2014-05

メランコリー

ようやくドストエフスキー「悪霊」を読みはじめる。
「カラマーゾフ」「罪と罰」「地下室の手記」とはまた随分と異なる雰囲気ではじまる。
今までの、急転直下怒涛のドラマ性は、まだ一巻では感じられない。
さてこのマッタリ感がどう変化していくのか。

二十代後半から三十代前半と、僕が偏愛した埴谷や高橋和巳が
ドストエフスキーの強烈な影響をうけて作品をうみだしていたということは
知識としては持っていたけれど、
こうやって先祖帰りのように、その根幹に立ち戻るとまた奇妙な気持ちになる。
もう一回、根幹を味わってから、彼らの元へ戻りたいと。
「死霊」も「邪宗門」も「日本の悪霊」も、
まったく表層しか染み込んでいなかったんだなあと、きっと思うに違いない。

僕はよく、小説に「絶望」を求めているというけれど。
この「絶望」はどこからくるかというと、
ある種のメランコリ気質が人間の最高級の精神の落下を創造し描いたもの
という感じなのだけれど、うまく説明がつかない。
メランコリは、生来備わっているのか、それともごく幼い時期に、
ありがた迷惑な(本当にない方が幸福なのかもしれない)天啓のようにもたらされるものなのか。
降りて来た人にだけわかるようなもので、
まあ、ずっと背中にのっかっている憎みきれない妖怪のようなものだ。
個人的には、「鬱」とは似て非なるものだと思う。

高橋和巳は自分のことをメランコリ気質と呼んでいた。
ジュリアン・グリーンも日記の中で、よく自分のそのメランコリについて語っている。
ジュリアンはよく囚われているが、メランコリの人は自分を不幸などとは思わない。
むしろ、年に数回、非常なる多幸感に襲われている。
あれはまるで、雲間から差し込んだ光が眩いばかりに弾けるような不思議な感覚で
どこか特定できない宗教の極限のようなものを感じる。
しかし日常は低空飛行であり、ゆえに「絶望」を、創造しうるかぎりの「絶望」を
探しているようなところがある。

ドストエフスキーは、陰惨な内面をえぐりだしているけれど、
到底メランコリな雰囲気は感じ取れない。
極限を想定しても、どこかもっと冷静で、もっと躍動と博打的な匂いがあり
それゆえ、ドラマチックにもなり、下降一辺倒に陥ることがない。
(ドストエフスキーをさらに外側から見て、
革命を諧謔的に悲哀に充ちた笑いにかえているのがコンラッドだと思うのだけど
「密偵」「西欧人の眼に」とか、その透徹ぶりにぞくぞくする。)

で。
「悪霊」には、選民意識をこっそりもってしまったメランコリさんたちに
こんなイヤミの一撃が加えられております。
この素晴らしい人間観察。

主人公スタヴローギンと、家庭教師ステパン・ヴェルホヴェンスキーの関係について述べるところ。

もっとも、子ども(スタヴローギン)の教育や精神面での成長となると、母親はひとりヴェルホヴェンスキー氏にまかせきりにしていた。そのころ夫人は、彼をまだ完全に信頼しきっていたのである。ただこの教育者は、自分の教え子の神経を、いくぶんなりとも狂わせたと見るべきふしがある。

(中略)

これまた念頭に置いておきたいと思うのだが、この親友同士(スタヴローギンとステパン)が夜の夜中しっかりと抱きあい涙にかき暮れた理由は、なにも家庭内のごくつまらない内輪話のせいだけではない、ということだ。ヴェルホヴェンスキー氏は、友だちの奥深い心の琴線に触れ、まだぼんやりとしたものながら、あの永遠に消えることのない神聖な憂いの最初の感覚を、少年の心のうちに呼びさますことができた。選ばれた人間というのは、いちどこの憂いを味わい、それを認識したが最後、もはや安手の満足に安住しようなどとは思わなくなるものである(世の中にはこの憂いを、かりにそういったものがあるとしての話だが、このうえなくラディカルな満足より大事にしている物好きもいる)。

光文社古典新訳文庫 「悪霊」 亀山郁夫訳 第一巻 90-91p




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