2017-04

knowingly

絆創膏だらけの指。
絆創膏たりない。
眠ってるあいだにかきむしる。

湿疹の芯というのがあつて
つねに休眠状態でひそんでいる。
何匹かは常駐で花を咲かせて
ある日連鎖して友達たちも開花する。

水疱はじけてパチン、パチン。

飲み込んだ毒素が、
粟立ち花に変わってゆく。
正直ものだ、きみたちは。
花のまま残したいだろうに、踏みにじられて。
正直ものは許されない、
そういう痒みの祭り。

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vowel

世界に感謝すること。
生きたいと願うこと。
楽しいと思うことをすること。

人の自由を奪わないこと。

人の気持ちを奪わないこと。

最大限の努力が出来ればこしたことはないけれど、
無理に積み重ねないこと。
よく眠ること。
深く深く呼吸すること。
美しい空気を深く深く吸い込み、吐き出すこと。

恐怖は無理解によるものと知ること。

時に頭をからっぽに開くこと。

神様。

神様。

僕は、なぜ。

過った道ばかり選んで穴に落ちてばかりなのでしょうか。

なぜ

飲み込めないものを飲み込もうとしたり
飲み込めないと思い込んだり
飲み込めると思い込んだり
堂々巡りを繰り返すのでしょうか。

普通に、偽りなく笑いたいだけなんです。  

人との距離をはかる物差しってどこにあるのでしょうか。

幾本も立ったフラグ、
それを人の気持ちとして
同時に処理することができません。
いいように処理できず、
オーバーフローするのです。

考えるのやめたい。
暴走する堂々巡り。
どうして読めるはずのない空気を、
こんな能力のない僕が
先回りして読めるはずなどないのに。

空気も時間も直接の言葉もあらゆる言語も、
何もかも読めるはずのない、僕の
壊れた電算機から、
大量のパンチングシートか、とめどなく漏出してゆき、
いまや
天井を貫く。

深く深く。
息を吸い込め。
突き破った先からどっと泥水が、流れ込む。
溺れてしまえと言わんばかりに。

世界に感謝してみたい。

生きたいと思いたい。

ただ、笑いたい。

りある新発見

昨晩の投稿について。

実はよくよく素氏に確認したら、この件は既に判明していたことが、判明(呪)。
が、別に二つ発見がありました!

まず「ミニヨン」を潮出版社の『ゲーテ全集』 山口四郎訳の当該箇所。

君知るやかの嶺 雲の桟道《かけはし》
霧深き道には騾馬《らば》の歩みおのずから遅く
洞窟《いわや》には龍の古き族《うから》棲み


ルビは少し違うのですが、黒死館本文とそっくり!
何これ! 前投稿の訳文と見比べてもらうと、同じドイツ語を見て、和訳がここまで似るのおかしくない?
虫太郎と山口四郎氏が同じ戦前訳を参照しているのではないのか?

山口四郎は1919年生まれ、黒死館初出時、15歳です。
まさかこちらが黒死館を見て……いやいや、それは穿ちすぎ。
現在戦前訳を多々捜索中。

**

それよりも!
新発見!

先のミニヨンに続く、「黒死館」本文

そして、しだいに廊下の彼方へ、薄れ消えてゆく唱《うた》声があった。

狩猟《かり》の一隊《ひとむれ》が野営を始めるとき
雲は下り、霧は谷を埋めて
夜と夕闇と一ときに至る

 それは、擬《まご》うかたないセレナ夫人の声であった。


この原典が見つかりました。
ゲーテ詩 「イレムナウ川」 の以下の節
原文全体はこちら
Ilmenau (am 3. September 1783)


Melodisch rauscht die hohe Tanne wieder,
Melodisch eilt der Wasserfall hernieder;
Die Wolke sinkt, der Nebel drückt ins Tal,
Und es ist Nacht und Dämmrung auf einmal.


和訳の一例

背の高い樅の樹の風にそよぐ爽やかな響き、
滝をなしてたぎり落ちる水の爽やかな響き。
雲が沈み霧が谷をおおうと、
夜と夕闇が手をたずさえてやってくる。

『ゲーテ全集 1』 潮出版社 新装2版 2011 , 244pp 松本道介訳

虫太郎お得意の改竄です。
狩猟とか関係なーーい!

個人的大発見

わー、今翻訳している本の註に、これはゲーテの詩からの引用とか「ファウスト」からの引用とかいうのがやたらあり。
図書館にゲーテ全集を依頼して本日受け取り。

探していたものが見つかったのは、それはそれとして。
なんと!
黒死館の以下部分で、註がつけらずにいた原詩が判明しました!
きゃー、おめでとう僕たち!!

「なるほど、狩猟ですか……。だがレヴェズさん、貴方はこういうミニヨンを御存じでしょうか。――かの山と雲の棧道《かけじ》、騾馬《らば》は霧の中に道を求め、窟《いわあな》には年経し竜の族《たぐい》棲む……」と法水が意地悪げな片笑《かたえみ》を泛《う》かべたとき、入口の扉《ドア》に、夜風かとも思われる微かすかな衣摺《きぬずれ》がさざめいた。そして、しだいに廊下の彼方へ、薄れ消えてゆく唱《うた》声があった。

このミニヨン。
ずっと、「谷を越え川を越え」で始まる「ミニョンに寄せて」という詩だと思ってました。
が、本日人文書院のゲーテ全集1をなめるように見ていて、発見。
『ウィルヘルムマイスター』の第34章に登場する、「ミニョンの歌」と判明しました!!
わー、よかった素氏の註釈では不明で残していた項目です。
めでたいので、原文と訳を載せておきます。
ゲーテってすごいよねーー。

Kennst du das Land, wo die Zitronen blühn,
Im dunkeln Laub die Goldorangen glühn,
Ein sanfter Wind vom blauen Himmel weht,
Die Myrte still und hoch der Lorbeer steht,
Kennst du es wohl?
Dahin! Dahin
Möcht ich mit dir, o mein Geliebter, ziehn!
Kennst du das Haus, auf Säulen ruht sein Dach,
Es glänzt der Saal, es schimmert das Gemach,
Und Marmorbilder stehn und sehn mich an:
Was hat man dir, du armes Kind, getan?
Kennst du es wohl?
Dahin! Dahin
Möcht ich mit dir, o mein Beschützer, ziehn!
Kennst du den Berg und seinen Wolkensteg?
Das Maultier sucht im Nebel seinen Weg,
In Höhlen wohnt der Drachen alte Brut,

Es stürzt der Fels und über ihn die Flut:
Kennst du ihn wohl?
Dahin! Dahin
Geht unser Weg; o Vater, laß uns ziehn!

ミニョンの歌

知っていますか 白いレモンの花が匂い
みどりの木かげに黄《こ》がねいろのオレンジが熟れ
たえず青空から微風が吹きかよい
ミルテはしずかにロオレルがたかく立っている――
あの国を御存じですか そこへ
いとしい方よ 御一緒にまいりましょう

知っていますか 太い円柱のうえに大屋根がなだらかな曲線をえがき
広間や部屋々々にうつくしいともし灯がかがやき
大理石の像がじっとわたしを見て
不憫なものよ どうしたのか とやさしい声でたずねてくれる――
あの屋根を御存じですか そこへ
たのもしい方よ 御一緒にまいりましょう
 
知っていますか 雲にとざされた山みちの険しさを
騾馬が狭霧のなかに道をもとめ
洞穴に年をへた竜の一族が棲み

切りたてた岩のうえにしらじらと滝水の糸がかかっている――
あの峠を御存じですか そこへ
愛する父よ 御一緒にまいりましょう

『ゲーテ全集 1 詩集』 人文書院 S35 113-114pp 大山定一訳

**
こちら新発見ではなかったのですが、新事実が!
待て次号!

fermium

楽しいこと、好きなことをやらないといけない
一方で苦しいこと、嫌いなことも飲み込まないといけない

そういう二律背反を人はそれぞれの比率でなんとかやりこなし
やりこなしそこなった者が、じっと膝を抱える。

楽しいことを義務にしたらお仕舞だ。
でも楽しいことが楽しかったはずのこと、苦しいことに変化する時、それはどうしたらいいのだろう。
変化は、どうして起きるのか。
自分の中の嗜好の変化もあるだろう。
楽しいことが、実は背後に別の要因をもち、それに突き動かされて「楽しそうに」見えていただけの場合もある。
背景が変わると、最前面に出ていたものが色あせてしまう。
あるいは、楽しいことに、別の要素が外野から加わってしまう場合もある。
楽しいことをすると同時多発的に、他者が関わりが生じて、本質が濁ってしまう。

そういうことが、ほんの些細な瑕瑾が、目に見えて増大する。
時に数分で、時に何年もかけて。

そして気づけば、自分は何もしたいことを、好きなこと、楽しいことをなくしてしまったような気分になる。

自分もとても楽しかったはずなのに、
ある時点から、客体に変わって、遠く離れて見下ろし、そこにいた人たちを呆然と眺めている。
あの時、僕は夢中になっていただろうか。
我を忘れていただろうか。
渦中にあっても、中空に浮かんだ別の僕が、醒めた眼で見下ろしていなかったろうか。

嘘はつかない。
大人になると、そうは簡単に。
その代わり、本当のことは一切言わなくなる。
隠していることを、自分で忘れてしまえば、隠していることにもならない、
それ以前に罪悪感に苛まれることがなくなる。

本当のことを言っているように、親しげに話してしまう。
その瞬間、多くの人は、気を許してしまう。
気を許すということは、小さな甘えや弱さを見せることだ。
でも僕というひどい人間は、物凄く弱音を吐きまくるくせに、他人の甘えには平手打ちで返す。
それは信用していないから、許せなくなるのだ。
だから、本当の事を、本当のような事を話さないようになる。

**

怖い妹が親身になって病気の相談に乗ってくれる。
今は驚きとありがたい気持ちが多分にある。
でも、いつか僕の気持ちが変容してしまうのだろう。
いつも通りに、断絶を繰り返すのだろう。

病院を変えないといけない、ということはよく分かる。
別の病気なのだということも、よく分かる。
自分に甘い僕は、
また苦しいとのたうちながら、他人を散々暗い気分にさせるだけさせて、
次の階段をのぼれない、臆病者になりさがってゆく。

**

僕と付き合う人は、どんなに疲れるだろう。
自分と向き合うのをやめて、純粋に人の話を聞く方が楽しくなる瞬間が、いつか来るのだろうか。
無理に我慢を飲み込んだりせずに、脱力して世界に目を開く日が来るのだろうか。


medley

最初に切り札を使ってしまい、逃げる手立てをなくす。

楽しい映画をみても、
すぐに大量の負の霊気に襲われて
また

どうやって普通に歩いてきたのか、ここまで。
コップが小さすぎるので、毎日あふれこぼれてしまう。

死にたいのと消えたいのとコワイのとで
押し潰される。

何がそうさせるのか、分からない。

胸が潰れる。

誰にも会いたくない。

メールも読みたくない。

こういう吐瀉物を公開一時しては
暫くすると、それ見てまたパニックになり
非公開にして、また暫くすると、吐き気でたまらなくなる。

行けども行けども、昏い途。

vanadium

帰り道、青い手袋が落ちていた。
手袋と言っても毛糸のそれではなく、くしゅっと丸まった実験系手袋だ。

一般の人も手荒れ防止でディスポのラテックスグローブを使うことがある。
これはネットなどでも購入しやすい、が、概ねクリーム色だ。

そのくしゅっとした塊を跨ぐとき、僕はそれがラテックス製ではないと見抜いた。
ラテックスの伸縮性のある感じではなく、伸びの悪い、ノペッとした気配がある。
ラテックスは中に粉がついていて、これにアレルギー反応を起こす人が多く、
約20年前からパウダーフリーが主流になった。
素材のラテックスは伸びとフィットが良い反面、粉だけでなく素材自体がアレルギーの元になることもある。
さらに紫外線による硬化・劣化が強いのが難点でもある。
そこで出てきたのがアセトニトリル製で伸びは劣るものの、肌へのやさしさは格別。
どういう製造工程のちがいか、ニトリル系は着色が豊富で、緑や菫や水色などさまざまだ。
そして、色を見ると、メーカーがある程度絞り込めるという事実もある。

今夜、道に転がっていたのは、濃い目の青。
これを出しているのは、自分の中では一社しかない。
海外輸入品ではなく、某実験系代理店メーカーブランド。
なかなか一般人が購入するのは難しい気がする。

そしてそのブランドは、前職場で自分専用に購入してもらったもので、我が家に三箱残っている。
手湿疹対策に、食器洗いに活用している代物。

この道を前回通ったのは、昨日の午前中。
ということは、僕の体に付着して、落下、そのままこの場に丸一日以上転がっているとでもいうのだろうか。
どうにも解せないミステリー。
解せないけど、一瞬にしてこのささやかな推理が進み、ニッと笑ったのであった。


**

人は、対人関係という点においては、固定された得手不得手など存在しないのかもしれない。
他者に投影された自己の無数のパラメーターが複雑に感応し、
聞き上手、話し上手、聞き下手、話し下手に変わるのではないのか。

人は生きてきた分だけ、いかなる経歴であれ、たとえ日頃引きこもりであろうとも
何らかの「専門性」を持ち合わせていて、
聞き手に興味と、甘受する知識がある時、加えて引き出す力が加われば、
どんなに朴訥なミザントロープも、舌を躍らすのではないのか。
そうすれば聞き手は、自然と合いの手をうち、逆に語り手に変わる。

僕も
むしろ感情から遠く離れた、大きく捉えると「技術」に関する話題であれば
とめどなく話していることに気づく。

そういう条件がそろう瞬間が面白いと思う。

**

「同心円状」と「偏位性」という概念についてずっと考えている。
被修飾語は、鏡の反射、脳の放射(思考であろう)。
これが実質、どういう状況/概念を比喩しているのか、ちっとも掴めない。

図形的にみると
円は既に互いに相似の状態にあって、さらに同心円となれば空間における位置関係でも
「強者」の位置にあると思う。
何が強いのかって?
うーん、説明しにくい、その状態になるレア度があがることは、
既に麻雀において飜数が高いのと同じ、
ゲームにおける高得点は希少性確率の低さと同等であるという意味で
「強い」といいたいのだけれど。

対して「偏位」した状態というのは、傾きを固定しないならば、単にブレと読むならば
遥かに起こりやすい事象であって、「同心円状」の対義語ととらえてもいいのかもしれない。
が、これを鏡だの思考だのにかけて一つの概念として捉えると、急に思考停止してしまう。

ということで、後半、男爵の喋りに、いい加減にしろと突っ込みを入れる。
作者と懇意だった、急進派のカント哲学者、Ernst Marcus(1856-1928)の思考回路がちっとも分からないので、四苦八苦している。
それだけの話を、自分の脳内闘争的に取り出してみました。

終わんねー、やばいわ、非常に。


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絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
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