2016-12

アルバ

穏やかな一は決して無駄に己に踏み込んで語ることをしない。
好きなことだけを語り、華麗に綱を張る。
他者を入らせないだけでなく、自らも内側に入らない。

どうやってそのスマートな方便を身に着けたのか、 
羽衣のように軽やかにやってみせる。
それとも、もうすっかり脱いでしまえたのかしら。

僕は一語書けば、その瞬間から文字が腐敗するのを感じる。
いやきっと腐敗してゆくのだと思い込んで、
恐ろしくなって、消してしまう。
始めから書かなければ良いのに。
何も喋らなければ良いのに。

あの軽やかさを得られるなら、
自身を嫌うこともなくなる。

腐るだけでなく、偽っていると、 
適切な言葉を持っていないと、しつくりしないまま、発してしまう、愚かしさ。


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エリック

アドラー心理学が実践出来たら今の自分はいない。
自己肯定感が話題になる今日この頃ですが、全否定ではないよ勿論。
ただ自分の核となる部分が全く肯定できない。が、そこが肝なのだ、やる気スイッチの。
成功体験云々についても、難しい。
成功体験というのは、他者との比較として見るならば、あるいは他者からの認知として考えるならば、自分には関係のない話になってしまう。
褒められて悪い気がしない人は大勢いるのだろうけど、
僕の場合は、認識されることがかなり恐ろしいので、結局、自分が納得できるものができたのか、
全てここにかかっている。

アドラーのいうように過去に拘り、目的を見失っているのではないかということだけど
最近では、もう過去の呪縛がどんなものであったのか、具体性を失いつつある。
もともと怨嗟とかじゃなくて、そこに他者のどんな意図があったかとか汲み取る能力に欠けているというか、
冷え冷えと無感覚になっているというか。
言葉にならない気持ちの悪さだけがポツンと落ちてくるとか。
それでも、人はそれをトラウマとか名づけようとするのだろうけど、
そうした行為は済ましてしまうだけの処理といえばいいのか、言葉のもつ呪いみたいなもので
本当はもっと違うところに答えがあるのだと思う。

今夜は素氏と沢山童謡を歌って遊びました。
子供の頃お父さんが沢山ドーナツ盤買ってくれたので、僕は今でも歌うのが大好きです。
「ペチカ」「からたちの花」「雨降りお月さん」歌うと、涙でいっぱいになります。

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1991発売のSt.Etienne の大好きなアルバム。
今も古びない。




パレアナ

人はひどく矛盾しているので、
夜や孤独を求める傍ら寂しさをしとねにまぶたを閉じる。

常に向き合うのは、己と儚く散る夢想の欠片。
記憶の底にある書きかけの物語は、毎日取り出され、綴り連ねられ、砕け散り、また浮かび、また沈み、二度とは帰らぬうたかたとなる。

昔、押し入れではない、引き戸ではないその空間を、僕たちは夜具入れという名で呼んで、確かに昼間は布団が詰め込まれていたのだけれど。
あれは本当に今でも夜具入れと呼ぶのか。
夜になると、夢の道行きの布団が外にでて、そこは朝まで空洞となる。
その高い段によじ登り、見渡せば布団の敷かれた八畳間は、昼とは違う景色に見えた。
がらんどうになった洞は、ただベニアに囲まれた空間にすぎなかったはずなのに、夜でも昼でもない、異相に思えたものだ。
本当に眠る前の、わずかな空間は、家という怪物から僕を引き離した。本を読む楽しみを知る前の子供たちは、夢想の種を別のどこか遠い遠い他人の与り知らぬ土地から拾ってきて、少しずつそこに埋めるしかなかった。

今は夜具入れもないけれど、本を知ってしまったけれど、他人の物語も発端になるだろうけど、昔植えたあの種が、ふと芽吹いていることに気づくことある。

それを知るには、夜が必要であり、孤独が不可欠であるのだけれど。
濁り、矛盾が深まると、すぐに見失う。

芽は蔦のように高い塔のてっぺんまで登攀しているのだが、僕は夜を暗く暗くできないがために、裾の枯れた一葉、緑から黃、濃紅へと瞬く間にかけて朽ち砕けた骸だけを見ることになる。
からからに乾いた欠片は、響きだけを残す。

そこに郷愁はない。
怪物の後ろ姿だけが今はなきベニア、どこかの廃材置き場で折られた板にぬっと影を落としている。

それは求めた種ではなく、恐れの残滓である。

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絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
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