカーを温めたミルクに浸して、その黒々と酸味のきいた空間の中に朝の空気を引き込んで、じっと同じ思いを抱えている。

僕は布団の中でこの話を初めて読んだとき、「怖い」といったのだ。
それは、素氏が想像したような、初々しい若夫婦を急き立てる閉鎖的な社宅生活の意地悪さ、、、
といったものでは、決してなかった。
きっと「怖い」という表現は、不十分だったのだろう。

けれど、その瞬間の僕は、描かれた風景、そう登場人物達が語る文言ではなく、景色に吸いこまれていきそうになったのだ。
僕の頭の中に、いつしかまるで自分自身の思い出のようになってしまった風景。
一度も見たことがない、かまぼこ長屋の風景。
年代も10年、15年はずれている。
建物も違えば、間取りも違う、子供もいやしない。
けれど、一頁捲るたびに、紙面から流れ出す空気や気配は、僕の頭の中にある匂いと完全に一致してしまった。
目の前から流れ出すものと、目の裏から流れ出すものが、激流となっていった。

そして、見開き一杯に描かれた、二人の小さなハイキングの頂点からの眺望。
それは、子供時代の素氏がきっと眺めたに違いないと、僕がずっと想像してきた俯瞰だった。
(しかし、ホンモノを覚えている人にとっては、きっと明らかに違うものであるからこそ、奔流や同調は生まれるはずもない)
そう、こんな感覚は、めったなことでは起きない。
現実ではあったはずだけど、決して自分にとっては現実ではない、
極めて私的な事象を、どうして、高野文子は知っているのだろう?

これが、恐ろしさの原点だった。
だから、本当にこの感想や説明は、他人と共有できるものではない。
ただ、まだほんの3冊しか読んでいないけど、高野文子の力の一端はこうしたところにあるように思える。
気づかせる力。
眠っているもの、誰も感じようとしない感覚を、喚起させる力。
それは、ある者にとっては喜びであり、快感であろうけれど、
ある者にとっては、苦々しい不快感にも通じるものであるだろう。
そして、通常こうした潜在意識に訴えかける作品が、概ね幻想性を強く抱く中で、
この人は、勿論ある種の幻は生み出しつつも、至って現実的で社会的であることに、
ますます凄みを感じてしまうのでした。

さて、こんな説明で、分かってもらえたかな、パンダ君?
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