2016-05

ミカエル

なすべきことが積みあがる。
時間は溢れていても嘔吐感が長虫のように背を駆け巡り
電話の電源を落として一日が過ぎる。
人には会えない、声が出ないだろうから。

**

残していてもしょうがないけど、僕の手元には十代の頃の日記や、届くはずのない手紙や、カカイル時代に貰ってもほとんど返信しなかった沢山の感想書簡や、大量の創作ノートが、埃をかぶって積まれている。ジュリアン手帖の前には、福永ノートもあったり、黒死館双六メモもある。
そうやって成さないものが、使われない机の下で転寝を繰り返す。

ジュリアンに関する自作メモを眺める。
たしか発熱したまま新幹線の中でこれをつくっていた記憶がある。
支離滅裂な部分も多い。
日記を順に追って、そこから交遊録や、美術・音楽・書物に関する視点を抜き取ろうと試みたのだ。
ブログを見返すと三年前に四回彼の観た絵を紹介していたね。

つまり夏コミどうしようかと、頭抱えてるのだ。
中途なネタはいろいろあるけど、誰も読みたくなさそうなものばかりだよ。

**

1929年5月24日
コクトーとジュリアン・グリーンが頻繁に会っていた頃の、コクトーの酷評。
「ヴィクトル・ユゴーは自分をヴィクトル・ユゴーだと信じていた気狂いだった」

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ソラリナ

びっくりするほど厚顔無恥な電話が掛かってきたので
慇懃無礼法により対応したら、
先方がむっとしているのが分かって可笑しかった宵。
相手は80過ぎのお婆さんなのだが、こちらのオブラートびりびりに破かせる勢いの凄さに感服。
どうも最近、オブラートを「おざなりにしている」との正論風をかざして、
真正面から怒りにあらわにしてくる人が多いなあ。
いや、いいんですよ、僕も本気出してもさ。
でも、疲れるし、誰得なんだって話だから、ノラリクラリさせてもらいますよ。

**

大好きな「LIFE」のコントにこんなのがある。
超ダメ人間リーマンが、みんなに「仕方ないな」と怒られながらも、
全然仕事をしないで同僚や先輩にやってもらってヘラヘラしているんだけど。
その人たちがいなくなって、新入社員と二人きりになってさ。
新入り君も調子に乗ってダメダメ君にタメ口とか叩いたら、
急に真顔になって
「俺は出来ない人間を装ってんだ、仕事振られなくて済むからな。だけど、お前に言われる筋合いないぜ」
と切れられるっていう。

僕も仕事に自信ない風、話すの遅いぼんやりさん、
無口で人と馴染まないのは超内気だからと職場で装ってたりしますが。
実は、そんなことしてると、本当にそれが地なっちゃうんだよ。
と時々思う。
実際そうなんだろう。
あと別なところで、吹き溜まったものが爆発して、隠れた人格が暴走する危険も孕む。
誰しも「分人」は存在し、多面体ではあるけど、
何かを得るために歪めてしまうと碌なことないでしょうとも思う。

**

ドキドキハラハラで要塞牢獄から脱獄したクロポトキンは、
選挙に勝つことだけを考え、国家社会主義が実は国家資本主義になってしまったドイツに
見切りをつけた欧州の他国のアナーキストたちとともに、スイスのジュラ連合を中心に活動してゆく。
実力と気高い精神と魅力を備えた数多の活動家たちと並んで、彼は赤旗を振って行進する。

ということで、下巻も佳境に入ってきました「ある革命家の思い出」
一向にだれることを知らない、名文が続く。

言葉について誤解の毎日だけど、
これを読んでいて、自分が「ニヒリスト」の定義を間違っていたことに気付いた。
世間を馬鹿にした、苦虫さんをイメージしていたのだ、ずっと。
これもまたごく限定的な一面ではあろうが、
実は能動的であり、極めて実際的な存在であったということを知る。
そして、僕の周囲にいて安心するごく僅かな人の多くが、ニヒリスト志向だとも思う。
が、僕も含めノラリクラリさんでもあるので、真のニヒリストとは呼べないのである。


多くのロシア作家にあるひときわ目だつ誠実さ、西ヨーロッパの読者をびっくりさせるあの「思うことをはっきりいう」習慣もまた、さまざまな形のニヒリズムである。
まず第一に、ニヒリストは「文明人の因襲的な虚偽」とでもいうべきものに挑戦した。絶対的な誠実がニヒリストの著しい特徴であり、この誠実の名にいおいてニヒリストは自分の理性が正当化しえない迷信・偏見・風俗・習慣などを放棄したし、他人に対しても放棄することを要求した。ニヒリストはどんな権威のまえにも屈することを拒み、ひとつひとつの社会制度や習慣を分析して、すこしでも仮面をかぶった詭弁を見つければ、これに反抗した。
ニヒリストが父たちの迷信と訣別したことはもちろんである。哲学的な認識においては、ニヒリストは実証主義者であり、不可知論者であり、スペンサー流の進化論者であり、科学的な唯物論者であった。またニヒリストはけっして感情の心理学的な必然である素朴で誠実な信仰は攻撃しなかったが、人々に宗教という仮面をつけさせる偽善に対しては、徹底的な攻撃を加えた。
文明人の生活は小さい因襲的な虚偽にみちみちており、おたがいに憎しみあっている人間も街でいき会うとにこやかな笑顔をつくる。ところが、ニヒリストは冷静な顔をしていて、ほんとうに会ってうれしいひとだけにほほえみかけるのである。
(略)
またニヒリストは、世間話にふけったり、「女らしい」身のこなしや念いりなお化粧を鼻にかけたりする女を遠慮会釈せずにやっつけた。きれいな若い婦人に向かっても、「そんなばかげたことを話したり、つけまつげなどをしてよく恥ずかしくありませんね」などと、むきだしにいったりした。ニヒリストは女のなかに人形やマネキンではなく、同志や人間を見たいと思ったのである。
下巻 89-91pp

エルザ

ここ数か月薬が効いたのか、かなり復調していたのだが、だめっぽい。
鬱は確実に眩暈と金縛りを引き起こすので、
そして仕事にいけなくなって、またそれで次の日もいけなくなるの繰り返しになる。
薬といっても処方されてるのは、漢方なんだけど。

**

今朝の夢は
目覚めると、右腕に大量の発疹というか、カサブタを伴った水疱瘡の晩期のような赤黒いのが並んでいて。
なぜか、ああEBウィルスに感染したんだとか思いこむ。
(伝染性単核球症を起こす原因菌で、こんな症状は間違っているので誤解なきよう)
で、仕事休む正当な理由ができたのに、なぜか出勤して、
白衣の袖まくってその発疹にきづかれ、職場が大騒ぎになる。
誰も直接的になぜ出勤したんだと非難はいわないけれど、
そこらじゅうで、どうやって他の人を避難させるか、怒号が飛び交い、
ああ、ここには来ちゃいけなかったんだなあと、呆然と立ち尽くしてる。

**

先日新歓焼肉会があり、
当然というか、他意なく欠席にしたのだけれど、
翌日、真正面から「なぜ来なかったの?」と
非常に無邪気に問われて、さすがにたじろいだ。
そんなに苦手な人がいるわけでもないのだけど、習慣的に欠席にしていた僕は、
内心「なぜ行かないといけないの?」と鸚鵡返ししたかったけど、
さすがに、そうは言えなかった。
空気を読んだといえば聞こえはいいけど、
嘘をついたことには、変わりはないので、濁りはぐるぐる回って沈殿していった。

流行っているとかいうアドラー心理学を誤って受け取ると、
ただの自分勝手な人になってしまうし、
承認欲求を貢献に対する善き反応に置き換えろといわれても、
そもそも認知されることが恐ろしかったり、
貢献が的外れなおためごかしに見えてしまうおバカさんには、
どうにも居心地が悪く感じてしまうのだ。

そんなこんなで、水疱瘡の終わりのカサブタは痒くて掻き毟ってあばたになるよねと、
いつも痘痕ばかりだという話。

**

小笠原豊樹こと岩田宏の「同志たちよ、ごはんですよ」(草思社)をパラパラやっていると
こんな言葉に出くわした。

ジャン・ジュネが記者のインタビューにこたえて、こう喋っていたのである。
「サルトル? そうね、この世の中じゃ、みんな、人に尊敬される淫売になろうと一生懸命だけど、サルトルはそうじゃないから好きですよ。最近の自伝を読んで面白かった。かれは自分もいくらか淫売であることは知っているが、人に尊敬されようとは思ってないからね」  181pp

岩田宏はこのジュネの発言になんておっかないことを云うんだと、褒めてるけど。
この語を受けて、文芸時評なんて売名行為の一種なんだから、書きたくなーーいと、ノラリクラリやる気ないんです書評を漕ぎだす。
岩田宏はかっこいいよね。
特に僕が痺れたのは「最前線」っていう散文詩集。
まだユリイカがユリイカであった頃(いまのユリイカにもあるかもしれないけど)、巻末に投稿詩のコーナーがあって、時々えらくキメキメの散文詩が載っていて、高校生の僕は憧れていました。
「最前線」はキメキメじゃなくキレキレなんだな、むしろ不条理性という意味で。
かっこいい人というのは、非耽美というのか、自分を完全に突き放しているところにあって。
昔は自己陶酔芬々たる作家も好きだったけど、
今は、どんな嫌味も弱音も客観化によって、高踏的になってる人がいい。
そういう人は数少ないけれど。

散文詩と短編の境界は判然としないけれど、
奥泉光の「滝」の清冽さも、散文詩と呼んでもいいんじゃないかと
そういうことばかり考えている。

イグノア

いつの時代も尊属殺人が横行する意味がよくわかる。
血の意味を誤解している、甘えすぎる輩が多すぎるからだ。

生まれたことへの感謝が最大の親への恩返しだとしても
そもそも命を与えられたくなかった者にとっては、
この論理は何の意味もなさない。
世の涙は、ほぼエゴと承認欲求でできている。

自死の主たる動機は苦悩によってもたらされるが
もしその苦悩のない状態で自死を選択するなら、さぞかし爽快であろうと思う。
よく今死んでいもいいくらい幸せなどという陳腐な科白が横溢するが
その際で掻き切る者が実際にどれだけいるというのか。

結果は謎のまま伏せられ、風化する。
けれど謎と風塵を望む者があっても、それもまた個の采配である。
風博士のように、無に帰す、乾いた笑い声だけを残して。
その笑い声をも瞬間かき消されて。


涙は出ない

twitterを見ていると日々大量の訃報が流れてくる。
ついでに著名人の誕生日だの命日だのも流れてくる。
冥福だの合掌だのの言葉に、どこか鼻白む思いもする。
人それぞれの血肉が何から成っているかは分からないので
その言葉の軽重は問いかねるけれど。

先日、吉野朔実さんの訃報が流れた。
おそらく内田善美を越えて、清原なつのを越えて、僕の最も血肉となった人。
昨夜半、眠れず枕元の本の山を探って出てきたのは「恋愛的瞬間」だった。
この人には僕にはいずれ遠く遠く気づくであろうことと
永久に一人では気づき得ないことと、渡ってはならない淵の際を見せられてきた。

恋愛よりも、実は遥かに異性間の友情めいたもの
(友情と言いきるには難しい、一時期芽生える際どい結束のようなもの)
を描いていたと思うし、
彼女の描く草草のほとんど刃にしか見えない切っ先が見開き一杯に並んで読者を切り刻む時
僕たちは否応なく死にいざなわれ、同時に死することの滑稽さと無意味さとエゴを知った。

あるいは、セックスと生殖が一切つながりのないものだとも
性別に潜む、万華鏡のように己すら制御できない不確かな別の性があるのだとも
僕はずっとずっと「少年は荒野をめざす」で狩野に出逢って以来
そのコマの隙間から、台詞の空白から教えられてきたのだ。

狩野都や夏目らいちや菅埜透が
僕にとっての、永遠の憧れの子供たち、少年少女であって
永遠にその片鱗すら遺伝子に組み込むことが赦されない孤高の存在だった。

(だから、S女史が同姓同名の登場人物を小説で使ったことは
パスティーシュでもオマージュでもないと、今でも想っている)

「眠れる森」の林檎を食む狂女を妻にした医師の
あのまなざしを今夜は胸に抱いて眠ろう。
この作品を収録した「天使の声」のなかにたしか出てきたと思うが
画家は盲しい、音楽家は聾するように神は最も才に長けた部分を妬むといった科白があった。
嫉妬も羨望もすべて見越した高みに、その人は位置していて
(人は本来そんな位置には立ちがたいので、ある種のユートピアに終始するが)
本当に肉体ごと、雲の浮橋、欄干の果てにのぼっていったのだと思うことにした。

涙とは、気を済ませる行為なので、一滴も流れない。

なるべくしてなる

そを聞きにいった啄木も夢中になった
戦前のアナーキストの大ベストセラー、クロポトキン「ある革命家の思い出」(平凡社ライブラリ)に夢中になっている。

こういう古典の心揺さぶるものにこそ、何か同人的な動きをしたいのだけど
つまり、僕はいつも意図せざる物をつくっている感が拭えなくて
各々はそれなりに面白くはあっても、世間の反応と自己の内面とのバランスは、むしろ反比例していて、
おそらく世相は、いつの時代を扱っても
「分かりやすさ」と「やわらかさ」を求めているので、
「お堅いもの」には見向きもしない。
それが商業活動の、非情な原理であって、結局思考を停止させている自分を寒々と眺める。
そして宣伝活動を最小限にとどめる方向に進む。
それは、anywhere but here を夢見るだけで、一歩も踏み出さない己の愚昧にも重なる。

そんなごたくはどうでもよい。

クロポトキンの精神の潔癖さは、透徹したまなざしは、科学的な探究心はどこまでも美しい。
だから百年前から一向に色褪せない。
幸福な貴族の子息の彼が、農奴やシベリアの流刑者や中国奥地の人々に向ける、理想主義とはかけはなれたコスモポリタンの視線に、心揺さぶられない人がいるだろうか。
アレキサンドル二世の近習となり、あえて約束された未来を蹴ってシベリヤ自治に向かい、軍籍を離れ、地理学者として測量と未知の地形を予測する。
端々に彼の自己破綻なき信念と将来への跳ね板が、露わにされ、クロポトキンがアナーキストになるべくしてなったことが、よくよく伝わる。
このような背筋に悲愴で清廉な芯がぐいと差し込まれる読書は、そうそう出会えない。
そういう瞬間だけ、誰かと一緒に泣きたくなるのだけれど、
本当に自分が望んでいるのか、架空の友、地球のどこにもいない友に手を振るだけにとどめる。
僕にはこの振動を伝えるすべが、何もないので、ただ手を振る。

革命というものは、そもそもの出発点から、「踏みにじられた抑圧されてきた者」に対する正義の行動でなければならないものであって、あとになってから行われる償いの約束ではないのである。でなければ、その革命はかならず失敗する。不幸なことに指導者というものは、戦術問題などにばかり夢中になってしまって、いちばん大事な問題をわすれてしまうことがよくある。大衆に向かって、新しい時代がほんとうに始まったんだということをわからせることができないような革命家は、絶対に革命の大きな目的を実現することはできない。  210-211pp







そを聞きにゆく

テレビを持たない人の話を聞くと
静けさがあり、読書へ集中できそうな利点があるのだけど。
僕は在宅していると、ほぼテレビをつけっぱなしにする。
ラジオのような音寄りの使い方だけど、
決定的に違うのは、ラジオはパーソナリティが、こちらに向かって語りかけてくる、テレビはこちらには直接的には語らない。
テレビは雑踏に身を沈めている感じがするけど、ラジオは向かい側に誰かが腰掛けている。

今は変なパニックが出なくなったけど、
前職では人の話声がすると血の気がひいて、すぐにipodに逃げてノイズを消さないと真っ白になりそうだった。
それは知ってる人の声で、言葉は音ではなく、意味や感情を剥き出しにするので、雑踏とは全く違うものだった。

そを聞きにゆくのは、
故郷を思う気持ちだろうけど、
僕は懐かしさではない、別の雑踏を探して無意味な競馬中継すら、機械的に放映させていたりする。

そして真夜中、おかしなものが、耳に油断を与えるとテレビの中で蠢いていたりする。
極めて受動的な形で、出会う。

ざわざわと、ただそれだけで落ち着ける。

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絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
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