2012-03

かなしばられる

前回のチューリッヒ交渉からもよーく分かる通り、
ぼくちん英語の教員免許とかもってるけど、実にへぼい。
TOEICとか受けたことないけど、恐ろしくて無理でしょ。
そもそも好きだったのは文法や読解で、
非常に規則的で機械的に見えたというだけの不純な動機なんだから。

本日も、金縛りをなんていうのか調べたくて、某辞書サイト見たら

泥棒を金縛りにした
They bound the thief firmly hand and foot.

規則で金縛りになっている
We are tied down by the rules.

とか例文が出てて、ちゃうねん、その金縛りやあらへん!と叫ぶ。
そもそもこんな日本語使うか?
ガンジガラメとかやないの?

結果的に、医学用語ではSleep paralysis、
民間伝承的にはold hug attack(老婆に押さえつけられるの謂)
とかいうらしい。

***

あー霊感ゼロです。
でも、いまだに強盗よりお化けが怖いです。

何が云いたいかというと。
最近、金縛りもどきなんですよ、目覚めが。

目覚ましの音も聞こえてるのだけど、
ついでに7時間とか、今朝は9時間も寝てるのですが、
身体が板の上に縛り付けられた如くぴくりとも動かない。
起きなきゃという上向きの意識に拮抗する
重く全身をくまなく沈み込ませる下向きの力の、
げに恐ろしき凄まじさよ。
特に後頭部は、地獄の鬼婆のツメにかけられて綱で引かれているごとし。

そのうち、無理だと諦めると、意識が遠のいて、さらに一時間二時間延長戦。

云い訳する気もないんだけど。
やる気がねえんだろ!とか甘えるのもいい加減にしろ!とか
その通りでございますが。

むしろ、どうなってこういう鬼婆様が引っ張るのか
そのメカニズムが知りたいのでございます。
疲れ?ウツ?
それだけとは言い難いものがあるよのお。

ということで、明日はオペなので、
鬼婆の呪いか、
おじゃる丸の三鬼・キスケアカネアオベエの悪戯か知りませんが、
踏ん付けてでも起き上がらないといけないので、
とりあえず寝ることにします。
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pillow kingdom

眠れば楽になるかなと思うけど
怖い夢ばっかり見ちゃうんだよ。

そういう時って
どうするかな。

湯たんぽがどっか連れていってくれないかな。

サナトリウム

毎日ダメな自分に向き合う。
不惑と呼ぶけれど、本当のところ惑いすぎるのがこの年代ではないかと思う。
叶えたいと願った夢が少しずつその手から遠のき、
指を伸ばそうにも、体は膿んで頭は倦んで思いだけが熟んで、
何も動けないまま時は過ぎる。

今はただグラフは急激に反比例を辿るけれど、
この下降線はこれから数年もすれば等しく下るわけではなく、
とても緩やかな下降線に変わると
通過した人はいう。

僕が中学一年生だった頃
よくもあれだけ動いていた、かの人を思い出すのだ。
激高しそこらじゅうを蹴飛ばし、大勢を蹴飛ばしていたエネルギーを思うのだ。
あの爆発の動力は、いま自ら渦中にいる負に向かう下降線と同じ源であったのかと。
それならば、決してこれから先も赦すことはないけれど
少しは、ほんの少しは、この倦怠をもって労うことくらいはできるように思う。

人は選ぶ。
何はともあれ、意思をもって選んでいる。
運命などない。
人は選んでいる。
必ず、瞬間瞬間選んでいる。
あなたたちが、家族をもったのも、その結果である。
その結果に責任をもたずに、何事かを叫んだとしても、
そこに残されたのは、未来への長き怨恨にすぎないのである。

だからここで僕が同意できるのは、
汎論的に「うんでゆく」時間なり肉体なりのみであって
一切合財、何も、かけらさえ、僕は継承していないと信じたい。

その確信を得るためには、僕はなんども登山列車に乗って山に向かおう。
高速鉄道の急激に飛び散る景色は僕たちを座席に縛り付け
スイッチバックを繰り返す鈍い登山鉄道は、座標軸を狂わせ
辿り着いた低酸素の気圧は、嘔吐と発熱と眩暈と夢幻を呼ぶ。

そこは天国と見まごう美しい風景を持ちながら
僕たちは幾度となく臨死を体験するのだ。
今一度、呪わしきものを思い出してもいい。
今一度、憎んでもいい。
幾度も死んで、幾度も目ざめ、
そのたびに浄化されるのかと問えば、
或る者は黒ずみ、或る者はいっそう穿たれてゆくこともある。
それでも、そこは。
サナトリウムと呼ばれている。

***

いつも同じことばかり云うけれど
美しい文章に出会うと涙が出る。

魔法の山に登る―トーマス・マンと身体魔法の山に登る―トーマス・マンと身体
(2002/12)
田村 和彦

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この本を開くと
もう一度、僕たちは山に登れるのだ。
ハンス・カストルプと共に、魔法にかけられて。
その半死の楽園で過ごすことができるのだ。

文学研究なんてけっとばせ。
(僕は何度生まれ返っても、文学をお勉強にはしませんので)
そういう珍しいセンセエと共に横臥療法繰り返し、検温繰り返し、血液検査に一喜一憂して、レントゲンの美しい影に花を咲かせ、美味しい食事を日に五度摂って、難解な討論を笑い飛ばし、我らが愛すべき神経衰弱先生・
マンが大好きなレコードを一枚ずつ聴く。

カフカもサナトリウムの常連だったそうじゃないか。
乾布摩擦に冷気浴にミュラー式体操を繰り返し身体の全体性を回復させうるならば、なんでも手を出したそうじゃないか。
病み歪んだものと認識された「ユダヤ的身体」から逃れようとしたそうじゃないか。
ついでに、本の外にも死の山には沢山のお客さんが来ていて
酸素がどんどん稀薄になって失神しても
まだまだ、倦むことから瞬間解放されるようにできている。

およそ対極と見られがちなカフカとマンであるが、前述したヴィラ・クリストフォロは二人を結びつける接点でもある。(略)このサナトリウムの滞在リストには、ズーダーマン、モルゲンシュテルンといった文学者のほか、チェザーレ・ロンブローゾ、マグヌス・ヒルシフェルト、ルドルフ・シュタイナーらの名前もある。山深く人里はなれたサナトリウムを中心に、プラハやミュンヘンの文学者から始まって、イタリアの形質犯罪学者、ベルリン性科学研究所の同性愛研究者、後の神智学の創始者までが次々に逗留しているのは興味深い図とはいえまいか。
62-63p

人生経験

こんにちは。
昨年来人生経験を積む様々なプチバイトを繰り返し、
こっそり稼いでいるタヌキです。

今までも色々面白いことがありましたが
本日お誘いを受けた案件が余りにもおかしかったので、
実際には不参加にしてしまったのですが、ネタ的に披露。

一応、他言無用なれば、文字など2ch的にあえて誤った表記にしております。

応募条件
★体重ナナジュウゴkg以上の成人男女

やること
★平日朝くじに、JR奈里田線A液に集合し、近くの河まで拉致られる。
★体重測定。
★裸足になって、おそらく国が開発したとおぼしき究明艇に載せられる。
★黒土省役人とともに二時間揺られて、沼にご到着。

報酬
★交通費込み、言質高速時間4時間でななせん円。

場所はここ。

imba1.jpg

えーと、まず僕が選ばれた理由は。
体重が該当するタヌキだからです・笑。

でもここめっちゃ遠くて、片道一時間半かかり、交通費も片道せん円以上かかります。
なので実質、高速時間7時間でよんせん円。

フネの写真を載せられないのが非常に残念ですが。
モンゴルのゲルという住居にとても似ています。
↓↓
mongol074.jpg

おそらく三十人くらいが一度に乗れると思われ、
中は換気の悪い密室になるのではないかと。
それも、おでぶちゃん(体重の上限は書かれてないからね)ぎゅうぎゅう。
外の景色を見る事も、川風を浴びることもできないまま、ユラユラ。

とすれば、二時間のうちに船酔者が発生した場合
この内部でどんな恐ろしいことがおきるのでせうか。
ぶるぶる。
それもまた実験のうちでせうか。

同僚ちゃんは、これもネタ、
金貰ってアトラクションに参加できるのだから、行け!
と申しますが、さすがにこのために仕事休みのも如何なものなので、不参加に。

でも、ニマンなら行ったな。
後年まで残る、一つネタとして、参加していたと思います。

ヴィクトリア朝の残滓

プリーズ、ジーヴス 2 (花とゆめCOMICSスペシャル)プリーズ、ジーヴス 2 (花とゆめCOMICSスペシャル)
(2010/12/03)
勝田 文

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随分前に出ていたけど、存在を知らなくて。
先日店頭で何気に掴んでしまい。
今まで素氏からウッドハウスは絶対面白いからと何度云われても、
ユーモア小説とかスラップスティックへの拒絶感があって逃げていたけど。

はまった。
はまりこんだー。
原作読むよ、これちょっとBL的にも捨ておけない関係ですね。
とかなんとか勝手なことをいい。
ついでに、栄光のヴィクトリア朝時代、貴族たち上流階級者たちが
のんびりお金の心配もせずに、子供みたくはしゃいでいた時代が
自分では何にもしらないくせに、妙に愛らしく映ってしまう。

また先日の辻邦生「トーマス・マン」の話に戻ってしまうけど。
1875年生まれのマンも、たった15年しか19世紀を生きていないけれども
自分は19世紀の人間だと言っていたことを思い出した。

あらゆる価値観が相対的に安定していた時期で、そうした安定に支えられた経済的、精神的な秩序が、成長率のほとんどゼロといった社会状況のなかで、永遠に続くと思われていたような時代」
120p

「懐かしき良き時代」とはドイツの「教養と所有という市民性の二大支柱の上にあぐらをかいていて、ひどくこまめな勤勉にも支えられ、市民的な安定のなかにあった」とマンが書いている
121-122p



皇帝ヴィルヘルム一世を頭においたドイツ帝国、
かたやヴィクトリア女王からエドワード7世と継がれたいったイギリス帝国。
嗅いだこともない、古き良き時代に匂いがここ一週間ほどで辺り一面に広がった。

そうこうしているうちに、また岩波文庫に手が延びる。
だから、原稿終わるまで長編はやめなはれ!
と自分を叱ってみるものの、海外文学むさぼらずにはいられず。
手にとってしまったのが、これ。

回想のブライズヘッド〈上〉 (岩波文庫)回想のブライズヘッド〈上〉 (岩波文庫)
(2009/01/16)
イーヴリン ウォー

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奇しくも、ジーヴスと同じ時代のイギリスが舞台。
ツンツンした執事も顔を覗かせ、熟れすぎた果実みたいな壊れそうなでも壊れない、佳き日々。
オックスフォードのコリッジcollegeで出会う若者たちが、
どれだけ馬鹿騒ぎしながら瑞々しい、終生続く友情を温めているか。
なんていうのも、ずっと共通言語になっている。

なにしろね、セバスチャン・ブライズヘッドという青年が可愛いの。
誰も彼を好きにならずにはいられないのが、ちょっと触れただけで分かるくらいに。
いつもテディベアと一緒にいる。
大切な景色、美しい瞬間をいつも「金色の壷」に入れてその場所に埋めて
いつか戻ってきて取り出したいと願うような人なんだ。

現在、中世付近で格闘している素氏に、ちょいと囁いてみる。
多分、いや絶対に。
このお話、【まぼろしたてもの】ですよって。
イーヴリン・ウォー『黒いいたずら』も意地悪たっぷりでよかったけど、
こっちはもっと素敵になるに違いない。

hesitation

その人のことはいままで書いた事がない。
大勢ファンがいて、大勢が応援している人だからね。
だからこそファンですと公言するのが気恥ずかしい。

twitterを始めたのもその人がきっかけだった。
以前から社会に向かって真っ向勝負なモノ言う人であり、
沢山の衝突があり、空回りしているような部分もあり、
その骨太さは才能も声も作品も精神も一貫していて、
高い誇りの持ち主だった。

3.11の後、その人は休むことがなくなった。
小柄な体躯で次々になすべきことを探し、動き回り、新しい力を生んできた。
有名人は知名度を生かすことによって、
人々の中に小さく芽生えた何かしたいという気持を現実のものと
大きなものにする纏め役を買って出る人もいた。
勿論この人も自分の影響力を知った上で動くこともあったけれど、
それ以上に一個人として新しい動きを起こそうとしている。

一年間、僕はずっとそれを「傍観」していたにすぎない。
こんなに毎日無理を重ねて大丈夫だろうか、
それでもこの一年継続された力は、この人の中で恒久的に続いていくだろうと
何の疑問もなく思ってしまう強靭さがある。

呼びかけに応じて募金をするだけ、
地産品を積極的に買うだけしかできなかった僕は
後ろめたさと同時に、より一層の傍観の気持に陥る。

人の心がわからないと日々絶望しても
こんなに明明白白な悲しみさえも理解できないのだろうかと
一年たって思う。
全ては自分よがりに時間軸が回っていて、
個人主義はとても安らぎを与えるけれども、
昨日の自称・不適合者と同じに、同じ分量だけ不能感を味わう。

むかし。
中学の社会科で一年生の担任だった先生が、
僕たちが高校生の時に40代で天に召された。
葬儀に行ってきた同級生にかけた問いで
僕は彼女から絶交を申し渡されたのだった。
自分の好きだった国語の先生は参列していたのかと
尋ねてしまったのだった。

自分勝手な利己的で浅薄な心持ちは、きっと今も変わっていない。

だから、日曜の日比谷の3.11イベントに
本当に向かっていいのかと何度も問いかけるのだ。
足を向ける理由は、その人の歌声をまた聴きたいなと思っているからが
ほとんどじゃないのかと。
トークイベントを観たいというのが
ほとんどじゃないのかと。

そういうあざとい心で向かう場所ではないはずだと、
足に釘を打つべきではないか。

でも、もしかしたら。
黙して祈ることしかできない人たち
あざとい気持で、ファン心理だけで誰かを観たいがために向かう人たち
であっても
そこにいて、彼ら人々を動かす人達の発信を聴くことによって、
この先へ続く別の動きを生み出す機会がひとつでも生まれれば
彼らの一つの役割は成立したことになる、
という考えも十分にある。
いや、もしかしたらではなく、
ミーハーでもいい、やじ馬でもいい、
そこに集った人たちの心に何か動きが生まれたら、めっけもん。
そういう明るい前進を望んでのイベントなんだろうと思う。

だから、前日まで、決断を延ばして、
行けるか行けないか、行くか行かないか、
考え続けようと思う。
そうして熟考することが、最低限の償い/礼儀ではないかと思う。

不適合者の生きる道

社会不適合者の穴 (1) (F×COMICS)社会不適合者の穴 (1) (F×COMICS)
(2001/09)
田村 マリオ

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大好きな漫画の一つ。
最近お見かけしなくなってしまったと残念に思っていましたが、
HPをみると地底から徐々に復活されたと書かれていて嬉しいです。

先日、千代田図書館で行われた古書目録座談会に行きました。
最前列でがぶりよって観ていました。
座談会は当然ながらとても面白かったし、
参加者全員にあの贅沢なFC目録「妖怪カタログ」@大屋書房さんが
配られてしまうという特典までありまして。
ホックホクで帰宅したのでした。

その折、N堂さんが仕事復帰しても必ず衝突が生じて、古本屋か骨董店しか道はないと思った
というお話をされていたのですが。
お父上の「お前は素面でヒトを騙せるのか、それが無理なら骨董店はダメ」
とのお言葉に爆笑したのはさておき。
同時に「社会不適合者の生きる道」という語彙が頭をよぎったのであります。

さて、『自称』社会不適合者とは、本当に不適合者なんでしょうか。
はたまた、『自称』社会不適合者は、本当に適合することを望んでいないのでしょうか。
それは恐らく、ノンであります。
ただし、ここでいう「社会」が真実適合すべきものなのか?
という問題を解決してからでなくては話は進みません。

他力本願もとい、俺は悪くない、お前たちがみんな悪いんだ!
とまでは言ってはならないでしょうし。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの言葉を待つまでもなく、
いじけている僕たちは、果たしてどれだけの人間と今まで向き合ったんだ
という話にもなりましょう。

でも、生きにくいのは本当で、呼吸するのも困難で、
努力したけど、まるっきし考えていることが分かんないんだよね。
向こうの常識や嗜好が、唖然とするほどお門違いで平板なんだよね。

いや、かといって一億総オタクにでもなったら。
誰も彼もが仕事しないで趣味だけに生きると言い始めたら。
世界経済は破綻するに決まっているのであります。
のらりくらりと内省に沈み、小さなコミュニティで楽しんでいられるのは
日本が大きく歪んでいても、「平和」だから、
ちゃんとお仕事して回転させている人がいるからなのでもあります。

ということで、「社会」が僕たちにそっぽを向いていても
生きづらくても、とりあえずオタク道の上で遊べることだけは
喜んでいいんじゃないのかなあと思ったりもしている日々です。

前回の辻邦生「トーマス・マン」におけるこの辺りにまつわる独仏比較が面白かったので。
ちょいと人心地つけたので、引用しておきます。

トーマス・マンは、フランスではエコール・ノルマン・シュペリエールの首席がそのまま小説家になれる社会があるのに、ドイツでは詩作品を作るのは魔神の業で、そうしたことを志す人間は学校生活には適合せず、劣等性であるという意味のことを『パリ訪問記』に書いているが、フランスとドイツの文化背景の相違は、こうした指摘のなかにもはっきり現れている。前章で一瞥したように、フランスにおいては美の制作は社会の一機能として公然と認められたものであり、社会的存在としての人間が、社会的能力の一つとして美の制作に向かうのである。秀才校エコール・ノルマン・シュペリエールの首席とは、マンの表現を借りれば「学習の天才」であるわけだが、そういう人物まで、その学習という社会的能力の積み重ねのうえに、連続したものとして、文学作品の創造が可能になる。「ドイツにおいてはそんなことはありえない」とマンは言う。ドイツにおいては詩人・小説家であることは、もともと社会とは無縁なことなのだ。学校での学習の延長上には、さまざまな社会活動は約束されていようが、芸術、文学の創造だけはその延長上にないのだ。美の創造はドイツでは社会とは直接つながっていない。それはむしろ暗鬱な魔神たちに通じている道なのだ。

165-166p

時折焦点があう

トーマス・マン (同時代ライブラリー)トーマス・マン (同時代ライブラリー)
(1994/01/17)
辻 邦生

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とても分かりにくいけど、愛はいっぱいのこの本。
湯船に落としても、それもまた愛(なんじゃらほい)な気分でお風呂で読む。
湯あたりしそうです。

ぼくカタカナがとっても弱いので。
ノイシュバインシュタイン城とかタマクラカン砂漠とか戦艦ポッキンチョムとかマレーデ・ネートリッヒとかツトラストラストラはかく語りきとか…。
いつもそんな酷い状態なので、今回もイロニーとかフモールとかデモーニッシュとか混ぜ混ぜに出てくるので、
「エローニッシュってなんだよ!ずーっと分からないまま半分以上過ぎたぜ」
と云ったら。
実はイローニッシュとエローテッィシュでした。
みたいな事件が起きています。

しかし…それにしても…この本は、しいて言うなら。
松本人志のMHKに出てくるコントの探偵・三河安城シリーズ。
前回は犬神家のパロディで、ゴリラがあのスケタケに扮する!でしたが、
この高下駄ノビタ眼鏡角帽姿の探偵は
みゃあみゃあ名古屋弁なのですが、口癖の一つに、
「○○的かつ、▼▼的かつ、□□的かつ、★★的にみても、犯人は…でしょう」
というのがございまして。

まさしく、この本は、「○○的かつ、▼▼的かつ、□□的かつ、★★的」の
「かつ」すらないのであります。
つまり「○○的▼▼的□□的★★的」

おお、呪わしきかな抽象名詞群よ!
何が書いてあるのか、愛なくして読めないのであります。
でも、ラブ眼鏡でやっと理解できた、お気に入りの所を抜き取る。
そしてニーチェもショウペンハウワーも一向に分かっていない僕は、なるほど~と感嘆するのであります。

前半でたとえ評論においても、
小説家にしか書けない「エピソードに富んだ楽しい概念の展開」とマンを讃え
自らも、北杜夫との学生時代のマン談義の花をとても面白く読ませてくれながら。
それ以降は、自分も作家なのに、
ガッチガッチの鋼鉄評論、洒脱の欠片もない状態に陥るのもいただけません。

が、ひとつ、いいなあと感じたのは。
仏文畑にいる人が、ドイツ人マンを深くとらえようとする時、
必ず出てくるジッドをはじめとしたフランス文学との対比、これは深いように思えるのです。

今まで、予備知識なく読んだ「魔の山」と「ファウスト博士」。
あの魂の揺さぶりをもう一度というわけで、
昨日素氏が見つけてくれた、「ブッデンブローク家」に入るのであります。
カタカナ弱い族は、当然ながらつい最近まで、ブッテンブローグと覚えていました。

トーマス・マンは『略伝』のなかで「疑いもなくニーチェから精神的にも文体的にも影響をうけたことは、私が発表した最初の散文習作から見ても、すでにそれと明らかに知れるのである」と書いているように、ニーチェは若いマンの精神形成に本質的な役割を果すが、しかしマンがニーチェに見たものは、決して「ルネサンスかぶれの、超人崇拝の、チェザーレ・ボルジア式の唯美主義」ではなかった。むしろ若いマンは、ニーチェかぶれした「血と大地と美の讃美」に軽蔑さえ感じている。現在たとえばハイデガーを通過したあとのわれわれの眼から見ると、西欧ニヒリズムの克服者としてのニーチェの相貌がはっきりと浮かび上がってくるが、ほとんどニーチェと同時代者であった若いトーマス・マンが、「自己克服者」としてのニーチェを眺め、「ニーチェの言うことはほとんど何一つ信じなかった」と言っているのは、若いマンの洞察力がなみなみではなかったことを示している。マンが「何といっても、ニーチェが私に及ぼした個人的変化は市民化するという意味のものであったと思われる」と述懐するとき、ニーチェ哲学が果たした両刃の剣に似た役割を考えないわけにはいかない。
ニーチェが精神を憎み死を憎むのは、精神が、生から、生本来の故郷を奪い、認識の中立性のなかに孤立するからである。彼ははっきり生の拒否者としての大ヴァーグナーを否認し、生と戯れ、生の心意気をうたう小ビゼーを認めようとする。ニーチェ心酔者は生を謳歌するが、それは内面化されたままの生、いささかの市民性・社会性のかかわりをも拒否し、生それ自体の肥大化のなかで個人意識、文化意識を高めていく生、にほかならない。トーマス・マンは、はっきり、この内面化されたままの生が、ニーチェの誤読によって、唯美的に生そのものを讃美する危険をみていたのだ。ニーチェがヴァーグナー対ビゼーという極端な図式まで出して糾弾するのは、こうした精神化し内面化した生のなかに見てとれる青白い孤独性、倨傲性なのだ。ニーチェは生を謳歌するが、それは何よりもまず生の内面に食い込み、深く巣食っているニヒリズムの源泉たる精神を、克服することであった。それは、生が、自らの孤独を脱して、生命のほうへ、市民のほうへ、政治のほうへ、文明化された社会のほうへ歩み出ることに他ならなかった。
マンがニーチェを「自己克服者」と呼び、ニーチェを通して自らが「市民化する」と言ったのは、こうしたニーチェの真意を読みとり得たからであった。「ニーチェが文学的に煽りつけた一切の英雄的な美的な陶酔」が決してニーチェの真意ではなく、あくまでニヒリズムの克服こそが――西欧的生、とくにドイツ的生のなかに食い入ったこの孤立化する精神という〈生概念の反対者〉の克服こそが――ニーチェが生涯かけて戦った相手だったことを、マンは小説家本能によって嗅ぎとっていたのである。

126-127p


わからないことだらけ

本当に世の中一番の謎は、人の心だと思う。
全くわからない。
想像力欠如なのだろうけど、でも他人だって想像したことないだろう、お互い様だろうと思う。

途中の煩悶すっとばし、結論からいえば。
「期待されているうちが花なのね」ということ、らしい。
多分、そうなんだろうなあ。

自分を特別視したくないし、誰かを特別に尊敬したり、誰かに期待もしたくない。
自分から知りあって、ああこの人面白いなあと思う人が、ごくたまにいる。
同じ空間にいることが多ければ、ばか話をたくさんしたりもする。
でも会わなくなったら、べつに無理に会う機会とか作らない。
ごくまれに、どうしてるかなあと思う。
それでいいと思う。

期待されるのがなぜ苦手かというと
その瞬間、前にも書いたけど、頑張っちゃうからだ。
無理なサービス精神だしちゃうからだ。
それを「この人無理してるなあ」なんて見抜く人は誰もいないくらい
自分自身ですら楽しんでいると思いこむくらい、演技以上に自然体でこなせるから。
厄介なのだ。

この厄介を僕は「フラッシュバック」と呼ぶ。
何日も透明になるまで、吐き続ける。
澄明なる嘔吐。

もう自分では本を出していないからね、二度とないけど。
僕は読者さんが大層苦手でした。
その苦手を何度も叱られました。
どうして大事にできないのかと。
でも、わからないです。
どうしても実感できないです。

次の本を待ってます。それは大丈夫、嬉しいです。
あの場面のあの人物のあの気持の…ごめんなさい。
ただひとつの誠実があるとするならば、
僕は対価をもらうならば、決して失礼のないものにする、ただそれだけでした。
やっつけだとか、書きたいこともないのに出すとか、そういう不誠実だけはしたくなかった。
それだけです。
できたものを媒介にして交流することができなかった。
それだけです。

ブログやツイッターやもろもろ。
誰もが簡単に発信できる現在、発信に対する反応がないと怒ったり悲しんだりする人が
大勢いるのも、なんとなく分かります。
でも反応があること自体を恐れる人がいるのも事実。
ならば、後者はなんのために発信するのかと、前者は問うでしょう。

それは霧笛です。
空漠だけを拠り所とする、話し相手とする人間がいたっていいじゃないですか。

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絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
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