2013-01

まあいっか

若いけど聡明そうなお母さんと、ちっちゃな男の子が交差点にいて。

「あ、お母さん電話忘れちゃったよ」
「まあ、いっか」
「充電してて、すっかり忘れちゃったよ」
「まあ、いっか」
「そうだね、まあ、いっか」

うん、いいんだよ。
携帯なんて、この世から消えちゃっても、全然。

「まあ、いっか」のほうが、何千倍も大事。
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雑居ビル

ほんとは劇的に面白かった「新ナポレオン奇譚」の感想が書きたいのだが、なにしろ忙しすぎてヘロヘロで頭が回らない。
とりあえず一言二言、チェスタントン万歳!これアニメにしてよジブリ!

自分が徹底的に上から目線人間なので凹む毎日ですが、
いつも疑問なのは、何にも考えてない有象無象に囲まれていると思う瞬間と
なんて自分は阿呆なのだと思う瞬間の
ナイアガラ瀑布的落差はどこから来るのかということ。
同じくらいウネウネ思考は連日連夜してはいるけど、同じくらい実は結論導けてない、ロクな喋りもできない人は、何処にいるのかということで。
うーん、何処にいるんでしょう。
同じ背の高さのドングリちゃんと逢いたい。

今日、赤坂と四谷の間の超高級なオフィスにバイトで行ったんです。
ロビーは自動改札機みたいになってセキュリティーガチガチで入り方も不明で
いざオフィスについたらかしこまった美人受付嬢、
でも実際に遭った人はチャライお兄さんと中国の人でした。
お菓子がみんな輸入物でまずくてびっくりで。
こんな近未来高級感バリバリなのに、待遇が悪くてびっくりで、
ホワイトボードに書かれた内容がスキャンされて印刷されてびっくり。

疲れるね、こういう気どったアンバランスが。
僕は雑居ビルのボロボロオフィスがいいです。
昔レコード屋巡りしてる時、がくがくの雑居ビルだと妙な安心感があった。
一方、マンションの一室系のレコード屋の緊張感といったら。
ロビーでコールして開けてもらって入って、いざさくさくしたら、そこはハウス系専門だった!買うものないのに、でもわざわざ開けてもらって、さてどうやって逃げる?みたいなの、一番困る。
古本屋も、オールパラ包みで、背も見えないし触るのも怖い店、やめてほしい。
箱から抜けないし、抜けても戻そうとしたらパラ破れそうなの、ガクブルです。

ああ、雑居ビルは当然
便座も暖かくなくていいです。

この間、便座ヒーターのコンセント全部抜いておいたら、
お掃除の人の仕業(一応節電で使用不可の張り紙あり)にされてて、申し訳なかった。
根っこから、贅沢というか自分にとっての過剰さが嫌いなの。
何万円もする手袋持ってて、ほつれても自分で直せないで大騒ぎする価値観とか、手に負えないの。
賞味期限とかカロリーに躍起になるの、ノイズでしかないの。
なんていうか。
自分もカテゴリ女子ですが、
もう女子のつまらない神経過敏についていけない。

次に読んでるチェスタトン著作集の第九巻「正気と狂気の間で」で、ずっと「資本主義」という言葉の定義を探ってるんだけど。
そもそも、同じ言葉を使っても同じ意味にならないのが辛いっていうのが、最初に納得したの。
同じ俎上に乗らなきゃ、論議不能。

それと同じことが、毎日繰り返される。
「綺麗」ってそれぞれが云う。
でも、僕の「綺麗」は絶対に、違う意味なんだなあって、毎日思う。
違う言語背景を持った人たちと、圧倒的な時間ともにすごさなければならないのって
それが社会のルールってもので、
違うよ違うよって泣く人が、すわ「変人」「無愛想」になってゆくのだと思う。

日本語も日本の色んな物も好きだけど
でも、もうほんとに今の日本って狂人には、しんどすぎる。
やっぱり本の中にしかドングリちゃんはいないのだと、
せめて本の中にはドングリちゃんがいて、心を開かせてくれるのだと思えば
少し安らかに眠れる気がする。

あんちくらいすと

サイラス・マアナー〈上巻〉 (1952年) (岩波文庫)サイラス・マアナー〈上巻〉 (1952年) (岩波文庫)
(1952)
G.エリオット

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今年はちょっとでも読書量を増やそう。
でも一月はもう終わりに近付いている。
自分にとって、あくまでも己にとって美しい、浜辺に打ち捨てられたような物語に出会いたい。
人はあっけないほど残り少ない時間の中にいつもいるのだから。
少しでもその危機感を自らに課しておかねばならない。

ジョージ・エリオットは男名のペンネームを作った女性。
ディケンズはその繊細さから、女性にちがいないと見抜いたという。
彼女は、清教徒的家庭で育ちながらも次第に反宗教的な感覚をふくらませ、翻訳や随筆を産み出してロンドンに出てきて、そこで出会った妻帯者の男性と恋におちた。
後に終生の伴侶となった彼ジョージの名を、彼女は筆名に使った。

『サイラス・マアナー』は孤独な一職工の闇と光の物語だ。
つづめてしまえば、出来すぎた偶然の重なりを大きな円で包む勧善懲悪譚。
サイラスは、生まれた町で熱心なキリスト教徒であった。
無二の親友があり、婚約者もいた。
癲癇の発作を幾度となく繰り返すので、意識が回復すると周囲の人々は彼に何らかの奇蹟が起きたのではないかと尋ねる。
しかし、彼には「何かが自分に起きた」と感応するほどの思いこみの強さも、あるいは、「何かが自分に起きた」とありもしないことを触れまわるほどの狡猾さもなかった。
彼はあくまで彼自身のみであって、想像によってすらその枠の外にでる人間ではなかった。

サイラスが瀕死の教会の長老を一人で看ていた夜ふけ、事件は起きる。
癲癇の発作が起きたのか、睡魔に襲われたのか、親友が交替にきてくれるはずの時刻がとうに過ぎている。
さらに長老の寝息を確かめると、こと切れていた。
慌てて人を呼びにいき、夜明けを迎えると、彼は殺人犯と窃盗犯になっていた。
長老は失くしたサイラスのナイフで刺され、挙句金が消え、さらにはサイラスの家に証拠となる財布が隠されていたことが発見されたのだ。
勿論、彼は無実を訴えた。
そして失くしたナイフは、かの友人の革紐を切ってやった時以来消えていたことも思いだした。
サイラスは裁判にはかけられなかった。
代わりに、教会は神籤によって真偽を確かめようとした。
結果、彼は有罪とされ、教会からの永久追放を言い渡された。
サイラスの婚約者は、無二の友人のもとへと嫁した。
彼は、すべての絶望の原因を知り、神から見放されたと知って、町を去り、小さな、まるで今まで暮らした町とはまるでしきたりの違う村で職工として暮らすことになった。

これが、サイラスの辿る第一の宗教との別れである。
自主的に神に背くのではなく、神に捨てられた子。
ゆえなく(この時点では)捨てられ、神を忘れざるを得ない、受動的な反宗教の一例が示されている。

そこから十五年あまり、彼は仕事の代価として得られる金貨を集めることにのみ喜びを見出す。
贅沢を欲するのではなく、ただ輝く美しい金貨が床下に溜まって行くのを、夜ごと取り出して枚数を数え、煌めきに触れることだけが、充足であった。
彼の眼は人とのつながりを断つという行為を反映するごとく、実際的に次第に小さくなり、視界は狭まっていった。
なぜつながりを断ったのか。
勿論、他者全般への不信もあったが、村の人々からの扱いも彼にそのような姿勢を作らせたのだ。

その村は、十九世紀前半においても、いまだ中世のごとき匂いが色濃く残っていた。
人々は日々の豊かな穣には恵まれていても、日々の農作業にのみ一生縛られていた。
農作業に従事しないもの、あるいは外部からやって来たものは、すべて異物であり、かといって異物の由来を考えることは、渡り鳥がどこからきたのかと考えない彼らにとっては、無用の疑問であった。
そして何かしらの知恵(薬草程度のことさえも)を持ったもの、何かしら器用にこなすもの(機織りさえも)も、異物であり、異物は「魔女」「魔法使い」と呼ばれてもおかしくない存在であった。
だから、サイラスが村にきて間もなく、母親から教えられたジギタリスを煎じて老婆の病を治したことで、そして彼が織物を次々と生み出すことで、恐ろしい「魔法使い」、そうでなければ「変人」として扱われても、この村では普通のことであった。
そして、この村ではキリスト教の根はまだ浅くしか根づいておらず、文盲の村人にとっては、教えは口伝えによってすら、いまだ深く理解されることはなかった。

つまり、この村の存在、サイラスが逼塞した地全体が、第二の反宗教的のあらわれだったといえる。

村には地主の一家があった。
父親は健在であったが、母親はすでに亡くなっていた。
息子が二人あり、兄は一見信頼に足る後継者にみえて実際は優柔不断で、放蕩者の弟に弱みを握られていた。
一家は、放任主義の父と二人の息子によって破産が近づいていた。
兄には、村一番の美しい恋人がいたが、弟の陥穽によって、近くの街の娼婦と秘密の結婚をしてしまっており、さらに子供までできていて、それを弱みと弟から幾度も金をせびられる事態となっていた。
そして兄は最も大事にしていた愛馬すら弟に奪われる羽目に陥った。
愚かな弟は、馬を売りにいく最中に不注意にも馬を骨折死させてしまう。
そして借金を返す手立てを失った彼は、豪雨の中、以前から金をしこたま溜めこんでいると噂になっていた、サイラスの家へ押し入るのである。
その夜、偶々サイラスは帰宅が遅れ不在であった。
弟は床下から隠された金貨をまんまと盗み出し、遁走した。

こうして、サイラスは、唯一の喜びを奪われた。
神は再び彼を捨てたのである。
だが、彼はここにおいて、自分の金が盗まれたと訴え出ることによって、初めて人々と交流をもつことができるようになった。
そして、彼が「魔法使い」ではなく、一人の「憐れむべき悲しき仲間」であるという小さな扉が開かれた。
人々は彼に助けの手を少しずつ伸ばし始めた。
けれども、彼の眼は絶望に深く引きずられ、ますます小さくなった。

光が齎されたのは、ひどい吹雪の夜だった。
地主の家では豪勢な夜会が開かれ、兄は弟が消えてからも秘密の結婚を解消できない不甲斐ない兄のままであったが、恋人になんとか近づこうともがいていた。
そして街から一人の娼婦が全ての秘密を暴露するために、子供を抱えて雪道を進んでいた。
もう村はすぐそこであった。
けれども彼女の疲弊は限界であり、一本だけと点けた阿片の酔いに惑わされて、雪を暖かなベッドと思いこんだ。
眠りこんだ彼女の腕の中から、幼女がとことこと歩きだす。
扉は開かれていた。
扉のそばに、久しぶりに癲癇の発作を起こして意識を飛ばしたまま立ちつくすサイラスの姿があった。
幼女は、彼の横をすり抜け、暖かな、偽の臥所ではない、本当に暖かな炉の前で眠りに就いた。
意識を取り戻したサイラスは、そこで金色を見た。
自分が集めていた金貨が戻って来たのだと、疑わなかった。
しかし、触れてみるとそれは硬くはなかった。
やわらかな、やわらかな金の巻き毛だった。

こうして彼は、奪われた金貨の代わりに、小さな女の子を与えられたのである。
神は、非常に遠回りな方法で、ようやく巨大な円の切端の一つを繋げ始めた。

物語は、まだ長い時間をかけて、すべての謎解きや、サイラスのみならず登場人物の多くに喜びや悲しみにみちた結末を用意しているのだが、粗筋を追うのはここまでにしょう。
かなり書きすぎてしまったので、特に第二部は、読む方の楽しみにしておきたい。

こうやって書き出すと、本書はまるでメロドラマの原形のような形態だと分かってもらえると思う。
ドラマチックで取り返しのつかない愛憎劇はいつの時代も人気で、少女漫画も僕の子供時代に流行った「赤い○○」も韓流もみんな同じだ。
でも、そうした劇場型の内側の筆致は、ひどく内省的で、時に説教的で、そこがジョージ・エリオットの特質でもあり欠点でもあるように思える。
いや、全体の構成の理に落ちる男性的なダイナミックさの裏側に、人の心根の複雑さを読みとる非常に鋭敏で、一種穿ち過ぎにも思える女性的な部分が見え隠れする。

僕はこの美しい物語の中で、ずっと作者の抱えている「神の非在」という疑問を感じていた。
受動的に産み出された反宗教的な状況のなかで、間接的に問いかけ、問いかけする声を聞く。
そして、典型的な一農婦でありよき母であるサイラスの隣人ドリーに担わされた答の一端に涙を浮かべる。
無口で話のうまく喋れないサイラスから何度も、彼の若き日の神から捨てられた事件のあらましをドリーは重ねて尋ね、ようやくと彼女は彼女なりの答を導くのである。

「ええ、それでねマアナーさん、わたしはこういう風におもうんですがね。わたしは神籤を引くことや、答えがただしくなかった、というようなことは、少しもわかりません。牧師さんにでも話してもらうより他にしょうがありますまい。(略)
わたしにはっきりわかって来たというのはね、あの可哀そうなベシー・フォークスのことで心配していたときのことですよ。人のことを、ああ気の毒だと思ったり、真夜中におきてやったりしたところで、とうていその人のことを助けてやることは出来ないような気がするとき、いつでもわたしの心に浮かんでくる考えなんですよ。
―神様はわたしより、ずっとずっとやさしい心を持っておいでになる、ということが思われてくるんです―
だって、わたしは、わたしをつくって下さった神様より、どうしても善くなれる筈がないんですからね。そしてどうしてもわたしには難しいように思われることがあるのも、わたしたちにわからないことが世の中に沢山あるからなんですね。(略)
若しわたしが心の中で、あの悪い男は別として、あんたや、お祈りをしたり神籤をひいた人たちが、正しく、道にもはずれていないと思ったり、またその連中も出来ることなら、あんたに正しいことをしたかったのだ、と考えると、わたしたちをおつくりになり、わたしたちよりずっと物を知っておいでになり、ずっと立派なお心をもたれていられる神様というものは、矢張りいらっしゃるのではないでしょうかね。これだけは、わたしは確に信ずることが出来るのです。(略)
わたしたちのしなければならないことは、信ずるということだけですよ、マアナーさん―わたしたちの知っている限りの正しいことをして、そして信ずる、ということです(略)」



導かれた答に、何を今更と鼻白むむきもあるだろう。
けれども、愚者の、私は無知ではあるが、そこに一つの真実をみるということこそ、それこそ闇の中の一撃の光であると感じるのだ。

ドリーはサイラスへの質問の際、何度も、同じ「聖書」を使っていたのでしょうかと尋ねた。
これも宗教から身を一歩引いた作者の迷いの現れである気がしてならない。
ドリーのたどたどしい言葉の端々には、同じ神の言葉、同じ教えがあったのにも拘わらず、どうして貴方の身にそんな悲劇が起ったのか、無学な私にも(どんなものに対しても)分かるような答があるのでしょうか、という問いかけが確かに潜んでいたのだ。

最後にもう一つ。
成長した愛娘エピーを連れて、サイラスは捨てた町を訪れるエピソードがある。
彼が暮らした町は十九世紀半ば、どうなっていただろうか。
彼に有罪を言い渡したあの教会は、どうなっていただろうか。
親しんでいた人々は、どうなっていただろうか。
あの日の自分はやはり無罪であったと、彼は誰かに告げられたのだろうか。

円は閉じられる。
すべて美しすぎるほどに。
けれども、作者は一点、完全な円は描かず、小さな風穴を残した。

そこが、作者が残したすべて理解することができない、神の業である。










2012映画鑑賞めも

昨年十一月からモーレツに忙しくなって、
きっとレトロ映画館では後から地団駄踏むようなプログラムやってるんだろ
とは思いながらもチェックしても地団駄だけで終わるので、
しばらく映画諦めてる今日この頃。

で、2012のまとめメモを作っとく。
気持のわりに全然観られてませんが、アタリ率高し。

「肉体の門」マキノ正博監督 1948
「彼奴を逃がすな」鈴木英夫監督 1956
「脱獄囚」鈴木英夫監督 1957
「盲獣」増村保造監督 1969
「UNGO」オールナイトTV版全話 水島精二監督 2011
「鍵」市川崑監督 1959
「黒い十人の女」市川崑監督 1961
「マンク破戒僧」ドミニク・モル監督 2011
「太陽」アレクサンドル・ソクーロフ監督 2005
「白昼の通り魔」大島渚監督 1966
「彼女だけが知っている」高橋治監督 1960
「憲兵と幽霊」中川信夫監督 1958
「亡霊怪猫屋敷」中川信夫監督 1958
「空飛ぶツィプリアンの伝説」マリアナ・チェンゲル=ソルチャンスカ監督 2010
「女吸血鬼」中川信夫監督 1959
「怪談累ヶ淵」中川信夫監督 1957
「東海道四谷怪談」中川信夫監督 1959
「怪異談 生きてゐる小平次」中川信夫監督 1982
「ルードヴィヒ2世のためのレクイエム」ハンス・ユルゲン・ジーバーベルク監督 1972
「カール・マイ」ハンス・ユルゲン・ジーバーベルク監督 1974
「緋色の爪」ロイ・ウィリアム・ニール監督 1944
「港々に女あり」ハワード・ホークス監督 1928
「アジア秘密警察」松尾昭典監督 1966
「スカーレット・ストリート」フリッツ・ラング監督 1945
「恐怖のまわり道」エドガー・G・ウルマー監督 1945
「グレイトフラマリオン」アンソニー・マン監督 1945
「恋の片道切符」篠田正浩監督 1960
「はなれ瞽女おりん」篠田正浩監督 1977

封切新作で観たのは「マンク」だけ。
でも美術が凝ってて中世の生臭さが届きそうな雰囲気が素敵だった。
あとは名画座かアテネフランセかフィルムセンターなので。

2012ベストワンは「はなれ瞽女おりん」です。
小山明子特集で「白昼の通り魔」観た時に、あれこれが自分の一番好きな邦画の系譜だ!と思ったのですが、「はなれ瞽女おりん」の時はもっとそれが実感できました。

観賞後の監督と岩下志麻さんのトークも素晴らしく、忘れられない一日。
全国の消えゆく日本の風景を追いかけて、何本もフィルム廻して喜んでいた名カメラマン宮川一夫さんのこととか。
盲目のおりんにとって男のことは視覚としては存在しないのだからと、相手役の原田芳雄さんが現場で顔を合わせないように気遣ってくれたエピソードとか。
むきだしのおりんちゃんの愛しい生き方と、確かにあった泥臭い土着の様々と侵入してくる戦争の愚かさの混在が、ものすごい迫力で息も出来なかった。

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(2005/05/27)
岩下志麻、樹木希林 他

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あと、サスペンス王って勝手に思ってしまった鈴木英夫監督作品との出会いも楽しかったし、天知茂様のぞくぞくするほどの美しさも忘れられないし、念願の「盲獣」やばすぎたし・笑。
いや褒めてます。究極でした緑魔子&船越英二、そしてあの美術。
海外は、やはりホームズもの「緋色の爪」の最後まで謎解き引張る完全ミステリ映画とか、フィルム・ノワールの悪女達とか…。楽しかったなあ。

今年も時間見つけて、昔の素敵で悪の美学に充ち満ちたものたちに会いにいきたいです。




あくせす解析

初めてPCに触ったのは、DOSV機の初期で、1989年頃か。
どこでどう思ったのかプログラミングってもしかしたら性に合いそうとか思ったのか。
最初の大学があんまりにもつまんなくて、誰が教師になんかなるか!とか思って、じゃあSEとか目指そうかとか思ったのか。
全然覚えてないけど、バイト代ごっそりつぎ込んで夜間PC教室に毎日通って、面白いなあアルゴリズムとか感じて。
気づいたら情報処理二種とることになってて、basicやcobolでちゃきちゃき踊り始めてて。
ついでにバイトで実践やらしてもらってて。

でも、その頃はまだ、ネットとかその先のネットを介した人間関係なんてのは世の中にはほとんど見えてなくて。
そもそも人づきあいが出来ないので、チマチマ自分の脳内遊戯をキーボードで打ち込んで、それを真黒な画面に白字が埋めつくすだけで、演算し、いろんな結果を産み出すという、まさしく僕には「新しい一人遊びのおもちゃ」であったのですよ、プログラミングもPC自体も。
「つながる」のは目の前の器械だけで十分であったのです。

それから数年がたち。
僕は面接が受けたくないという理由だけで、社会人にならず、別の面接を受けて二度目の大学に行って、最後に仕方なく妖しい大学教授の面接を受けて初社会人になったのですが。
その時になって初めて、自宅にPCがやってきました。
ちょうどWin95が出て、ぴーぎゃーと鳴りながらもネットがダイアルアップで繋がり始めた時代です。
PCもまだまだ暴れ馬の時代。
呪いのSCSI接続に泣かされ、周辺機器のインストールはホットならぬまさに冷たいコールドプラグ。
さてC言語においてけぼりにされた僕は、もうプログラムはおもちゃの世界のものではないと知っていました。
そこでやろうとしたのが、HTMLの独学で、ならばHP開設ということだったのです。

まだスタイルシートもPerlもない頃。
憧れのサイトさんに挨拶にいき、リンクを張らしてもらうだけでドキドキでした。
メールも嬉しくて、長文を書き連ねていました。
同人誌の世界に出会ったのもその頃で、HPの内容もオタク方面に広がって行きました。
いろんなサイトも作って、掲示板も作って、ブログという簡易に文字さえ打てば体裁の整ったテンプレも揃って、世界中が網の中に包まれて行くようになりました。

でも、次第に、僕の当初の遊戯の中に侵入して、そしてどうしようもなくなるものが出てきました。
それは今ではPCに課せられてしまった非常に大きな部分、人とのつながりでした。
掲示板を閉鎖し、コメント欄を閉じ、拍手を封じ、ついにはアクセス解析もはずしました。
これらすべて直接間接的につなげてしまうものだからです。

メールはどうしようもないので、受け取れば返しますが。
その他のものは、返しようもなく。
Twitterで話しかけてもらっても、ちゃんとお返事できることが少ないです。
ごめんなさい。

いや、別に年明けて全然暗いわけじゃなく。
とても毎日すがすがしく生きておりますが。
はりきって、本日も黒死館辞典の「あ行」修正終わらせましたが。

えっと、借りているサーバーには使っていない機能が山盛りで。
全く見たことがなかったのですが、アクセス解析ついていたんですねー。
おもむろに開いて驚きました。
このサーバーは黒死館古代時計室に使っているのは勿論ですが、いまだ2008年に閉鎖した別の二次創作小説が置かれているのです。
で、時計室よりも、五年前に閉鎖したそっちの方のアクセスが十倍多い!

あほか。
とか、自分に向かって云ってみたりする。
虚しいのかな、せっかく黒死館で頑張ってるのに、カ◎◎ル時代に負けてるようで。
いや、虚しいというより、誰だ、まだ読んでるの!
っていう純粋な驚きの方が大きい。
URLの一部は同じだけど、二者の行き来はできないようになってるので、
向こうからこっち、こっちから向こうはあまりにもジャンルが違いすぎて通行しないだろう。
(あ、このブログを介すると、一歩通行だけはなんとか行ける)

あ、でももっとアホなのは、いまだにその残滓を残している自分かもしれないです。
あんなに読み返すの嫌いだったのにね。
変なんだなあ、なんとなく未練があって、まだあのジャンルが確固として残っていて、そして何かの検索でひっかかって、辿り着く人がいるっていう。
人づきあいは苦手なのに、そういう障子の孔から覗いてるみたいなのは、気になってる証拠だぜ。
とでも云いたいのかなあ。
良く分からんです、自分でも。

きっと踏ん切りがついたら、
段ボール三箱分、残ったあの頃の自分の同人誌、ばさっと捨てられるのかもしれませんねえ。

帽子を忘れる話

某センセイが文章を書くのが面倒で
解説文をツラツラと項目箇条書きにしたり、図に纏めてしまうという話が
時々我が家で出てくるのだが。
僕は、ぱきっとした論理的な話がとても好きで
ではその昔その対極にあるようなモヤモヤっとした幻想に
なぜ惹かれたのかと云われると、
非常に答えるのが難しいのだが、
モヤモヤっとしていそうな腑に落ちない幻想にも、
実はパキっとしたものが隠されていて
それを、トンデモ科学とかオカルト趣味とか呼んでもいいのだろうが
むしろ、僕はその隠され方の妙というものに惹かれていたのではないかと考える。

ここ数年きづいたことは、
幻想と非常に大きく今はカテゴライズされるようになってしまった一連の芸術作品の中の半分くらいは、いやいや違うんですけどどう好みとかけ離れているのか、説明しがたいものがあるんですということであって
結果的に、幻想から足を遠のける結果となっていったのであった。

それはさておき、パキっとしたものは、僕にはとても美しいものに見える。
先日、不木の「指紋の謎」もささやかなそうした光を放っていて
その美しさをいかに素氏に説明しようとしても
ちょっと数字が並んでいるだけで、すべて角膜で反射し、網膜にも映らず
到底脳の俎板の上にも載せてもらえないことになってしまうので
こればかりは、キレイだなあと共感してもらえる人でないと難しい。

主語と述語が不一致であろうと
論旨が不明確であろうと
その語句の間を吹き抜ける風の一吹きで、すべてを感受できる人は
それはむしろ素晴らしいといえるのだろうが
僕の場合は、風では何の匂いも嗅ぎ取れない朴念仁となる。
パキパキっと明解にしてくれないと、体が痒くなってしまう。

コミケでここ数年、必ず購入しているサークルさんがいる。
「数学ガール」の同人誌を出している数寄屋さん
登場人物は同じだけど、毎回きっちり出題と解答へのアプローチが独自に組まれている。
数学は大好きだったけど、
たとえば予備校で、学校とは全く違った解法でときあかされる
公式に頼らない手品みたいな早技を綺麗だなあってぼーっっと感動だけしている
冴ない高校生のままの頭の僕には、本当は何も分かっていやしない。

でも、この同人誌で、確率を図形で解いてゆく技をずっとながめてゆくと
綺麗で綺麗で、心が澄んでゆくような気分になる。

いつだったか、マックで隣のおじいちゃんが煙草ふかしながら数学の問題解いていた光景を思い出す。
もし長らえることがあったなら、そういう非生産的な年寄りになりたい。

で、今回の問題の一問目は。

五回に一回帽子を忘れる癖のあるK君が
(これ、うちの素そっくりじゃないかというのが、寒いコミケ会場での笑い話。
僕もKだが、素もイニシャルKなのだ)
正月にA,B,Cの三軒を順に年始まわりをして、家に帰ったとき、帽子を忘れたことに気付いた。
さてK君が二軒目のB宅で帽子を忘れた確率は?



もうひとつ引合に出されているのが次の問題。

五回に一回帽子を忘れる癖のあるK君が
正月にA,B,Cの三軒を順に年始まわりをした。
さてK君が二軒目のB宅で帽子を忘れた確率は?



この二問の違いは、ただ「K君が忘れたことに気づくか気づかないか」だけなのに。
答が違ってくるという。
こうなってくると、パキっていうよりも、言葉の綾に踊らされるモヤモヤの世界のような気もする。
数式に取りかかる前に、日本語の裏側をくすぐられるような、
ちょっと困った気分になる。
でもそこは逃げないで、作者さんの図形に導かれると、
「忘れる」の反対には「忘れない」があって
「気づく」ことが起れば「忘れない」ことは起こらないという見落としてしまう条件が隠されていたことに、わっと気づかされる。

何が面白いのか、何が綺麗なのか。
僕の力量では説明できないことが余りにもこの世には多すぎるけれど
でも、あの混沌の会場の中で、
こういう本に出会えるととても幸せになるのでした。

黄色列車

年賀状くださった方ありがとうございます。
絹山絹子宛で届ける郵便局員さんの渋面が眼に浮かぶようです。
でも、僕は本名がとても苦手というか
まるで自分のものではないようにずっと感じているので、
絹山名義にしてもらえるととてもほっこりします。
とはいえ、実際には本名様方にしないと届かないかも。
なぜか、隣家と同じ地番なので。

今年は蛇なので、大手拓次の詩にしました。
いつか「眼鏡文人」で拓次特集やりたいです。
資料は結構あつまってるのですが、テーマがね。
いやその前に、表紙だけ刷っちまった福永武彦…やらないと。
表紙がカビてしまう。
今年はそれが目標かも。

通販のお申し込みも沢山ありがとうございます。
いつもより多いので凄く嬉しいです。
順次発送してますので、お待ちくださいませ。
ダクダク二号は自負もあり、いつもより多めに刷ったので…
段ボールが玄関塞いでえらいことになってます。
引き続き宜しくお願いします!

本職は今日からスタート。
でも、いつもどおり閑職なので、工事中になってるHPコンテンツ修正やります。
とりあえず、辞典の「あ01」だけ復活してますが
残りはもうしばらくかかります。
ここ二年は同人誌制作にかかりっきりだったので、
素氏に基礎データ作製も頑張ってもらって、
さ行以降の辞典も充実させたいです。

四日、別作業のために郊外へ向かう私鉄に乗りました。
仕事始めのサラリーマンや帰省帰りの人やいろんな人が、昼下がりの列車に乗り合わせていました。
ちょうど全ての座席が埋まり、誰も立っている人もなく
人が横にいる体温と、冬の日差しの柔らかさで、列車の中はほどよい温かさに保たれていました。
眠いです。
猛烈な昼寝モードです。
この空気は僕には黄色にみえます。
なので、停車駅の少ない快速急行の中は静かに黄ガスで充満しています。
誰もが、とろけるように不思議な幸福感めいた空気に包まれています。

僕は、年明け早々入手した単行本を開いています。
以前、文庫で読んだ『壜の中の手記』が強烈におもしろかったので、
他にも読んでみたいと願っていたジェラルド・カーシュです。

廃墟の歌声 (晶文社ミステリ)廃墟の歌声 (晶文社ミステリ)
(2003/11/01)
ジェラルド カーシュ

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酒の肴のような、極上のホラ話(褒めてます)がびっしり。
黄ガスが、鼻の奥をくすぐり、ぼんのくぼを押し、眠りに誘う中読んでいると
ちょうど、静かでほの暗い酒場に自分が座っている気分になります。
わずか後から、ぼそぼそと声がして、聞くともなしにその声を聞いている。
小人がいただの、サイモンがイエスの教えを広める途中でほんもののイエスに出会っていただの、紙屑同然の小切手を切って啖呵をきる自称伯爵夫人だの。
なーに言ってるんだかなあ、でも聞いててちっとも飽きないなあ。
気づくと、いつしか左右の面子は変わっていて、でも空気はそのまま蕩けて
ページは閉じられていて、また開かれて、僕の瞼は閉じられたり、開いたり。

トンネルをくぐったら、自分以外の乗客が全部、タヌキや熊やキツネになっていた。
あの絵本はなんというタイトルだったろうか。
不思議な一時間ちょっとの読書をもう一度味わいたくて
僕は昨日も同じ路線に乗ったけれど、
日曜の都心行きになったそれは、
もう買い物へ行楽へと日常的な好奇心にあふれた喧噪で包まれて
黄ガスは希ガスとなって、同じにはならなかったのです。

なので、布団の中でもう一度、本を開いてホラの続きを聞こうと思う。

新年

あけましておめでとうございます。

暗そうにみえる僕だけど、少なくとも悲しい事件にも巻き込まれず
自分の好き勝手な毎日を送れる幸せをかみしめているので
今年も、のほほん、いやざくざくっと進んで行きます。
忙しいのはしんどい。
でも忙しくないと、走っていないとダメなのはよく知っている。
なので、細かいことは決まってないけど、今年も突っ走る。

新年早々、HPの更新しました。
以前から気になっていた、「黒死館古代時計室」
フレームの弱点は、もう自分自身でイヤになっていて。
世の潮流に乗って、カラムに走る。

あと、黒地に白文字も、辞典なんていう文字主体のサイトはだめだ。
そう長らく分かっていても、重い腰が上がらなかったので。
すっきり白地の2カラム君にしました。
ビジネス用フリーテンプレがあったので。
HTMLタグって大好き。

あと、冬コミ新刊の通販も開始しました。
「ダクダク2号 探偵の科学特集」
「科学画報」という科学雑誌に出会ったのは、数年前の西部古書市だったと思う。
雑本激安市で、その時床に数冊転がっていた。
一冊300円くらいだったかな。
それが、運のツキ。
ヤフオクで70冊くらい、どかーーんと買った時もあった。
表紙にシールというか、分類用の番号紙がぎっちり貼り付けてあってね。
虫食いありのぼろぼろでね、一番困ったのは目次が切り取られてる。

そんな可哀そうな彼らの姿は、今回の復刻の扉絵などで見られます。
フルカラーのポストカード作りたかったけど、そういう憐れな状態なので断念した。
でも、中味はすごいんだぞー。
足穂の初出誌になってる号もあるんだぞー。
とか、古雑誌の蒐集は自己満足の権化なので、特に個人名で集めるより、フルコンプはもっと痛いね。

「ダクダク」は、復刻だから、思考とはことなる部分を使ってやる作業です。
楽な半面、緊張感が伴う。
綺麗な本が作りたい。
元の執筆者に失礼をしたくない。
そんな気持でレイアウトとか、編集ソフトはないので、ワードの最大能力引き出したるーって気分でやってます。

こんなふうに
いつもいつも不遜者ですが、
今年も宜しくお願いします。

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絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
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