2011-02

知らなんだ

昨年暮れ、我が家もようやく地デジ対応になった。
チューナーだけ買うか、光をNTTに替えて光TVにするか、はたまたBDレコーダを買うか。
大人二人でも持ち上げるのが苦しいブラウン管TVは廃棄する気は毛頭ないので
今までVHSや8mmで録画したものが大量にあり、今後はHDD直接録画したいぜ!
気分が高まったので、箪笥貯金からソニーのBDレコーダを購入したのだった。

二番組同時録画したり、録画中に同番組を頭からおっかけ再生したり。
二ヶ月かしこーーい!を連発していたが。
そろそろDISCにでも焼いてみるかとDVDを突っ込んで、止まる。
ええ、素氏が大量に買っていたDVDでは駄目でした。

あー、CPRM対応でないと駄目なんだ!
すみません、我が家はレトロを地でいっているので、今頃こんな発見してます。
早速対応DVD発注しましたぜ。

そういえば、勿論、このレコーダの電源を入れないと、いまだにアナログ放送なんですが。
なぜか我が家は、電源落としていても、これを通過すると、アナログがものすごく美しくなりました。
HDに録画するとデジタルの方が綺麗だけど、リアルタイムで見ると、アナログの方が綺麗なのねー。

ついでに、D端子ケーブル買ってつないだけど、なにしろD1にしか対応しないブラウン管、
ちーーっとも変化ないです。
この間の仙台のホテル、液晶TVで気持ち悪いほど綺麗だったわ。

***

最近トイレットペーパーやペットボトル茶までネットショッピングする。
その御用達がアスクルのSOHO/家庭版アスマル。
まあ我が家もほとんどSOHOですから。
洗剤10KG買ったときは、さすがに我ながら使い切れん!と慌てたが。
最安値ではないが、最安値に近い価格で自宅まで運んでくれる、
1500円以上で送料無料は素晴らしいです。

先日は、一杯立てドリップ珈琲100入りを購入し、
職場で@15円で売る、駄菓子屋を展開しました。
チャック付きPP袋に30個入れて、まとめ売りおまけ付きとか。
味を混ぜてアソート袋を作ったり。
駄菓子屋のおっさんは、忙しいです。
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吸収の日々

遂に来ました~、カフンショウ。
今年はやはり飛散量十倍の猛威に屈しそうです。
家の中にいても、くしゃみが止まりません。
発症は15年前、相模原に引っ越したとき。
それから酷い年は、鼻づまりで不眠が続き、二ヶ月死体だったけど。
杉の樹皮をそのまま煮出して飲むという、荒療治を行って以来5年、すっかり完治した気でいたのに。
今年は駄目かも。。。
とりあえず、マスク大量に職場から取ってこなくちゃなりませぬ。

***

いつも勝手にフレックス出勤(でも退勤は定時な人)なのに
今日は遅刻できない日であり、かつ素氏が早番だったため、緊張してたら6時前に目ざめる。
仕方がないので、定時よりも一時間早く職場前に着く。

先日敷地内全面禁煙になった話を書いたが、
その後病院前のスーパーに灰皿が発見され、
病院駐車場脇のほとんど敷地内にもみえるプチ公園で携帯灰皿を掴んで佇むことができることが判明。
それでも往復結構かかるけど、ささやかなオアシスが増えたと安堵していたのだ。

本日早く着いたから、そのプチ公園に行ったら。
ビニールシートが持ち込まれ、数名のヘルメット姿の人たちが!
げ!
一週間で、この公共の場にも看板が立つのか!
と一瞬にして戦々恐々になったが、チョークで書かれた工事内容に唖然とする。

「スモモ剪定」。。。あのー。
なんで、切らないといけないんですか。目隠しを。
そもそも、スモモなんて実ってましたっけ、この場所に。

よく分からんが、夕方に行くとすっかりスカスカになった樹が並んでいました。
とりあえず、花が咲くなら、これから観察しよう。
しかし、迫害を受けてる僕たちの心臓をドキドキさせないようにしてもらいたいです。

***

「ファウスト博士」二巻になって、大変難しいです。
難しいというのは、難解というだけでなく、弾き出されそうな感じ。
脱線が著しく、一回読んでも何が書いてあるのか不明な問答が頻出し。
マンが素面でかいた、【酩酊自動筆記】と呼ぶことにしよう。

昔、ほんとにベロベロに酔っ払って小説書いたことがあって。
読み返したらすごかった。
無意識下に潜り込んでるような語彙が、メタクタに組み合わさっていて。
酷いんだけど、切り捨てがたい(言ってろ!)部分もあったわねえ。

でももうすぐ三巻だから、読了するよ!

***

外に出かけよう計画噴出。

行かなければならない場所などない。
やらなければならないことなどない。
ついでに。
本日遅刻したので、その分、早めに帰らせていただきます。(笑)
さらに。
暗いと不平を言うよりも、もっと灯りをつけましょう。
(ラジオ宗教の時間に流れた言葉らしい)

以上は素氏から教わった名言の数々であるが。
出かけたい場所、見たい展覧会、映画が山盛りである。
その欲望の裏側の心理は深追いせずに、吸収の時間と読み替えて動くことにしよう。

メモ代わりに、リストアップ。各々リンク張ってます。

【展覧会】
・3/1-27 「コレクションにみるロシア演劇のモダニズムとアヴァンギャルド展」 @早稲田大学演劇博物館

・2/9-5/9 「シュルレアリスム展」@国立新美術館

・1/8-3/27 「白井晟一 精神と空間」@汐留ミュージアム
2012年1/14-3/25に同所で、今和次郎展ありますよ!楽しみ!

・1/4-3/27 「挿絵の黄金時代展」@弥生美術館

・2/23-4/3 「グランヴィル-19世紀フランス幻想版画展」@練馬区立美術館

・1/21-3/25 「旅する版画:イヌイットの版画のはじまりと日本」@カナダ大使館高円宮記念ギャラリー

【映画】
・3/26公開 「わたしを離さないで」(原作 カズオイシグロ)

・2/26-3/18 「トルンカ、ポヤル作品集」@渋谷イメージフォーラム チェコアニメ!
21:00から一日一回上映、9種のシリーズ、各種2-3回しか上映されない!ひー!

・4/23公開 「イヴ・サンローラン」 ファッションは興味はないけど、、、これは。

あと「英国王のスピーチ」も観たいねえ。
一般の映画は、いつもどちらかが50歳以上二人で2000円パワーが最強なので。
金券ショップに行くか、レディースデーに行け!と同僚ちゃんから知恵をつけられました。
一人で行くのは、いつもアウトロー映画館ばっかりだからなー。

部分は全体の部分である

ほんとに偶然に。
NHKで四回シリーズでやっている「四十九日のレシピ」というドラマを二回連続で見る。
なんて綺麗で優しい物語だろう。
生活することが厭わしい、生活するために生活することが辛い。
そんな呪詛を吐くくせに、僕はなぜか「暮らしの手帖」の「すてきなあなたに」の世界を大事に思う。
ドラマの中で、伊東四朗も和久井映見も風吹ジュンも、みんないびつで一生懸命に生活している。

泪を流して、洗われて、とてもしんどくなる。
僕はいつか、赦せる日が来るのか。
暖かい家庭というものを知らなかった子供時代を、憎まなくてすむ日が来るのか。
同じように悲しい子供をこの世に殖やしたくないと願う気持ちばかりで、
世界に刃を向ける時間を棄てることができるようになるのか。
答えは、見つからない。
ドラマは当たり前に解決の光をみせるのに、置き去りにされたままだ。

***

NZが大変なことになっている。
いまはもう海外旅行に余り興味がなくなってしまったが、
20年前の僕は、語学研修に行く友人に誘われて、NZを一ヶ月一人旅したのであった。

誘われてはみたものの、当時一回目の大学は英語学科だったものの
今も昔も他人と一緒に行動もできそうにないし、英会話もどうでもよかったので
二日だけ合流することにして、(結局それも途中で別れた)
後はバックパッカーでユースホステルをゆったりと移動していった。

北島から南島へは船で渡り、クライストチャーチの非常に近代的なホステルに泊まった。
そこで僕は二週間前に別のホステルで同室になった、英国人と再会することになった。
僕の下手な英語を熱心に聞いて笑ってくれた彼女は、今頃どうしているかな。
レストランなどほとんど行かず、いつもスモモみたいに小さな林檎とパンをカバンに入れて、
おなかが空いたら齧っていたっけ。
むしろ自然の豊かな郊外を選んで移動していたので、実際にはこの町の印象は薄い。
オークランドに戻る国内線を四苦八苦で予約した。
郵便局で紙に欲しい切手を書いて、綺麗な切手を求めた。

遠く離れて悲しんでも何もしなければ意味がないけど。
映像を見ていると苦しい。

***

今日は、また休みを取って、庭園美術館に行きました。
「20世紀のタイポグラフィ」展をみてきました。

同僚ちゃんに、タイポグラフィとはなんぞや?と訊かれた。
うーんと、
文字を言葉として情報を伝えるというよりも、デザインの一部、視覚に直接訴える一手段として用いるために、フォントを意図的に選び時に作り、効果的に配置すること?
1920年代の大好きなソ連の赤と黒のポスターから、80年代まで何よりスマートでカッコいいポスターが並んでいた。
ポスターは距離をおき、何を語るか聴きたいので、階段の下から見上げたりした。
シンプルで力強いものが多いから、本来の目的を考えると、狭い小部屋に配列されたポスターたちは、少し窮屈そうに感じられた。

デザイン原稿を元に、イラレでいつも素氏に表紙原稿を作ってもらっていた頃。
字間、フォントの縦横比、配列を少しずつ変えては、あーだこーだと検討した。
あの僅かな差異を決めるのは、カッコよさの一語に尽きる。
二人のなかにあると信じたい、嗅覚のみの美学。
素人の僕たちの何千倍何万倍の精密さで極められた今日のポスターたちは、
タイポグラフィを主題に選ばれただけあって、
イラストの要素を含んでいてもフォントが訴える逸品ばかりだった。

けれども、文字は、意味を解せられるその国の言語で描かれた場合、情報を持ってしまう特質がある。
それが欠点でも利点でもあって、
たとえ文字だけのポスターであっても、「一部」になってしまう宿命をもっている。

僕は今回、竹尾ポスター展告知ポスターがとても気に入りました。
ローマ数字の上に漢数字が重ねられ、離れると梵字の掛け軸のようにも見える一枚が
ストイックな海外のローマ字のポスターの中にあって、異質に光っていました。

また表紙つくりたい!と思う時間だったな。
↓は今回の展覧会には関係ないものです。
可愛いタイポグラフィの一例。

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一人旅@仙台 二日目

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雨が上ったばかりで、折角の安達太良山がお隠れに。
なのでほんとはこんな風に見えますよの看板。
うしろのモックモックが、本当の山。

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西公園前、広瀬川にかかっていた、素敵な橋。
古本屋巡りの最中に面白い景色に出会って満足。

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楽しかった、Zepp仙台。
後ろに並んでいた純朴そうな青年たちの会話で、もうすぐなくなるってずっと噂になってるよなー。
仙台から確実にライブが減るのいやだー。
の声が耳に残ってます。

さて、二日目。

0800 携帯目覚ましかけていたけど、マナーモードでブルブル震えただけ。
ゆえに寝過ごす。まあ大したことないけど、腰が痛い。
普段ホテルって寝付き悪いんだけど、さすがに疲れていたようで「ファウスト博士」読みながらぐっすり。

0830 朝食。お昼抜きになる可能性あり。古本のせいでな。
なので、おにぎり、パン二個、コンソメスープ、果物、野菜、ソーセージ、珈琲二杯。
がっつりおいしく頂きました。

0850 100円ローソンもう開いてた!
加圧むくみ取れます靴下が105円じゃないですか!これしかない!
(もしかしたら自分土産に買い込むべきだったのではないかと思う)
しかし、部屋に戻って荷物の整理をしてたら、昨晩なかったはずの靴下が!
まあ、この加圧靴下は薄手だけど暖かく、しっかり締まるので使ってよかった。

0930 チェックアウト。とってもいいホテルだった。ありがとう。
今度仙台に来たときも、是非とも泊まりたいです。
ちなみに、ホテルの名は、コンフォートホテル仙台東口。

0950 のりば7からバスに乗る。
整理券握り締めて、料金が370円になるまで前の料金表を睨みつける。
バス停の一区間の距離がとても長い、バス停の名前が似てる。
ここで間違って降りたら、確実にやばい事になるので、緊張。

1020 鈎取というバス停で下車。
おお、ここが噂に名高い萬葉堂書店鈎取店ですな!
開店直後なのに、もう車が数台停まっているじゃないの。
どきどきわくわくしながら入店。

1200 すでに一時間半が経過。すごい、すごすぎる、この分量。
そして店員さんの汗の結晶ともいうべき、懇切丁寧な分類に溜息がとまらない。
こんなに広いのに、なんて見やすいんだ!
南砂のタナベとか、いやいや町田の高原とか思い出すけど。
まあ、この書店のHPを見てください。売り場の写真を見てください。
→ここ

しかし、感嘆と同時に押し寄せる、自分のちっささに涙。
普段、古書市に行っては、海外文学がちっともねえ!と文句垂れるくせに。
70年代以前の海外文学だけで、10本も棚があったら、
白水のあれも、新潮のあれも、晶文のあれも、、、シリーズがぐわーっと並んでいると、
吐く。ここまでくると、吐いちゃう。
なんというか、ハイキングに来たのに、富士山だった的な。
一気に高山病というか、掴んだ本の値段が安いのか高いのか面白いのか、分らなくなる。

1230 地階に潜入。
誰もいない。BGMも蛍光灯の光もあるけど、ここはぞくぞくするね、怖いね。
一階よりも古いもの昭和10年代以降の本が多いね。
角を曲がって宗教の海、角を曲がって南洋の民俗学の海。
科学全般も建築も、、もう眼がチカチカするぜ。
そして絶版文庫の海、サンリオSFの洪水、岩波の背中の文字がもう眼がやられて見えません。

1300 だめだ、ここ。
三時間いて、色々籠いっぱいにして、でもちゃんと見たのは1/4くらいかな。
寝袋もってきて、一週間くらい籠もりたい。
せめて、昼休憩とって一日はいないと駄目だ!
店の前に立ち食い蕎麦屋とトイレと灰皿希望。

1310 予定より早いけど、荷物が重くて斃れそうなので、バスに乗る。
黄色い帽子に黄色い旗を持ったおじいちゃんのお散歩集団が乗ってきて、わちゃわちゃ楽しそう。

1350 駅中の居酒屋さんで昼食。
500円でおいしそうな海鮮丼とかネギトロ丼とかあったけど、迷わずつけ麺を注文。
僕はチャーシューとゆで卵が大好きなんだ。

1430 お土産を物色。ササカマか萩の月か牛タンかずんだか三陸海鮮珍味か。
何しろ荷物が既にヤバイ量なので、小物で勝負する。

1500 必殺技、本ツメツメ作戦により、カバンの比重・密度が最大となる。
高速バスの時間まで、煙草を吸いながら、ぼんやりポカポカ太陽に照らされる。

1600 帰りのバスに乗車。
行きとは違ってとても空いているので、一人二席占領できて、大変ラッキーである。
夕暮れが近づく。楽しかった仙台とお別れ。

1930 佐野SA。真赤にうるんだ満月が、黒い稜線の山の端にのっかっていて、
まさしく逢魔の刻印を残すかのような空に見とれる。
写真は撮っても、真っ黒にぽつんと白い点にしかならず、大変残念。

2100 新宿到着。さすがに疲れたわー。
2150 帰宅。もうオネムな素氏に本を見せて、少し喋る。
なぜか、買ってあった大学芋だけ食べて、晩御飯終了。

大変充実した、かつ強行軍の二日間ののち。
本日はよろめきながらも、休日出勤。
最近晩御飯ちゃんとつくってなかったので、えいやっとばかりに、
豚汁、ブリ大根、ちらし寿司作って満足いたしました。

また仙台行きたいな。
二日は古本行脚に使って、一日は松島みてみたいです。
一人旅に行かせてくれた、素氏に大感謝。

一人旅@仙台 1日目

足が死んでます。
なのに替えの靴下忘れました。
どうしようかな、ホテルの横に100円ローソンがあるから、買えるかも。

0600 自宅出発 大雨ざんす
0645 都庁前から新宿住友ビルへ
0700 二次元バーコードでチェックイン。めっちゃ簡単。

0745 バス出発。気配りさんなバス会社。
席がふかふか、昔の美容院のお釜(あっためるの)みたいなのがついていて。
一人ずつ暗さと、眠り込んでも隣にもたれかからないようにしてある。
女の子同士が隣になるように配慮もしてあって、すごく快適。
途中、佐野SAと智恵子抄で有名な安達太良SAで、トイレ休憩。ニコチン補給。

1225 予定より早く仙台到着。曇って少し肌寒いかな。でも都内とあまり変らない。
パスモでコインロッカーが使えることが分り、いそいそと荷物を突っ込む。
駅から周りを見渡す。ひろーい。
ロフトもパルコもタワレコもブックオフも、みんなすぐ側だ。
だけど寄ってる時間はなし。

1320 火星の庭さんに到着。入って右手に喫茶コーナー、左手に本棚。
柔らかい物腰の店員さんにランチを注文して、古本物色。
精鋭部隊がひしめいている。少し趣味がずらしてあって、楽しい。

1430 道に迷う。なんというか仙台は地名が難しい。
あと銀座で迷うに似て東西南北の感覚が90度簡単にずれる。
大きな道では、地下道で反対側にいったけど、すでにどの出口に出ればいいか不明。
なんとか、三軒古書店が集った場所に到着。一軒は情報どおり休みであった。
苦労して到着した割には、何も買うものがなく。
駅に戻ってホテルにいくか、もう一軒いくか迷う。

1500 結局、てくてくてくてく、どんどん仙台駅から離れるわ。
西公園というとこまで来たわ。
そして、ここに噂の尚古堂書店という、地下から三階までびっしり古本の店を発見。
ロッカーに手荷物しまいましょう、の古書市状態です。
うわー、これは時間がないぞと、入ってすぐに気付く。
広さを持て余しているはずはないが、どこにも隙間はないが。
文庫や新書は、同じ本が版違い、版同じで複数冊ならんでおり、
不思議なことに、カバーなしでも、初版でも、同じ価格という、、、。
一階で絶版文庫を集中的に、二階で晶文社白水社、海外文学をざーっとみる。
後ろ髪をひかれたが、4冊掴んでタイムアウト。

1620 運良くバスがやってきたので、ぎゅうぎゅうで乗る。
未知の土地のバスはルールが分らないので緊張するが、歩けば30分はかかるので仕方ない。
しかし、駅前といいながら、かなり駅から遠いところで下ろされる。
仙台ももちろん禁煙区域は多いが、喫煙スペースも随所にあるので、快い。

1700 またも駅近な筈なのに道に迷ってホテル到着。
往復バスとホテル合わせて1万円ぽっきりなのに、施設充実のホテルで大満足。
ネットも出来るし、ベッドはセミダブルだし、朝食無料だし。

1720 大急ぎで駅前のZepp Sendaiのロッカーに荷物を突っ込む。
またもカットソー一枚で一時間並ぶ、さむーい、雪もちらつく。
既に足がぱんぱん。でもライブで飛ぶ。
人生初の生ロール(?)を見る。
ロールケーキじゃないです、人間ロール。
アンコールで三人の人が、前の列の頭上を転がっていった!
赤坂、お台場、仙台と出たけど、一番盛り上がったかも。
あと、オールスタンディングのライブって、結構怖いです。
いろんな人の人間性が剥き出しになるので、前に行きたいのは分るけど、凄く強引な人乱暴な人がいてね。
今日は、もう開始10分前くらいに、突然すみません!って叫びながら
三人のいい年のおねえさんが、平然と割り込みして前に突進してきました。
みんな、あまりのことに、呆然と喋ることによって状況をごまかそうとする彼女達をみていました。
うーーーむ。
ま、演奏はたいそう楽しかったけどね。
僕は、いつも、元気をもらうというよりも、気持ちを新たにできる。
本を読んでミニマムになったものに扉を明ける感じかな。

2130 公園終了後にジントニックを貰って(ワンドリンク交換)、外にでると、
一気に汗が空中に去って、さむーい。
ホテルに帰って寝たいけど、話のたねに、薦められていた牛タンの店利久、駅中店にいく。
こんな時間なのに、待ちの列が。
足がもげちゃうけど、おなかもぺこぺこだから、待つことにする。
焼き牛タンと牛タンシチューのハーフセットを注文。
うまー!!
テールスープ最高!シチュートロトロだ!
そして、僕は今まで焼肉屋で食べていたぺらぺらで抱いていたイメージから、
一気に牛タンとは、かくもうまいものなのか!と認識を新たにする。
なんだ、この肉厚で、いい具合の切れ目と、いい具合の焼き加減は!!
全然別物ですよ、これは。
一回きりだけど、美味しいもの食べてよかったな。

さ、明日は。
また在来バスに乗っかって、郊外に出かけます。
本日タイムアウトになった古書店の系列で、さらに広いらしい。
帰りのバスに間に合わないなんてことのないようにしないとね。
おやすみなさい。

ひゅーまにずむ

連日マンのことばかり、それも訳のわからぬ称揚ばかりが続いていくが。
どうやら本年上半期はマン祭になりそうなので、致しかたあるまい。
なにしろ、頁を繰る毎に思うことが多すぎて、読了してから何かを書こうとしても、
指の隙間から零れ落ちてゆく水を押しとどめることができないように、
なにもかもが、消えてしまう惧れがあるからだ。

トーマス・マンの肩書きには、よくヒューマニストと書かれている。
しかし僕は、概念としてのヒューマニズムというものが実感できないので、
この名前を安直に引き合いに出すことは避けたい。

マンは恐らく驚異的な思索家であり、懐疑派であり、実証主義者であるのだろう。
彼は、自分は何ものであるか。世界は如何にして掴むべきものなのか。
を延々と若い頃から、考え続けていたに違いない。
そしてその答えを得るべく、悩むよりも、知ること、特にギリシャ哲学まで遡った長い哲学の道のり、
あるいは、神学におけるあらゆる認識を必死で学び取ろうとしたに違いない。

そして個人及び世界が必ず孕んでいる罪を実視しながら、
なぜ罪は生じるのか、ひいていえば、悪魔のイデーはどこにあるのかを考え続けたのだろう。

彼の物語は、勿論大きな底流としての、通常の小説でいうところの筋をもっている。
けれども、その筋よりも、装飾というには余りある、思想問答に重きを置いている。
あるいは「魔の山」で顕著であった、僕が勝手にオタクと呼んだ、
あらゆる世界の興味(特にデモーニッシュな)の要素を組み込んでみようとしている。

思想問答と書いたけれども、マンの脅威的なところは、
決して己の主義を前に出さないことである。
通常A主義をもった作家は、対立項であるB主義をもつ人物/事象を引き合いに出し、
戦わせ、Aを勝たせて、自分の主張を正当化するという流れを持たせるだろう。

しかし、マンは、学ぼうとするのである。
「魔の山」よりも「ファウスト博士」の方が顕著であるが、
幾人もの個性的な神学部の大学教授・講師を登場させ、
彼らに全く異なる神と悪魔の存在意義を語らせるのである。

いつだったか。
素氏が美学校時代に受けた種村さんの講義を引き合いに出して。
「あの講義は、もう一度種村さん自身が、マニエリスムについて学んできたことを整理しなおそうという行為だったのだと思う」
と語ってくれたことがあった。

マンは、恐らく同じことをしている。
自分の中で未消化に分散していた、多くの思想を登場人物に担わせ、考えさせ、
そして自分の中で世界を掴もうともがいている。
しかしこの苦悩は、彼自身の非常に控えめで謙遜に満ちた態度と、無尽蔵の筆力によって
丁寧に折りたたまれ、
吾々に、全くといっていいほど押し付けがましさを感じさせることがない。

もし彼をヒューマニストと呼ぶとするならば。
こうした、人々の心根の秘密、神と人との関係、混沌の世界をつかむ術を
彼自ら先頭に立ち、優れた教師のように、あるいは最も悩み多き青年として
吾々を導こうと努めている、そんな点で呼ぶに相応しいといえるのではないか、と僕は思う。

自白の達人

決まった時間に起床し、決まった時間に家を出て、決まった相手に挨拶をする。
たったこれだけのことが、僕にはままならない。
目覚めて三時間たって、オグラさんの顔を一時間見ても、立ち上がれない。
ブルーマンデー休暇があっても、その次はブルーチューズデーと金曜まで続くことだろう。
世の勤め人の皆様の勤勉さに頭があがりません。

そんなブルーに拍車をかけるのが。
病院敷地内全面禁煙敢行、本日ついにスタートである。
魔のバレンタインデーである。

告知がなされたのは、二月頭であった。
庶務課のおじさんが、しょぼんとしながら、呟いた。
「ここで、みんなと話をするのが、楽しかったんだよねえ」

去年、下北でデートしたとき。
Sちゃんは、非喫煙者にもかかわらず、煙草文化にいたく感心を示していた。
いわく、見知らぬ者同士であって、ライターの気さくな貸し借りから
とりとめもなく、かつ有益で濃厚な会話が生れているはずだと。
興味津々で煙草の種類の選び方や、ライターの点火方法を尋ねてくれて、
僕はたいそう嬉しくなったのであった。

そう。
僕みたいな人見知りの激しい子であっても、どんなに沢山の出会いがあっただろう。
どんなに面白い情報を得、はたまた人間観察を積めただろう。

ラボの一階にある透析センターにやってくる、せかせか足の腎内科のドクター。
ヘビースモーカーなので、センターの往復に慌しく先っぽに火を点し、
スッパスッパと音を立てて、駈けて行く。
その先生が、大磯から通っていて、息子は何歳で、どこどこの高校受験を控えていて
なんて個人情報を知っているくせに、僕はその先生の名前を知らないのだ。
先生は、本日、物凄く怪しくも落着かない視線をそこらじゅうに飛ばし、
ついに、保育園のある建物の裏側や、掃除業者さんの使うトイレに隠れ込んだ。
そうだ、あれだけ補給していたニコチンをすぐに絶てるわけはない。

そして僕も、三時には遂にニコチン低下で、頭痛に見舞われる。
どんな感じなの、切れると?
喉が渇く感じ?
いや、いや、マックロクロスケみたいな、エヘンムシみたいな奴が頭と肺の上で
だんだん増えてきて、イライラが増すんだよ。
なんか、ipod持ってるのに、イヤホンがねえんだよ!みたいな感じ
と伝えてみるが、的を得ていない感じがする。

遂に、外に出る。
一番近いところは、コンビニの灰皿、その次はホームセンターの灰皿、
お金を払えば、豚カツ屋か、和風ファミレスの灰皿も。
周りを見回す、点滴引いたおばあちゃんが、体はバス停に向っているが、
思いっきり敷地の端石に腰かけて吸っている姿に、苦笑。

コンビニに着く。
先客あり。
やつれた感じの主婦?
一服つけて、ふっと噴出すと、声を掛けられた。

「もしかして、病院で吸えないから、ここにきました?」
「ははは、正解です。困りますよねー」
「ほんと、子供が入院してるんですけど、もう我慢できなくて。二十四時間看護なんです」
「ええ!大変ですね、泊まりじゃないと駄目なんですか。おうちのことできないでしょ」
「もう上のお姉ちゃんが淋しがって。でも仕方ないから。ここ看護婦さんに訊いて来たんです」
「ああ、ここが一番近いです。私は、、職員なんですけど、白衣脱いで来ました(笑)」
「あ、やっぱり!その靴が普通じゃないと思ってました」
(僕はナースサンダル穿いてます)
「いやーばれちゃいますね。まあ、看護婦さんとか簡単に制服脱げなくてたいへんなんですよー」

と、こんな風に。
日常では絶対喋ることのない人と、急に盛り上がる。
一瞬にして、お子さんの病名まで教えてもらう。

容疑者が、刑事に煙草をねだるでしょ。
ねだるなら、あげた方がいいです、ついでに刑事も吸いましょう。
心安くなって、ぺらぺら喋るかもしれません。
自分の名前以外は。

これが、麗しきかな煙草文化でありんす。

mouth piece

一体人は、如何にして己を、この重い重い己を脱いでいくのだろうか。

本当に他者の存在を無視して、真の個人主義を貫けるものは、
こうした比較に基く疑問など、抱くことはない。
考え続け、夢を見、考え続け、また。
同じでなくていいはずの己を擁護し、
同じでない、同じでいられない、脱いでしまった、脱いだことを忘れた
数多を呪い続ける。

そして呪詛返しにあう。

真夜中に眼を覚まし、奥歯を噛み込んでいる、その力の強さは
そのまま本当の何も知らない、無垢の眠りに奪われても、
朝が来ると、力の欠片だけが、枕元に落ちている。

***

ちっとも。
ちっとも変らない、あの頃と同じ。
横にいた彼女の冷たくもなく暖かくもない視線、無感動の声、震えることのない足や手の先たち。
あの日の敗北は、現在の敗北であって。
もはや彼女は、別の人になってしまったけれども。
もし闘っているのだとすれば、もし近づこうと手を伸ばしているのだとすれば、
おそらくあの頃の、彼女から受けた眩暈を、今も探しているのだろうと思う。

彼女は、精確に決められた歩幅で、決められた速度で歩いてゆく。
その遥か後方で、壊れた踏切板の上を、前にいっかな飛ばないバネの上を、
愚かしく、阿呆のように飛んでいる。
けれども、もしかしたら、傍観者ではなく。
マンの描く主人公達、語り部のような傍観者ではなく、
ほんの一瞬でも、高みから、何か別のものを見つけることができるのならば、
永遠に此処で、上昇と下降と、下降に伴う手痛い打撲を繰り返していても、
いいのかもしれない。

 私は、この講演からアドリアンと共に帰途についたときのことを、まるで昨日のことのようにはっきりとおぼえている。私たちは大してお喋りをし合ったわけではないが、なかなか別れる気になれなかった。そして私が彼の叔父の家までついてゆくと、彼は私を薬局まで送ってくれ、またもや私がバロヒアル街まで一緒に行く、という工合だった。ともかくそんなことを何度も何度もやった。私たち二人は、このバイセルという片田舎の独裁者の滑稽な精力を嗤った。そして二人とも一致して、彼の音楽改革はテレンツ近傍の《理性をもって愚かな行動をする》という諺を大いに思い出させられる、と言った。だが、こういう妙ちきりんな話にアドリアンが見せた態度は、私の態度とはひどくちがっていたから、私は間もなく、対象そのものよりも余計にその方に興味を持つようになった。つまり、私とは違って彼は、嘲りながらも価値をみとめるだけの自由は残しておこうとしたのである。――嘲笑や哄笑のほかに、好意ある承認や条件つきの賛成、半ば讃嘆などの可能性をも含む距離を保持する特権とまでは言わないまでも、そうする権利を残そうとしたのである。一般的に言って、このようにアイロニカルに距離をおきたい、たしかに事の名誉よりも自由な人格の名誉を問題にする客観性を持ちたいという要求は、私にはいつも並々ならぬ自負と見えた。当時のアドリアンのように年が若いと、こういう態度は何か人を不安がらせる不遜なものと見え、あの男の魂は救われるだろうかと気がかりになるらしいと言ってよかろうと思う。もちろんこういう態度は、精神構造の単純な者にはきわめて印象が強くもある。そして私は彼を愛していたが故に、彼の自負をも共に愛した。――おそらく私は、その自負ゆえに彼を愛していたのかもしれない。いや、きっとそうなのだ。だからこそあの不遜が、私が一生彼に対して心に抱いていた、おそれをまじえた愛情の主要な動機だったのである。

「ファウスト博士 1」97-98p

魔の山と黒死館

閑散期なのでハイエナのように空きチップ箱を探す日々。
チップとは、マイクロピペットにつけるカラフルな使い捨てプラスチック製の先端部のこと。
単純仕事が好きなので、ピンセットで穴にチップを並べるようなチマチマしたことがお気に入りなのだ。

そんな僕にImage Jという画像解析ソフトを投げてきた
(まあ、使い方勉強して、やり方教えてという)乙女ちゃんが、
発掘したという男脳女脳診断本をついでに投げてきて、やれという。
錯視や習慣を読み取る心理試験のようなものであったが、その結果に愕然とされる。
まあ、恐らく男脳になるとは予測されたが、異常に男寄りであったらしい。

いいわさ、僕、自称オッサンですから。
電車の中で、眼にして楽しいのは、可愛い女の子だけですから。
解析ソフト弄るのだって、面倒なマニュアルみるのだって、楽しいもん。
久々に積分で遊びました。

***

さて、昨日ちらりと書いた「魔の山」と「黒死館」問題。
ここに浮上してきた共通項をちゃんと整理したいのだけど、できるかな。

確かに「魔の山」は1924年、「黒死館」は1934年に書かれたものであり、
虫ちゃんに何らかの影響を及ぼしたのではないかと、無理に考えることもできるが。
ドイツ語ができない僕が「魔の山」の翻訳を読み進めながら感じるのは、
生半可なドイツ語力では(虫ちゃんの程度)では、
このまさしく「放縦」な観念の渦たる小説を、原著を読み解くのは無理だったろうということ。

ちなみに、僕が読んだ改訳版岩波文庫の後書きには、旧訳は昭和14-16年に出たとあり、
おそらく三笠書房版、熊岡初弥・竹田敏行訳を指しているのだろうけど、
これが本邦初訳だったのかな?

さて、こうした直接的な関係よりも、僕がいいたいのは。
「魔の山」は、もし虫太郎にトーマス・マンのような筆力やあらゆるジャンルにおける確固たる造詣があったのなら、本当はこういう形に書きたかったのであろうという、理想の結晶であるという意味での共通性なのだ。

では、共通性を眺めてみたいのだけど。
個々の項目を掘り下げるのは、相当長くなるので、両者を未読の方には申し訳ないけど。
某M先生必殺技・箇条書き攻撃で、一度お茶を濁そう。

1.閉鎖された空間・社会との断絶
優雅で贅沢な楽園でありながら、身体的精神的地形的に足抜けの難しいサナトリウム
⇔算哲とディグスビイの呪詛で囲繞され、地勢的構造的精神的に閉鎖された洋館

2.参入する雄弁すぎる登場人物
セテンブリーニ(フリーメーソン会員)&ナフタ(イエズス会系テロル至上主義者)
⇔法水&支倉&(久我慎子、田郷真斎)

3.2をぶち壊す哲学不要の登場人物
サーシャ夫人の愛人・ペーペルコルン⇔熊城

4.孤独の追求・逃避の追求

5.小説から飛躍する知識の洪水
哲学/宗教/神秘主義/毒薬/往時の最新科学/オカルティズム/音楽/医学

5に関して簡単に述べると。
虫太郎は、主に語彙のみを文献から丸写して装飾に用い、
附随するエピソードはフィクションで補っていた箇所が多分にあるが、
(よって語彙は発見できても、エピは発見しがたいため、
「ない」も「ある」も証明が困難になるんだよねー)
マンにおいては同じ語彙を用いるにしても、背景を精確に史実/事実に基いて補足し、
加えて一見浮き上がりそうな内容を咀嚼し違和感無く(まあ、ここは少し問題あるけど)
小説の中に組み込ませている。

この異様なオタクぶりは、時に数十頁に及んで、読者の顎をはずさせるのだけれど。
悲しいかな、スケールが全くちがうのだよ、虫ちゃん。

ま、もう少しちゃんと整理して書こう。

孤独の秘密

「魔の山」がいかに面白かったか、それを語るにはまだ熟成がたりないかもしれないし。
あるいは忘れないうちに早く早くと急かされる気持ちも募る。
途中からこの心地よい社会と断絶したユートピア熱は、読んでいる僕にも明らかに伝播し
永遠に、三十巻でも百巻でも続いて欲しいという願いに変っていった。

連日「『魔の山』すごい展開だよー!」とか。
「『魔の山』は二千倍『黒死館』だ!」とか。
「トーマス・マンは最高のオタクだ!」とか。
その意味するところを説明するには何文字もかかりそうな話を、延々吠えまくる僕に、
素氏が小宮山ガレージセールから次の里標、『ファウスト博士』三巻組を買ってきてくれました!

そして、分っていたけど投げ出されちゃったんだ、僕もハンスもな、と悲しい涙を拭いつつ。
早速『ファウスト博士』を読み始める。

嗚呼、関さん(親子?)の訳の素晴らしさもあるのだろうけど。
(常々翻訳にケチをつけまくる僕にしては珍しい)
マンの文章の美しさは天下逸品!
そして電車の中や、一人ぼっちの昼休みに、数行読んでは血管に漂白剤を流し込まれたような
清らかな、同時に唯我独尊の気分に晴々とし、胸をはりつつ呆然とする。

「他人の99.9%が大嫌い」とか
「人に心があると実感できない、本の中にだけ心の真実がある」とか吐露する僕の信条を
ますます加速させるのは一見問題ではあるかもしれないが、心強い味方であるのはたしかだ。
別にマンはこんな気持ちを代弁しているわけでもないのだろうけど。
結局、どうしても「人と人とのつながりが一番」という文言が何歳になっても分りそうにない。

だって、深い心は(きっとこの心という言葉の意味するところだって人それぞれ違うのだ)
向かいに坐ってスマートフォンを撫でている人、
ビューラーでない睫毛を瞼ごと掴んでいる人、
口からでるものがペラペラの人の表皮のどこに、
どうやって見つければいいというのだろう。

自分勝手だとか、子供だとか別に呼ばれたって構いはしない。
この空疎な。
空疎とは、空気が薄いと読んでもいい世界で。
毎日絶望の足ばかり引きずってはいても、ただ本の中にだけ、
遠い過去の遠い国の人の言葉のなかにだけ
僕が探している、綺麗なものが待っている。

綺麗なもの、それは、孤独だ。
孤独の匂い、孤独の真実、孤独のみる慎ましい夢。
僕はノッケから、愛しさで一杯になる。

即ち読者は――いや、未来の読者と言った方がよいであろう、なぜなら、この著作が何かの奇蹟で、不安につつまれているわれわれの城砦ヨーロッパをあとにして、海の彼方の人々にわれわれの孤独の秘密の息吹きなりとも伝えることができれば話はまた別であるが、今のところ、陽の目を見るだろう見込みは全然ないからである―そこでもう一度はじめに帰ることを許されるならば、読者は、著者が誰で何者であるかについてついでに知りたいと望まれるであろうと思えばこそ、私はこの書の前おきとして私個人に関する覚え書を少々添えるのである。

『ファウスト博士 1』 関泰祐・関楠生訳 岩波現代叢書 1952 1p
(旧字は新字に改めて引用) 



引用は続くけれど。
もはや説明不要の輝きに充ちてゆく。
働くこと、社会に触れねばならぬこと、恐怖のなかでも、ギリギリ爪一枚で残っているのは
時折こんな自然の一端が心を慰めてくれるからかもしれない。

 さよう、父親のレーヴェルキューンは思弁家、沈思家であった。そして、すでに述べたことであるが、彼の探求的傾向――本来夢想的瞑想でしかないものを探求と言えるならの話であるが――は常に一定の方向、つまり神秘的な方向、あるいは、自然のあとを追う人間の考えが殆んど必然的に向わせられるように思われる、予感に充ちた半神秘的な方向に傾いていた。それにまた、自然を実験し現象化し、また、実験によって自然の作用を暴露することによって自然を《試みる》という大胆な企て――こういうことはみな魔法ときわめて近い、いや、もう魔法の領域にふみ込んでいて、《試みる者(悪魔)》の仕事でさえあるとは、かつての時代の確信、それも尊敬すべき確信でもあったのである。私たちが時々見せてもらった目に見える音楽の実験を、ヨナタンの話では百数年前に工夫したというウィテンベルクの男が、その当時どんな眼でみられていたか私は知りたいと思う。アドリアンの父が使っていたわずかな物理学の器械の一つに、真中にある軸で安定しているだけで自由に動かせる円いガラス盤があった。奇蹟はここで演じられるのである。この盤には細かい砂が撒きちらしてあった。彼は古いチェロの弓をとって、盤のへりを上から下へこすって盤を振動させる。動いた砂は位置を変えて並び、おそろしく精密な多様な図形やアラベスク模様になる。明確と秘密、合法と不思議なものとを頗る魅力的に兼ねそなえているこの視覚音響学は、われわれ子供たちにひどく気に入った。われわれはそれをやってみせてくれと何度も彼に頼んだものだが、それもしまいには実験者を喜ばすためのみではなかった。
 これと同じような喜びを彼は氷の花にも寄せていて、冬になってブーヘル屋敷の農家風の小さな窓が結晶した水滴におおわれると、肉眼でみたり拡大鏡を使ったりして、三十分ものあいだ一心にその構造を調べていた。もしその産物が、それにふさわしくシンメトリックな比喩的なかたち、厳密に数学的で規則正しいかたちをしていたのだったら、一切は事無く終り、そんなものは顧みないで済んでしまったことだろうと私は言いたい。ところが、そいつは一種人をまどわすほど思い切って植物に似ており、牛の尾、草、受け形の花と星形の花とをこの上もなく美しく摸していて、氷の素材を使って有機体状をなしていたので、それがヨナタンの頭にひっかかって、彼はひっきりなく、或る程度否認するように、しかしまた讃嘆をこめて首をふるのだった。彼の疑問はこうだった。この不思議な模様は植物のかたちを予示しているのだろうか、それとも模写しているのだろうかと。そのどちらでもないと彼は自らに答えた。――それは並行して生成したものなのだ。創造を夢みる自然は、そことこことで同じものを夢みたのである。たとい模倣が問題となるにしても、相互間の模倣ということになるだけであろう。平地の実験的な産物を、それが有機的な深い現実性を持っているからとて、予表として挙げられるものだろうか。氷の花は単なる現象にすぎないのではないか。しかし氷の花の出現は、植物の場合と同じように、諸種の素材が複雑に競合した結果であった。この家の主人に対する私の理解に誤りがなければ、彼がやっていた仕事は、生命ある自然と所謂生命なき自然との統一であった。彼の考えによると、われわれがこの二つの領域のあいだに余りに鋭く一線を画すと両者の統一を犯すことになる、この統一は現実にはっきり見えているのだし、生物にのみ保留されていて生物学者が生命のないものを例にとっても研究し得ないような自然力というものは元来存在しないのだ、というのである。

23-24p


歯医者に行きたくなくなる映画べすと1

ホントは土曜も行きたかったけど、体力低下で引きこもってしまったため
日曜一本だけ行きました、神保町シアター。
現在「文豪と女優とエロスの風景」特集です!

爺様率・オッサン率高し。
でも綺麗な映画館ですよ。
僕もオッサンなので、いそいそと地下に吸い込まれます。
ここは地下の映画館で、スクリーンを見下ろす形式、頸が途中からグギグギになるのが難点かも。

観たのは、谷崎原作の「白日夢」。
歯医者さんで麻酔打たれて(昭和30年代は、腕に麻酔を打って抜歯だった模様)抜歯の恐怖で昏倒しちゃった青年の白日夢もの。
隣のシートで治療を受けていた女性に突如思いを寄せ、彼女が歯科医の情人になってしまうのを阻止しようと、もがくという設定を基点にしてエロチック映像が押し寄せる。

最初に歯科医院の模様が、かなりエグミをもって描かれて、怖いのなんの。
キュイーーンというあの削る音が、ゴゴゴゴと排唾管がなる音が、ベベンという三味線(琴?)の音と交じり合って、全編に流れているという。
窩洞形成も印象採得も、ついでに水が噴射されるだけでも、かなり怖い。
あー、歯医者さんに行きたくない!ベスト1に輝く映画です。

そして全編を覆うエロスが、微妙に中途半端であると。
むしろイメージとしてのエロス(歯科医の指が歯肉や唇を撫で回すとか、白い液体がどろどろと流れるとか)の方が、実質的なSMもどき(旅館の鴨居に縄で吊られるとか、意味不明の電線二の腕マキマキビリビリ実験とか)よりもまだ萌えます。

あと、個人的に最も文句が言いたいのが、路加奈子という女優さんの顔や肉体。
僕の印象は、往年のSMスナイパーとかのグラビアに出てきた、
素人に毛が生えたような、化粧とパーマが度ぎつくて、肌がざらざらで、
縛られてるのが、ちっとも気持ちよさそうじゃない、あのお姉さんたち。
映画最初に流れる、谷崎の推薦文では、綺麗でイメージぴったりとあったけど。
たしかに、上品な水商売風と云う意味ではあってるのかもしれないけど。
全くそそられない部分が多分にあると。

MichiKanako-dsc-ep-abekobechiguhagu.jpg


歌は上手だけど(レコード結構出てます)、無意味な喘ぎ声を歌に挟むのは、、、、。
恍惚の白眼を剥いた表情が、エロチックというより、ホラー。
アンサンブルなんか着て正面からみるとさほど変ではないのに、
動くと首筋のラインがむむむ、貧乳・下半身ムチムチなので裸体がむむむ。
ついでに気だるいとか、為すがままというよりも、流されっぱなしの演技。
喘ぐならもっと喘ぐ!
おびえるならもっとおびえる!
本気出して欲しいのです。
特に、上りのエスカレータを全裸で駆け下りようとしては、あがっていくシーン。
何回、あがったら気がすむねん!

まあ、なんだかんだと文句を並べるも。
僕はとてもこの映画好きです。
スクリーンで見る事ができて、とても満足でした。
恐らく公開当時は散々に言われたであろうけれども。
これを日本のシュルレアリスム映画としてみれば、素晴らしいものだと思います。

夢に不条理はつきもので、その不統一な断片を難解になる直前で繋いでいく。
例えば、女は一面では焦がれる主人公に惹かれ、現況から逃げ出したがっているかにみえ
一面では、最後に呼ばれるように売女である一面をみせる。
同じ事象を別の視座で何度も撮り、
夢の中の巻き戻りきらない繰り返しのテープのような錯覚を吾々に与えてくれる。
あるいは
寝返りを打つたびに、瞼をとじるたびに、状況に少しずつ生れる変化を忠実に辿る感覚。

好感がもてるのは。
先ほどエスカレータと書きましたが、後半に現れる真夜中の百貨店のシーン。
僕はよく、子供の頃、絶対買ってもらえないベッドというものが憧れで、
真夜中忍び込んでは、大きなスプリングの上で転がる夢を良く見ていました。
(いまだにベッドって一度も買ったことなし)
野放図な展開とはいえ、奇しくも潜んだ肉体とマネキンの肌が合致してしまう空間
というのは、特にあの時代の人たちの「夢」を喚起するのもであっただろうと想像できます。
また45年前の銀座千疋屋(一階はフツーの果物屋さんにみえる)や林のような日比谷公園の画が
とてもいいのです。

最後の無関心の波打ち際で、
血まみれのナイフを握り締めた青年の、殺したんだ殺したんです!と叫声響く銀座の光景。
あんなに湿度の高い夢のなかで、ここだけがカサカサに乾いていました。

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(2007/12/21)
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Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
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