2013-02

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湯水を泳ぐ

心がざっくり切られて
刃が研がれ過ぎているために
一瞬、血液自身が噴き出すのをためらうような
吉野朔実の旧作を読んだ後この本を読むと
それはもう、
で、君は何が楽しくて漫画を読んでいるのかいと云われそうな。

楽しくなくて大いに結構ですが…。
第一巻の最後、突き落とされた姿で止まっていた思考が
二巻の最後まで行くと、
ある意味全く予想だにしなかった終局に驚かされて、言葉を失う。

これは、「少年は荒野をめざす」で
狩野と陸が飛び降りて、次号へ続くとなったあの日に似ている。
ぶ~けの発売日が待ち遠しくて、同時に怖くて。
そして二人の死を待ち望んでいる自分に気がついた。
今回も、死を
そうでなければ、復讐の代償を
期待している自分がいた。

すべて裏切られ?たというのではなく。
かつて「少年は荒野をめざす」では
そんな「まやかしの美学」は醜悪に帰結する、ただの夢にすぎないと断罪されたが。
今回我々はもっとひどいしっぺ返しにあうことになる。

少年少女は決して純粋に結晶化などしないと。
肉体は汚れても心だけは穢れないなどとは幻想であると。
誰もその時間に留まっていないのだと。
ただぬるく、体温よりやや低い湯水を不自由なバタ足でも、教えを受けずとも泳いでいけるのだと。
そうやって、自然と殻ははずれていくものだと。

ここには固執だとか、哀惜だとかはほとんどなく。
ただ海辺のコンクリートに腰かけた新しいあの一組の恋人の後姿を見る視線だけ。
それだけが、小さな感傷を残すだけ。

これがきっと現実なのだと、
今のまさに現時点の現実だと、
鈍い刃は、ギザギザの不整形な傷で読者を苦しめる。
ふう。

そんな漫画でした、これ。

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(2013/02/21)
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不安を求める心

ようやく上巻読了。
ピアノや演劇が好きで、数学が得意だったアガサ。
プロポーズを沢山蹴って、婚約も破棄して一度目の結婚をしたところで終わる。

才女だったお姉ちゃんからホームズを教えてもらい、「黄色い部屋の秘密」について語り合う。
ポアロが生まれて、スタイルズ荘の原稿を出版社に送っても返送されてきていた時期。

女性上位、男女均等などという概念がまだなかった頃。
それでも、それは卑屈などではなく、高い誇りに裏打ちされて日々を疎まず生きていた女性が大勢いた時代。
そういう風俗や価値観をつぶさに見ていけるのが、とても面白かったりする。

この自伝を読んでいると、勝手に陰鬱になってばかりいる、自身に
元気とまではいかなくても、フラットくらいまで持ち上げろと
喝を入れたくなったりもする。

アガサが、今昔の女性像を比べているところをどうぞ。

わたしたちは恋愛を楽しみにして待っていたし、面倒をみてもらったり、はぐくみ慕われることを待ち望んでいた。またわたしたちにとって重大な事柄については自分の思うがままに行動し、同時に自分たちの夫の生涯、経歴、成功を自分たちの誇らしい義務として前へ押しだしたいと思っていた。わたしたちには元気づけの錠剤かまたは鎮静剤など必要なく、人生に信念と喜びを持っていた。
今の若い女の人たちにとっても人生は愉快なことなのかもしれないけれど、どうもそのようには見えない。しかし、今ちょうど思いついたことだが、彼女たちは陰気を楽しみ味わっているのかもしれない。いつも頭から押しひしごうとかかってくる、感情的な危機を楽しみ味わっているのかもしれない。彼女たちはまた心配事さえも味わい楽しんでいるのかもしれない。
わたしの同時代人たちはよく暮らしに困って、ほしいものの四分の一も手に入れることができずにいたものだった。なのに、どうしてわたしたちはあんなに多くの楽しみを持っていたのだろうか?今日ではなくなている、樹液が立ちのぼってくるような活気がわたしたちの身体の中にわき上がっていたのだろうか?
わたしたちはその活気を教育というもので窒息させてしまったか、切り捨ててしまい、そしてさらに悪いことには教育について心配している――心配事とは、いったいあなたにとって何なのか?

わたしたちは手に負えない始末の悪い花のようなものだ。雑草かもしれないが、ともあれわたしたちはみな旺盛に伸び育つ。舗道や敷石の割れ目や不都合な場所に猛烈な勢いで押し上がり、生命感にあふれ、生きていることを楽しみ、日光のもとへ突き出し、しまいに誰かが来て踏みつぶすまでつづく。しばらくは傷つき苦しんでいても、やがてはふたたび頭を持ち上げる。
今日では、ああ人生は(選抜性の)除草剤を適用されているように思われる――わたしたちには二度と頭を持ち上げるチャンスはない。世の中には”生きる資格のない”者がいるといわれる。
わたしたちのころは生きる資格なしという人は誰もいなかった。いったとしても、わたしたちは信じなかったろう。ただ人殺しだけが生きる資格がなかった。
今日では、殺人犯だけが生きる資格がないといってはいけない人間になっている。

『アガサ・クリスティー自伝』ハヤカワ文庫1995 乾信一郎訳 上巻238p

白衣

某箱男の会(どんどん格変するよ)で僕がよく着ているのは、普通のロング白衣だよん。
看護婦さんのは、冬でも半袖でワンピースかズボンと上着がわかれたセパレートのどちらかなり。
ちなみに歯医者さんがよく着る半袖上半身のみのはケーシーっていいます。

日常茶飯事に白衣なので、白衣は落ち着くのだー。
掃除にももってこいだよ。
ただ着なれないとぎこちない(袖のまくり具合とか、からだの収まり具合とか)ので
サスペンスドラマみたく病院忍び込んで、医者に化けて殺人
とかやると、やらないか、
まあ見る人が見ると後ろ姿で見破られるだろう
と勝手に思ってます。

おおやちき展

のらくろ館とも呼ばれる森下文化センターの「おおやちきの世界展」に行きました。

予想以上に原画展示数が多く、大満足。
もちろん、「回転木馬」や「雪割草」など初期の作品原画にもうっとりだったのですが
むしろ、パズル作家になられてからの原稿に腰を抜かしました。
いや、あの細かさ半端ないです。
勝手に縮小かけているんだろう、元はもっと大きいのだろうと思いこんでいたのですが、原寸!
普通の人間は、あの空間に文字を書くことすら厳しい。
そこに絵が入り、あの独特のぶるぶる書き文字が入り、さらには色まで入っていたら。
震えが走ります。

僕がりぼんを読み始めた頃、もうちきさんは漫画を描くのは終えられていました。
ちょうど高校生の頃、三冊の総集編が出たのをたまたま買ったのが出会いです。
モブや点描の細かさ、男性キャラの超細身ロン毛、そしてその髪が生き物のように靡く様に・・・実は妹とシリアスになればなるほど、笑ってしまっていました。
すごすぎやん、これって。
すみません。

後年、写真のイラスト集やRMCも入手しました。
内田善美にしてもそうですが、二十年前くらいだと、まだ100均棚にコミックが並んでいたんですよ。
新刊購入した総集編も、もうとっくに品切れですね。

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その後、古書ドリスさんに二回目訪問。
お正月に初めて伺って、うわーっと嬉しくなってしまったお店。
今日ものんびりじっくり吟味して、クラテール叢書の持っていない二冊購入。
自分の家の棚に似ているお店って素氏にはきついようなのですが、僕は通路の広さといい、品ぞろえといい安心してゆっくりできる素敵なお店だと思ってます。

帰りドトールに入ると、展覧会の芳名帳でおみかけした、有名ミステリ作家のT氏がいらっしゃるという奇遇。
びびって古本の話しにくかったなあ。

朝起きて
四時間経っても
家から出られない。

お弁当詰めた。
鞄に詰めた。
財布も詰めた。
貸す漫画も詰めた。
着替えた。
二分化粧した。

煙草沢山吸った。

電車も歩くのも実験も好きだ。
でも出られない。

水耕植物

彼は布団を前にしてたじろいでいる。
そこは暖かで安堵があると知っているというのに。
戦きながら、体を横たえる。

彼は天井に一つ灯る濃い肌色の電球を見つめる。
瞼を閉じても、星のように残る光を捉えて眠りの下り坂に乗る。

仰向きの体は寝がえりを打つこともあるだろう。
胎児のように自身を球体に近づけんとすることもあるだろう。
ただ時が満ちると、彼は再び仰向けへと戻る。

すると、彼の身体は布団をまっすぐと
その躯体のかたちそのままに沈みこんでゆく。
氷の上に置かれた硬貨は、円柱の空隙をひろげ沈下する。
まさしくそれと同じに、彼は深くZ軸をマイナスに穿って沈む。

その折、
彼から滲みだした汗や涙や名もなき水があたりに沁み出し
布団はスポンジのように膨らんでいるだろう。

朝が来る。
彼は目覚めるその一瞬前に、感じる。
自分が深く深く
布団の厚みを遥かに突き抜けるほど、深みにいることを。
そして同時に。

透明の幽体が、何のためらいもなく
彼から抜けだし立ち上がるのを感じる。
無意識のそれは、無配慮のそれは、
さっさと着替えを済まし、
朝食を済まし、
コートをひっかけ、
鞄を掴んで外に出て行こうとしている。

幽体の素早さに気押された彼は、
もう一度最初からと念じて、僅かに身体を身じろがせる。
けれども、まだ、地平線すら高い所にあってどうしようもない。

また一匹。
さらにまた一匹。
次々に幽体は殻を抜け出して、
ある者は道を悠然と進み、
ある者はもっと遠くに辿り着き、
なすべき何かを始めているではないか。

彼は何十体、その朝見送ったろう。
透明の勇ましい、同じ形の奴らを。

ようやく本物の彼の肉体の顫動も大きくなり。
どうか、どうか、僕をと叫んで上半身を布団の上に建てる。

その時、彼は聞き、彼は背中に感じるのだ。
わずか一晩で、張り巡らされた細い根が
ぷちぷちぷちぷちと音を立て
ぬるぼったい湿りを孕んだスポンジから
引きちぎれれるのを知る。
青ざめるほど白い根は、瞬時により萎縮して
排日性もあらわに、腐り融けてゆく。

彼はまた、
その日も水耕された、
無用に成長の早い、
一介の植物となっていたことを記憶にとどめる。

そして、
再び、
夜は彼の怯えのみを糧に、
根を張る準備を整えている。

欠片を貸す

本を貸したら返ってこないと思え。
裏返しにいえば、大事な本は決して貸すな。
ということで。

人に本を貸すというのは、
自分の人格の欠片を剥ぎ取って見せているようなものだ
なんて大げさなことを考えている僕は
本を貸してはいけないのだと、いつも思ってしまう。

昔、僕にBLを布教してくれた
初めての社会人になった時の先輩というかお友達とは
毎日昼休みお互いに貸し借りした広義の萌え漫画小説について語り明かし
さらに感想文の手紙まで交換していた。
もうそんなことはしたいとも思わないし
僕も読めないと本を返すといった酷い仕打ちを他人にしたこともあったし
と反省ひとしきりなのだが。

でも、漫画貸してーと云われると
嗚呼、また色々失望しちゃうんだろうなと思いながらも
見繕う愚かな自分がいる。
そしてその結果、反応が悪いとこれもあれもダメかーと
結局凹んでしまうのだが。

そもそも、各々のメディアに対して求めるものが僕は違うのであって
例えば、テレビドラマには結構笑いを求めていて
ドシリアスなお涙頂戴ものとか絶対いやで
小説には、心の奥の奥のひだをゆすぶる絶望を求めていて。

一方漫画は何を求めているのかというと
難しいのだけど、結局は詩性と美学なんですよ。
優れた漫画家は、「モノローグで詠う」というのが必ずあって
短いセンテンスに凝縮された真理があり
同時に、画力と優れた構図で作家の美学が全体を引き締める。
そういうものは、一般的にはエキセントリックだ、変態的だ、露悪だ、難解だと云われてしまうものかもしれないけれど。

ああ、だからね。
散々色々あーだ、こーだと好みを述べられた挙句、
結局「韓流ドラマみたいな恋愛もの」
などとまとめられちゃうと、わーームリーー!となるのは当然でしょ。
ないです、持ってないですそんな漫画!

仕方がないので
ちょっと惰性で買い続けてる感のあるこの本、読ませてあげるよ。
今時「『なんて素敵にジャパネスク』みたいな設定でよろしく」って。
むしろ、教えて下さい、そんなノリの漫画がどこにあるのか。

明治緋色綺譚(6) (BE LOVE KC)明治緋色綺譚(6) (BE LOVE KC)
(2013/01/11)
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ちなみに僕の好きな漫画家ベスト25(順不同)ってこんな感じ。
内田善美、吉野朔実、西岡兄妹、岡田史子、倉多江美、明治カナ子、草間さかえ、浅野いにお、中村明日美子、清原なつの、能條純一、鳩山郁子、丸尾末広、入江亜季、赤美潤一郎、川原泉、田村マリオ、佐藤真由、篠崎まこと、雁須磨子、山本直樹、三浦靖冬、山田幸子、大島弓子、でもって町田ひらく。

いちまんにまん

あるサイトにいくと
そこでは僕は生年月日を登録しているので
「今日で生まれてから16XXX日目です」という表示が出る。

そうか、一万六千日かあ。
でも、何年とか言われるより、変に少なく感じるのはどうしてなんだろう。

一万日目を迎えるのが27歳の年で、二万日目を迎えるのが54歳の年。
一万までって、すごく時間がかかってる気がするけど、
超えてしまうと、それだけなんだと感じる、不思議。
やはり密度の濃さなんだろうなあ。

一日一日のあっけなさ。
何もしていないなと感じる時間の蓄積。
トータルで二万前後の日々。
こわいなあ。
無為って。

without myself

冗談で、誰かのことを揶揄して、ありえざる単語としてworstestって呼んだけど
どうやら、真逆のbestestっていう語彙が存在するようだ。
っていうことを、クリスティ自伝のルビで知る。
ならば、ワーステストもネイティブさんは使うのかもなあって思う。

ネットを巡る発言には色々あって
ついでに、安直な共感とも呼べるのか呼べないのか
「いいね!」とか「拍手」とか「リツイート」とかもあって。
ただ色んなものの中で、僕が一様に思うことは
「ああ、世の人は自己を語らない事こそかっこいい」ってことになってるんだなということ。
ジャンルはなんでもいい。
感想でも、面白いとか悲しいは許される。
でも、自己の内面の奥の芯を絡めたら、もうそれは不細工とみなされる。
ようだ。
意見を述べてもいいけど、自分の芯とは必ず距離を置く。

どう云ったらいいのかなあ。
それが自然に出来る人が現代人なのかな。
例えば、愚痴や、自分のネガティブ思考は決して出しちゃだめだと、みんな無意識に抑圧してるような。
もちろん、それが自然に出来てる人も沢山いる。
でも、同じことができない人はどうしたらいいのか。
できないけど、吐露せずにはいられない人はどうしたらいいのか。

恐らく、昔の人は、日記という紙に綴ったものなのだ。
決して誰にも見せないという密約のもとに。
けれど、どこかにいても決して現実の自分を知らない誰かにだけ、己の狂気を知っていてほしいと願う、まったく矛盾した、全くの得手勝手な人間は、どうしていたのだろう、かつて。

考えられるのは
多くの筆名をもち、
なんらかの印刷物に刷ってばらまく
(今では秘密のブログの開設とか)
それでなんとか手の隙間からこぼれそうな吐瀉物を落とすこと。

でも。
果してこれで、その人の苦しみは緩和するのだろうか。

人格は過度に細分化されてゆく。
狂気は進む。
本当の狂気の淵を超えれば楽になるけれど、こうした利己的な苦悩者は、いつまでも現実を手放せない。
何を求めているのかすら分からないのに、強請りつづけ、突っぱね続ける。

本当に喋りたいことがあると信じつづけてながら、
喋れば拒まれると先回りして、自分で檻の中に入り、さらに子持ちの檻を作って閉じこもり、さらに小さな檻へと進む。
もう最初の鍵の在処は消え、実際には予測の上に立つ「本当に喋りたいこと」もシャボン玉みたいに弾けて消える。

この重み。
胃の上に押しかかる愚昧な重み。
嘔吐もできぬ脆弱な横隔膜。

僕を救うのは僕の使命だろうが、
匙を投げたい。

幸福な子供時代

クリスティ読んだのって、もしかしたら中学が最後かも。
って云ったら叱られそうだな。
でも、中学の図書室に毎日通い続けて一日一冊読む!を使命としていた僕の海外ものの主軸は、クリスティとESガードナーでした。
あった本は全部読んだはず。
でも、一番好きだったのは、「ジェーン・エア」だけどね。
なぜかチェスタトンとかなかったのが残念だけど、あれは大人になって読むほうがしみじみ出来る気がするよ。

このずっしりと重い文庫上下巻は、神戸のロードス書房で購入しました。
これは図書室になかったもん。

「幸福な子供時代」
そう衒いなく話せるのって、本当に素晴らしい。
人の思い出の形成は、影と光のいずれかに偏在していて、僕にもそういう時間があったはずなのだけど、いまとなっては影の部分ばかりになっていて、だから、異国であれ、遠い時間の先であれ、眩しいキラキラしたものを読ませてもらえると、心底素敵だなあと思う。

往々、自伝というのは子供時代の記述が最も優れていて、例えばジッドの「一粒の麦」も谷崎のそれも、その部分には脱帽以外の何物でもなくなってしまう。

なので。
通勤電車に揺られて、いまだ使用人が誇りをもって職を全うしていた時代、彼等を雇う人たちも彼らの矜持と侵さざるべきところを十分に弁えていた時代の空気を僕は存分に吸って幸福になる。
両親の比類ない愛情と教育に溢れている時間に憧れつづける。
そして、クリスティ自身の「自分の王国」をもって日々想像の国を広げ続ける愛らしい力に驚かされる。

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やはり、新装版より、この懐かしい真鍋博の装丁の方が断然好き。
あ、1995年初版だから、中学時代になかったのは当たり前だ!


アガサ・クリスティー自伝〈上〉 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)アガサ・クリスティー自伝〈上〉 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)
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kobe

お父さんの25回忌で帰神してきました。
高校の合唱部の仲間7人とも会ったりしました。
もう卒業して25年だわ。
「そのままやん」って云われたけど、自身はそうでもないように思える。
灰汁が強くなったし、我儘になったし、凹みやすくもなったよ。
でも、三つ子の魂百まで的な部分はそれぞれにあるとも感じました。

関係ないけど
思春期に身近な人の死に触れておくことは、大事だよ。
別に早逝のススメとかじゃなく。
骨を拾うと、物の見え方や考え方がいろんな意味で変わるから。
勿論、これは偶然のことで選択できない運命なんだけど。
そしてその体験がいい方向に行くか否かも、
百人百様だけど、ただ確実に変わる。
僕は今も長短半々の気分をかみしめ続けている。

で、残り二日間、素氏とマイナースポットを回ったよ。

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王子動物園横にある戦前は関学のチャペルだった神戸文学館

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須磨寺でお墓参り。
マニ車回転初体験してウキウキのおぢさん。
何度となく訪れましたが、初めて敦盛と熊谷直実の一騎打ち写真に収めた。
子供のころから、なんか笑っちゃう。

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須磨寺のさらに北側、離宮公園の横にある神戸迎賓館須磨離宮(旧武藤類蔵邸)。
この規模、北野の異人館けとばしちゃう大きさです。
現在はレストラン兼結婚式場になってますが、綺麗に保存されています。
びびりつつ門をくぐったら、披露宴前にもかかわらず室内も案内してもらえた。
贅を尽くした造作の数々に感激で震える。
次回はランチ食べますよー。

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お父さんに連れてきてもらった極少ない思い出の離宮公園。
冬の寒々しさが満ちていて、よさが伝えられず残念。
この写真を撮った場所にあるレストハウスは工事中。。。
冬の神戸は工事だらけです。
摩耶ケーブルも、孫文記念館もな。

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舞子ホテルリベンジ。
こちらも大正期に建てられたものです。
今回は平日狙ってランチを優雅にいただきました。
洋館好きの方は是非、おねだりして別館の方へも案内してもらうといいですよ。
一階の居間の照明は、二階の足音に反応して音が鳴るのだそう。

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元町の南、栄町の建築、壁のねじねじに注目。
最後まで古本屋巡り。
折りたたみカート一袋から溢れるほど買っちゃったよ。
楽しい四日間でした。

かわいこちゃん

でも結局
僕は小難しい言い回しでケムに巻くような自分みたいな人より
段差もないのに、知らぬ間に道に転がってる
みたいなかわいこちゃんが、好きだよ。
転がったことも二秒後には
忘れて、違うことで大わらわになってるような
そんなかわいこちゃんが、好きだよ。

そういう人になりたいのかと問われれば
希望以前に、絶対なれないので
ほんの少しだけ憧れるだけにしておく。

かわいこちゃんは、無意識っていうのが
なによりの金星ですから。
で、かわいこちゃんは、
時折しゃきっとさんに憧れるのかもしれないけど
でも、二秒も続かない
ということが、これまた特権なのです。

星は必ず、遠いところで瞬いている。

照射

たとえば、人格というものはこんなものではないかと想像してみる。

形はなんでもいいが、円筒形あるいは円盤を螺旋状にねじったものが
中空からぶらさがっていると仮定する。
穴があいていて色とりどりのセロファンが張られている。
そこへ光が当てられる。
光はいずれの方向から来るかといえば、勿論さまざまであって、
我々は光源を他者と呼んでもいいし、状況と呼んでもいい。
光は必ずしも一個所から発せられるわけではなく、多くは同時に多方向からやってきて
あるいは、円筒内部から、または螺旋の中心から発せられることもある。

そして、いずこからか発せられた光の一部はそのセロファンを通過し、色を得る。
光源が複数ある場合には、色は混じり合い、
あるいは円筒や円盤のセロファン以外の部分に当ったものは影をおとし、像を結ぶこともある。

そして、そこに出来あがったものを、人格の持主も見るわけであり、
光源たる他者も見るわけだ。
当然ながら、複雑に交差した色や像は視点の違いによって、異なる様を産み出す。
ただ、人格の持主には、その結果はある程度予測されたものであり、
あるいは彼に慣れ親しんだ者にとっても、予測された範囲に収まることも多い。

勿論、状況という異なる光、他者の組み合わせによって予想外の結果も生じるであろうが
概ね、彼はその結果を知っていて、
知っているからこそ、彼は時に自ら円筒を廻し、螺旋の褶曲角度を変えて
光に当る部分を減らそうとしたり増やそうとしたりもする。

さて、予測されうる結果というのは、
それが個人にとって佳きものであっても悪しきものであっても、
概ね、身構えることができるという意味で、安堵を生む。
円筒の方向転換をすべきことであっても、余裕をもって行うことが可能だからだ。
そして、結ばれた色や像をすでに、ある値の範囲で提示できるということは
彼だけでなく、他者にとっても安堵を生む。
それを、私達は、「顔」と呼んでいるかもしれない。
あの人に見せる顔、あそこで見せる顔といった具合に。

重ねていう。
この安堵は、照射される光の範囲に応じて対処が可能だから生じる。
では、この範囲が全く異なるところから発せられることになった場合はどうだろうか。
いや、言い方を変えよう。

円筒や円盤は決して無為にぶら下がっていることはないものであって
たとえその光が自ら発せられたものしかない場合であっても、
確実に恣意的に歪まされているものであるのだと考える。
つまり、人格はその個人にとっても、ある限られた顔しかみていないものであると。
そして、彼は、すべての人間はいくつもの顔を持っているのが当然であるとするとき、
光が、全く通常は同時に発せられない状況が産み出されると
無意識であれ、意識的であれ、
その歪みを「同時に」多方向へ向けることは不可能であると結論付ける。
あるいは、結論付ける前に、狂いが生じる。

狂いは制御不能のものであり、
像は瞬く間に崩れ不定型をなし、色は混濁し、乱反射を繰り返す。
たしかに。
その結果は、必ずしも悪でもなく、人格の持主を苦しめることではないかもしれない。
けれど、苦しめうることも、
あるいは、円筒を切り裂き、セロファンを引き破る結果も生むことも
確かにこの世には存在するのだ。

僕はそういうことが云いたいのだよ。

まだ読んでいないけど。
ヒラノケイイチロウ氏の分人という考えも、
こういうことが入っているんじゃないかと予測する。
ただ、僕が云っていることは、説得のためのマイナスイメージだけであって
恐らく、多くの像が混じり合うこと、色の変化を良しとすることだって多分にあるのだろう。
そうでなければ、人と人が新しく出会う意味は
特に新しい集団と集団が出会う意味は無に帰してしまうのだろうから。

ただ、個人的にはすでに予測の段階で、三次元に曲げても四次元に捩じっても
醜い結果しか生まないと思われる橋は渡れないというのが
臆病者の僕の考えである。

あらら

もう金曜日!
凹んでる間に暦が宙を舞う。

う~…。
色々無理だわ。語れないけど。
身から出た錆というか、いや、珍しく気を遣ったらベクトルが自分の好まぬ方へ勝手に曲がってゆく。

本の神様、僕に隧道貸してください。
地底に潜らせてください。
もぐらやミミズ苦手だけど、人間よりいいです。

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プロフィール

絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
Twitter account:@quinutax

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