2016-08

エイドリアン

まったく視覚情報を与ええない空間で
声のみによって第三者に小説や映画を紹介できるというのは
それだけで、特異な才能なのではないかと思う。

そういう人に憧れる。

共通言語は時に枷になるけれど
それでも、言葉が使えるのは素晴らしいことだ。

誤解があっても、
重ねてしまうことで、想像力を掻き立てるより奪うとしても
言葉は必要なのだろうと思う。

発声器官を失っても、手紙は届く、
そういう風になればいいな。

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「コドモノクニ」イラスト 古賀春江
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アルフレッド

大人になるとは
どんどんわからなくなる、ことである。

先日「オトナの」から改名「オトナに」となっていた、いとうせいこう&ユースケサンタマリアのトーク番組で、或る映画監督が言っていた。
実に、実に至言である。
全然分からない、何も分からない。

小説の手法の一つに、話者の信用性が揺らぐというのがあるかという。
先日読んだ「聖ペテロの雪」でも解説にそのようなことが書かれていたが、
まったくもって、たちが悪いことに、自己の話者たる自己が、最も信用できない事態に年々なってゆく。

同時にそれなりに堅牢であったはずの砦も風雪に堪えきれず、
あるいは鴉に啄まれて、ぼろぼろに瓦解していっていることにも気づいていない。

僕は唯一、最後の礎石となるはずと信じていたものが、
日干し煉瓦のごと、崩れていこうとするのを目の当たりにする。

占いは、弱い心につけこむとよく言うけれど。
昨日たまたま姓名判断をみて、
名前が変化することなどないにもかかわらず、数年前と大きく違っているのに驚いた。
いやいや、占いは万人に高確率に該当する言葉の羅列で、
当たっているように見せかける術なのだから、別段恐れることもないのだが。
鬱に悩み、あらゆる人が離れてゆき、孤独に終わる、らしい。
そうだろうと思う。
そうだろうと思ってしまう。

全て周囲の人や環境や過去を悪者にしている
見えない聞こえない、見ようとしない聞こうとしない僕は、そうなのだろう、か。

告げ口や愚痴や相談、そういったものを全て声にだして言わないようにすることも、
極力それが残された道だと思ってきたことも正解ではないと。
解決には向かわないと分かっても、声が出さないことも一切許されないというなら
あとは絶縁体になり、薄ら笑いでも浮かべるくらいしかないのか。

本当にどんどん、どんどん分からなくなる。
砂は散る。
散るのみ。

マーガレット

己が感じるよりおそらくもっと早急におかしくなっている。
僕が知る過去のそれぞれの時点の僕を知っている人がどんどんいなくなり
(そうするように自分が仕向けている)
今の奇態だけが、茫洋と野放図にのびた夏草の中に佇んでいる。

それで実際に蔑ろにされたり、反感を買うことになっても、
さして気にはならないのだけれど
それよりも、己が真実何をしているのか全く分からないまま、
ふと時計を見遣るという結果に驚くのだ。

多忙は人に、偽りであろうとも気力と、時に体力を与えるもので、
そうした後押しによって多くの人は生きているのかもしれない。
けれど多忙を自失という自意識の範疇に忍び込ませてしまった瞬間、
みえざる手にすら、縋ることが許されなくなる。
自意識は、多く焦燥や不実の種であり、幸福は無意識の方へ潜みやすい。

**

「私を離さないで」テレビドラマ版、素晴らしかった。
溜めていた全十回、週末に一気に観てしまった。
この話は、一度読むと、
子供の頃怖い表紙の本を表にするとお風呂に入れなくなるので、必死で伏せていた経験に似て
読み返すことが恐ろしくなってしまう小説なのだ。

眠る前、何度も読み返している本の雑誌社の吉野朔実劇場集成を開くと、
これが取り上げられているページにぶつかる。
「タイトルから恋愛ものだと思って敬遠していた」
「もっと早く読んでおけばよかった」
「SFにこんなアプローチがあったなんて」
という悶絶の賞賛の文言が並んでいた。

僕にとってカズオ・イシグロは名づけがたい作家だ。
巧緻を巧妙とは見せないほどの上手や感性をもち、
それが鼻につくわけでもなく、薄っぺらなどとは決して呼ばせない世界観がある。
けれど彼に対して絶対的な親近感を抱くといえばウソになるし、
ひれ伏してしまったり抱きしめてしまうこともできない。
煙がなす、もくもくとした白い塊が巨大化して山を越えてゆく。
けれどその塊は薄暗い影をいくばくか落とした後、えもいえぬ光を透過したりする。
海外文学にありがちな宗教をこえた聖性でもなく、もっと根源的な光をもたらすと思ったら
一方で見えぬ恐怖でこちらを引き倒している。

特に「わたしを離さないで」はその不条理感
(シュールレアリスムのもつ意味ではなくリアルのもつ不条理)におののく。
怖くて二度と読み返せない。
映画の出来があまりに良かったからドラマは期待していなかったけれど
恐らく脚本家の並々なる潔癖さや禁欲的な崇拝が
一語一句この世界をこわしてはならぬという緊張感で書き上げられたのだろうと思わせる出来だった。

そして舞台は当然、日本に置き換えられていたのだが、
物語のもつ普遍性から、
おそらくある程度過度に文明化した国であればどこでも齟齬を生じさせない
恐ろしい未来を描いていることに気付かされたのだった。

人は生まれた時から死に続けているとか
死期を知らされていることが幸不幸を分けうるのか
肉体は精神の器であると言い切れるのかとか。

少なくともいつもカズオ・イシグロは「誠実すぎる」のであって
だからこそ、恍惚とは無縁の、恐怖を人にあたえうるのだと思う。




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絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
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