2012-09

喋れども喋れども

No one hurts me,
so I have no rights to hurt anyone.
However, I break you everytime.
Day by day the result turns over, and it tears me.

These notion and mention come to me again like a conventional testament
by reading any books and listening to any music, and moreover your voice.

I wish I don't use the subjunctive mood.
I wish I would be lenient forward everyone.

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暗殺の森

暗殺の森 [DVD]暗殺の森 [DVD]
(2012/06/23)
ジャン=ルイ・トランティニャン、ステファニア・サンドレッリ 他

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今日は「孤独な青年」の映画化「暗殺の森」を見せてもらう。
後半になって、前に見せてもらったことに気付いたが。
当時は理解できていなかったことも沢山あったようで
ほとんど初見に等しく楽しめた。

原作との相違点も結構あり、
そのまま科白自体巧みに使われている部分も多々あり
特に倒錯的なエロチックシーンは強調されて映像化されていたり。
なにより唸りたくなるほど、映像が綺麗だった。

個人的には、実家に帰ったマルチェーロが母親と一緒に精神病院にいる父を見舞うため
車に乗り込む寸前の、地面から撮られた枯葉が舞い上がるシーンが最高!

特に大事な相違点を少しメモしておこう。

・原作にはない盲目の友人の存在
彼によってマルチェーロは任務を負うことになったが、最後にはひどい仕打ちをしてこの友を裏切る。

・リーノとの再会シーン
マルチェーロが少年時代に殺害したはずの少年愛者の運転手は、
原作でもたしかに死んでいなかったことが、判明する。
でも「正常になりたい」と願い、
新たな罪を重ねることによって原罪(リーノ殺害)を消すという複雑な贖罪原理が、一気にかき消され、「正常でなくていい」と気づく根拠になったのが原作であった。
つまり、その意識改革がないと、かなりかっこ悪いどんでん返しだった原作。
でも、映画では、リーノを盲目の友人と同様に、公衆の面前で蔑み、
クワードリ教授暗殺の犯人に仕立てようとまでする。

・同志オルランドとの関係
映画では、マンガニエロっていう名前になってた!
(エロマンガ島か!スケベニンゲンか!笑)
それはさておき、原作では連絡も密にとり、
暗殺実行後も互いを気遣う良好な関係を気付いていたのに
映画では、マルチェーロは彼を途中から避け、与えられた銃を返そうとし、臆病なマルチェーロにほとほとあきれる役に割り振られている。

・母親の運転手を忌むシーン
堕落し廃墟と化した家で運転手の青年を愛人にした母親は原作そのままだが。
こっそりマンガニエロに彼を殴らせ、母親にはどこに行ったか知らないとすっとぼけるのは映画のみ。

・クワードリ夫妻暗殺シーン
原作では、元々マルチェーロには直接手を汚す使命は与えられていなかった。
事件後、二人の死体を写した写真を雑誌から切り抜くエピソードもあるくらい、
マルチェーロは落ち着いていた。
映画では、現場にいて、夫が刺殺され次に自分が殺されると知ったマリア(原作ではリーナ)が
泣き叫びながらマルチェーロのいる車の窓にしがみついても、撃つこともなくただ彼女の叫びを見つめ続けるだけ。

大まかに、以上5点の大きな相違点からいえるのは。
映画ではマルチェーロが、如何に臆病で卑怯な暗殺者であったかという人間像に変えられてしまっていること。
原作では、たしかに積極的に暗殺に加担はしなかったが、任務を完遂していた。
むしろ原題の「順応主義者」となるに至った過程、主義を貫くための異常な思考回路、冷徹な自己分析、最終的にはリーノの復活と、ファシスト政権崩壊によって自分の主義に区切りをつけるにいたる流れ。
そこに重点が置かれていた。

矮小でこずるい人間は、死ぬことすら許されない。
だから、ベルトルッチは最後までマルチェーロをダメ人間のまま生かしたと思われる。
でも原作では、空爆にあって妻子ともども死んでしまうのだよ。

あと、マリアがバレエの先生だとかも映画のみの設定で
DVDの表紙にもなってるマリアとジューリアのレズビアンちっくダンスも
映画では牧歌的な舞台設定だが、
原作では男装の麗人がいるボワット(キャバレーのようなものか?)に行くんだな。
むしろこの場面では二人のダンスシーンはそのままに
原作のいやらしい背景を映像化してもらいたかった。

でも、こういう相違点は非難ではなく。
総じて出ている俳優女優背景、みんな文句なく原作以上に原作にぴったりだったと思う。
じっくり比較しながら堪能できて、最高だった。

分割

DSC_0201.jpg

DSC_0202.jpg

二週間くらい前。
夕暮れの空が、不思議に二色分割されていたの。

おもしろかったなあ。

めもめも

あとがきまで読んで、訳者の千種堅さん自身
「孤独な青年」というタイトルはおかしかろう、
むしろ映画の「暗殺の森」の方がしっくりくるぞと感じていたが、
でも出版社の意向で従来表記を踏襲してることがわかった。

サリンジャーにも「暗殺の森」っていう小説あるからね。
紛らわしいのかもしらん。
冗長かと思えたエピローグは最後に至って意外な結末を迎え、
少しだけ、「チボー家」のジャックを思わせたのだけど。
好きだけど、むしろ惹かれるけど、「孤独な青年」全体に広がったものすごい腐臭が。
最後には、精神にまで至るような感覚で、ちょっとかっこ悪かった。
いや、本当はかっこ悪いものです。
いつもいつも、涙流すような寂しい話ばかりじゃ世の中ないですから。

***

ちょうどプロローグを読んでいたころ。
まだこの作品に、
もしかしたら世界傑作悪辣聖化少年賞(自分が気に入った少年物に勝手になづける)の新規登録成るかと思っていた頃。
ちょっと変な話のネタが降りてきた。
最近、ネタが降りてもメモ取ってなかったので。
必要がなくなると、人間は腐るものです。

***

肥った夫婦に一人の息子。小学生。
彼は土曜の朝が好きで、土曜の夜が大嫌い。
というのも。
両親は不仲、ありがた迷惑にも少年の通う学校を基点にして等距離の位置に別居した。
彼らは、やはりありがた迷惑にも「均等に愛情をそそぐため」と称して、一日交代で二人の家に帰ってくるように息子に申し渡す。
朝母親の家をでて、学校へ行き、父親の家に帰る。
翌朝父の家をでた息子は、学校へ行き、今度は母の家へ向う。

二つの家は学校を中心に等距離とはいえ、かなり離れていて、
子供の足では歩くと学校からはそれぞれ一時間近くかかる。
だから、毎日、彼は同級生よりずっと早く家を出て、放課後の遊びもそこそこに歩きはじめなくては、ならない。
雨の日だからと云って、迎えがくることもない。
自転車を使わせてくれることもない。
ただただ必ず明日の夕方帰って来いというばかりである。

この無意味な習慣は休日も続いていて、
決して片方の家に連泊することは許されない。

だから、少年にとって土曜の朝はとても安らぎをもたらしてくれるし、
夕方になればふさぎの虫にとりつかれるのだ。
土曜の朝は、学校への道のりがない分、ゆっくり眠りをむさぼることができる。
でも夕方になると、普段の二倍の距離を歩いて、帰らなくてはならない。

小学生だって疲れるさ。
だから少年は、ついにクラスの委員長的存在のA君に相談をもちかける。
最初は理解してもらえない。
だんだん驚いて、首をかしげる。

「どうやったら、僕は疲れないように毎日家に帰れるのかな」
「一週間交代はだめなのかい?」
「だめなんだ」
「車で送ってもくれないのかい?」
「一度だってそんなことしてくれたことないよ」
「そもそも、なんでそんな算数の問題みたいになっちゃったの」
「算数みたいだから、君に訊くんだよ」
「でも、算数じゃないね、ほんとは」
「そうかな、タビビト算に似てない?」
「似てないよ・・・。お母さんとお父さんに交互に遇えて嬉しいの?」
「・・・」

***

例えば、二つの家は駅前にあって、両親はいつも便利な生活を送っていて、
けれど、たとえ休日の移動であっても、少年はなぜか電車の移動は許されないとか。

そんなバカみたいで不条理で、
それでいて、大嫌いな親像を色々膨らませて考えてゆく。
そういう、別の腐臭まみれの乾いたギャグみたいなのも結構好きだなあ。



順応主義者

孤独な青年 (1984年) (ハヤカワ文庫―NV)孤独な青年 (1984年) (ハヤカワ文庫―NV)
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アルベルト・モラヴィア

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子供時代の彼がいかにもだったので
もっと触れなば斬る的なスパイに成長するのかと思ったけど全然違った。
たかがトカゲを殺して歩くことを、本来なら別段おかしくもないのに
「自分の行為を普通」だと認めてくれないとイヤだと言っては友人と大喧嘩し
母親に救いを求めて、猫を殺したといっても話もきいてもらえず、
偶発の使い魔によって、猫も人間も殺してしまうはめになった少年時代。

自分の殺戮の欲望は、いつか大きく膨らむだろうと怯えた少年は
怯えたまま憂いの中にとけこんで、ひたすら思索する人になった。
もっと正常に、いやもっと凡庸に、平均の中の平均のなかに隠れてしまいたい。
それができるならば、結婚もし、懺悔もし、聖体拝受もみんなやる。
嬉しくなるほど雑然と安っぽい、けれど平凡な家に棲み、正常とよばれる場所に留まりたい。
彼は知っている。
本当の「凡庸」の中に暮らす人は、一度だってそのどっぷり浸かった湯の存在に気付かない。
考えることもない。
湯がこぼれることも知らない。

思索する人としない人に優劣はない。
おそらく、彼が「正常」と名付けた範疇の人々に善悪の分かれ目もないように、
範囲の内外で優劣はない。

ただ、悲しいかな、思索する側に生れた人は、
一生考え続ける。
何も生まないかもしれない、ほとんど何も生まない。
それでも考えて考えて、メランコリーから解き放たれることは一生ない。

原題は、"Il conformista" という。
つまり、彼マルチェーロを「孤独」と呼ぶのはちょっとおかしい。
彼は外側の人だから、むしろ「凡庸に順応し見えなくなってしまう」ことを希求する、狂気に近しい人だ。
不思議だ。
多くの外側の人間は、ある種の選民意識で、自ら外へ向うのに。

仲間はずれだけれど、他の外側の人を恋焦がれない。
仲間を探さない。
ただ中に這入りたいだけで、既にもうくぐっているのに、足は湯の中に入っているのに
気付ききれない。
寂しいわけではない。
一人で荒野に立っているわけでもない。
だから、孤独ではないけれど。
ただ神経は、思索する側に入ってしまった者の宿命で、本人に無遠慮なまでに鋭敏に外界を感知する。

誰かの眠れない夜に似て。

疲労と死ぬほどの無気力にぐったりしている感じなのに眠ることができなかった。まるで自分の存在全体に対する悲しくも深い抵抗感といったものを感じていた。そして一風変った比喩がしつこく何度も思い浮かんだ。
自分の電線なのだ。
人類という電線にほかならないので、拒むのも、受け入れるのも彼の力をもってしては如何ともし難い、そんな恐ろしいエネルギーの電流が休みなしにその電線を流れているというわけだ。それは『死の危険』と書いた鉄柱に張ってある高圧線にも似た電線だった。彼はそうした導線の一本にすぎず、電流が時として全身を貫いてうなっても、彼は苦痛を覚えるどころか、かえって大いなる生命力を吹き込まれた感じであり、ときとして、たとえばいまのように、自分にはあまりにも強く、あまりにも烈しく感じられることがあり、そういうときなど、ぴんと張って震える電線であるよりも、いっそ引き抜かれて、作業場の内庭の奥に積まれた屑の山の上で、錆びるにまかせて放置されるほうがよかった。
それに大体、多くの人たちは電流がかすりもしないのに、なぜ自分だけ電流が通されて耐えなくてはいけないのか。さらにいえば、電流はなぜ中断したことがないのか、いっときも彼の中を流れるのをやめないのか。この比較は分離し、答えのない疑問へと枝分かれしていった。
その間に悲しくも気まぐれなけだるさが募って行き、頭をぽっとさせ、意識の鏡をくもらせるのだった。ついにうとうとしてきて、眠りがどうにか電流をさえぎったように思えば、自分が本当にいっとき、ほかのごみといっしょに片隅に投げ棄てられた錆びた電線の切れ端になったようにも思えた。

260p

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絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
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