2010-01

眼鏡文人の強い味方

いろいろ昭和初期の文壇(漱石の門下生とか露文学者とか)調べているうちに
こんなサイトに行き当たりました!
題して「丸メガネ研究会」の丸メガネ人物史

うわーー、これって眼鏡文人リストみたいなものじゃないですか!
本を作るには困りませんが。
実際には、困ります。
目移りするー、中身ができていないー。

し・か・し!
我らが眼鏡文人の虫ちゃんが、リストに載っていないとは、どういうことでしょうか?
あんなハンサムさんを忘れては、いけませんよ!
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巣食うもの

中途な日記のつながりになって、歯がゆいのだけど。
明晩から任務や休日出勤が続くので、頭の整理のために、メモを残しておきます。

「二つの庭」には、多数の実在の人物と繋がる登場人物が出ます。
それらを推し量ることは、いわばゴシップ記事の重箱の隅を突く行為であり、
まさしく人の心に巣食う醜さを見抜くエピソードが、芥川自死後の伸子の周囲でも翩々と綴られているので
余計にメモを残すこと自体、気が引けるのです。
森茉莉もまた、同様に変名を用いて実在の人物を描いたエッセイを書いていますが、
彼女の場合、山田 珠樹の周囲にいた仏文学者(辰野隆など)への呪詛や、
室生犀星への親愛など、毒たっぷりながらもユーモラスに描いているので、
同じ変名といえども、一種クイズのように安易に誰なのか探していいような気がしたのですけど。
宮本百合子の場合、それがなかなか許されない気がしてしまうのは、僕だけでしょうか。

でも、メモということで。
自信がないのは、?マークつけています。
まだ読了していないので(苦笑)、追加ありということで。

佐々 伸子 : 宮本(中條) 百合子
佐々 泰造(父) : 中條 精一郎
佐々 多計代(母) : 中條 葭江
佃 (前夫) : 荒木 茂
佐々 和一郎(弟) :
佐々 保(弟) : 中條 英男
佐々 つや子(妹) : 中條 寿江子
越智 (家庭教師) :

吉見 素子 : 湯浅 芳子
竹村 英三 :
楢崎 佐保子 : 野上 彌生子
相川 良之介 : 芥川 龍之介
小坂 村夫 : 小林 秀雄?
早川 閑次郎 : 吉川 幸次郎 
松江 喬吉 : 吉江 喬松
小川 豊助 : 山内 封介
佐内 満 : 小山内 薫
秋山 宇一 : 秋田 雨雀
瀬川 誠夫 : 米川 正夫
尾田    : 尾瀬 敬止
登坂    : 昇 曙夢
久池 浩 : 菊池 寛
久留 雅夫 : 久米 正雄
武島 裕吉 : 有島 武郎
稲田 信一 :
遠藤 絢子 : 小森 和子?
浅原 蕗子 :
大島 のり子 : 円地 文子?
豊田 淳 : 小山内 薫?
沼辺 耕三 :
北条 一雄 : 北 一輝
篠原 蔵人 : 蔵原 惟人
河野 ウメ子 : 網野 菊
須田 猶吉 : 志賀 直哉
木下 徹 : 山本 実彦
村田 寿子 : 田村 俊子
藤堂 駿平 : 後藤 新平
砂場 嘉訓 : 石橋 和訓

ヒント
Q竹村英三:湯浅 芳子と早稲田時代の上級生、露文学者、駒沢で温室付家屋に独り住まい、離婚してほどない、花卉栽培を副業でおこなう。候補:横田 瑞穂、中山省三郎、宮坂好安(谷耕平)、上田進(尾崎義一)?

Q早川 閑次郎:評論家、1925or26年の「中国の夕べ」(中国人留学生を囲んだ茶話会)で女性蔑視の講演を行い、留学生から顰蹙を買う、芥川の自殺について、死の翌日、社会的文学的にも意味のある死ではないと発表。

Q松江 喬吉:仏文学者、小牧近江のバルビュス「クラルテ」翻訳出版記念会で、翻訳は女性向きのものだから、百合子にも是非やってもらいたいとスピーチ。

Q登坂:露文学者、小山内薫など四名が国賓扱いで招待されたロシア革命十周年のソ連の記念祭に招待されなかった、最も招待されるべき露文の功労者
 
Q砂場 嘉訓:山陰出身、元日本画家志望、英国に約20年留学、ロイヤルアカデミー会員、洋画家、帰国後上流階級専門の肖像画家となる。

Q豊田 淳:漱石門下、日本古典、演劇に精通。野上弥生子と親交が深い。

Q大島 のり子:父は大学教授、哲学科に在籍し卒業真近、豊田淳(仮名)の聴講生となり、不倫関係?豊田の子を宿す。

Q藤堂 駿平:政治家、男爵、鼻眼鏡、黒リボン、くさび形の顎髯。カラハン来日時の日本代表、百合子たちのソ連行きのビザ発行の後ろ盾となる。父精一郎の友人。麻布の天文台側の洋館に住む。

1/30 素氏より指摘を受け修正・追加。
2/2 4名判明追加

俄然として

肩こりがひどすぎて、肩胛骨割れそうなので、パンダマッサージを頼んでいます。
このマッサージ店、最近れーぬ・ぺどーく亭という鳥料理レストランを営んでいるそうですよ。
と、コアなアナトール・フランスファンにしか分らぬ話をしてみる。

小学生の頃。
何しろ発育がよいお子様で、背が高くてですね。
同級生と話すとき、身を屈めて視線を合わせていたら、自然と猫背になりまして。
担任の先生に、長い物差しを背中に突っ込まれて、よく怒られました。
でも、いまでも猫背さんなので、肩こり治そうと胸を張って、パンチで空を切ってみる。
同人女をなめるなよ!と佳く叫びながら重いものを持ち上げるので
(ええ、撤収後の宅配業者への段ボール運びはいつも壮絶)
腕力は結構あるはずなんですが。
よく考えたら、生まれてこの方、誰にもグーパンチしたことない。
だから、空を切っても、すっかすかで、力の入れ方がわからないまま、とりあえず血行だけはよくなり。
少し肩の張りがほぐれてきている、、、気がする。

***

前回の日記で。
感想書きやすいと書いた三作品ですが。
少なくとも、「二つの庭」は、、、、つまらないのではない、と訂正しておこう。
これだから、読了前に感想を書くと碌なlことがない。

いやーーー、俄然!!
面白くなってきました。
勿論、ひたすら息苦しいのは変わりありませんが、昼休みも通勤中も没頭しています。

ただ何が面白いのか、伝えるのは非常に難しい。
なので、もう少し頭を整理したいのだけど。
伸子が、あらゆる場面で感じる、不快感/違和感を折り重ねて作られた私小説なので。
加えて、その灰色の感覚をさらに深めるために提示される思い出/エピソードが、一度は伸子の記憶から引き出され、さらには僕の記憶と呼応するので、、、三重苦・四重苦と降り積もっていく。
他人の顔色をうかがうのではない。
他人の心持ちを分析してしまうがゆえに、そこに他人すら気づかず示している行動の原理を見つけてしまうがゆえ。
伸子は結果として、人見知りになり、寡黙になり、もやもやとした不快感でいたたまれなくなる。

本当のところどうなのかは、自己分析できないけれど。
いままでかほどに同調した語り部というのに、出会ったことがないために、僕自身はひどく困惑しているのです。
内面世界をつきつめて、分析を行う数多の作家さんの中にも、勿論共感できる瞬間はあるけれど。
伸子は、合いすぎて怖いくらいだ。
時代が、昭和10年代だと云われても、生い立ちがひどく違っていても。
立ち止まらされ、口を噤んで佇むしかない、いたたまれなさが、こんなにも合うなんて。

なので、僕は追撃してくる、己自身の記憶の不快感を、
ここに衒いなく、歪みなく、書きつづるには少々時間が必要だと感じてしまうのでありました。

つまらないほどに

先週末の宇都宮行きの日記を書こうと思っていたのだけど。
機を逸しているうちに、素氏の風邪の気分だけもらって、週末ぐったり眠りまくっていました。
爆眠につぐ、爆眠。
眠りは浅いから、変な夢ばかり見る。

年末から一ヶ月、数冊本を読了したけど、面白い本の感想はまたも後回しにしよう。
何しろ、文句垂れの僕は、つまらなかった本の方が、書きやすいから。

まずは昨日買ったこれ。

二つの庭 (1949年) (新潮文庫)二つの庭 (1949年) (新潮文庫)
(1949)
宮本 百合子

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そうか、もう宮本百合子はとっくに絶版か。。。
いや、これは文句をいいたいわけじゃないんです。
僕が左なのは、好きな作家が多く左傾だからなのか、あるいは右でも左でも傾いていないことを忌む性質なのか。
高校生の頃、左右の区別もつかない頃、数年間完全に百合的に好きだった女の子が左だったからか。
(いまでも、right/leftがどっちが左右か、数十秒考えないと分からんのは、おいといて)
イデオロギー以前に、抑圧と熱気に今も無責任な憧れを抱いているからだろうと思う。

「二つの庭」は「伸子」の続編で。
どちらも彼女が戦後になってようやく作品を大衆に向かって書くことができるようになった自伝的小説。
前夫と別れて、露文学者の女史と同居しはじめたところから描かれています。
顕治さんは、まだ登場していません。

でも、この作品は、僕にはプロレタリア文学か否かということはほとんど関係なく。
ひたすらに息苦しいのですね。
経験による同調と、想像による同調の並奏で息ができない。
分かり合えない母娘の関係とか、家とか。
あるいは他人との距離の測りがたさとか。
辛くて辛くて、ますますウツに磨きをかけられるワックスのような役目をもつのだけど、
それでも読み進めてしまうのは、やはり「現在」の小説では決して味わえない細やかさがあることでしょうか。
同調/共感にも色々あって、孤独とか哀しみは説明しやすいし、薦めることもしやすいけど。
今回の場合は、もっと自虐的で。
敢えてとうに癒えた古傷の埋まった背中を差し出し、鞭打たせ、膿を噴出させ、
痛みよりもその饐えた匂いに、いやだいやだと、頸を振っている感覚?

いや、何が面白いんだと言われたら元も子もないけど。
使われる鞭の茨が、あんまり細い30Gの針みたいなんだもの、ほとんど癖になりそうな息苦しさです。
世の中、みんなお手軽に泣ける話とか、好んで読んでいるのかもしれないけど。
こういう、泣けない話の方が、いいんじゃないのかなあ。
伸子の弟の部屋に掲げられた、meditationっていう戒律の方が、ずっと心に響くんじゃないかなあ。
自分の家庭教師が、日に日に家庭を侵食し、母親と精神的に不倫関係にあり、母親はその恋愛を仮想として公に家族に表明している。。。って。
先に階段をのぼっても、いっかな、おかしくないのです。

***

逍遥10号で、英国のドイル以前の探偵小説前哨戦、あるいは長編を楽しむ素地として
ディケンズやコリンズを素氏は取り上げていた。
その流れから、なんとなく手に取ったのが、これ。
ちなみに僕は、「月長石」も「二都物語」も読んでません。

文豪ディケンズと倒錯の館 (新潮文庫)文豪ディケンズと倒錯の館 (新潮文庫)
(2001/10)
ウィリアム・J. パーマー

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素氏はオモロイと云ったけど、これかなーーり、こっぱずかしい小説です。
一瞬ミステリーかと思わせますが、とっくの昔に犯人は分かっていて、ひねりも何にもない冒険活劇です。

で、作者はどうやらディケンズ研究者、つまりはアカデミック畑の申し子。
ええ、ですから、コリンズ視点で刑事と一緒になって社会の闇を暴かんと、猛然と興味の鼻を全開に跳び回るディケンズのあれこれを一生懸命描写しています。
世紀の文豪として名を馳せたディケンズの関わる劇場の模様など、非常に微にいって丁寧に描かれています。
そう、パーマー先生は、自分の範囲で頑張っておけば、こんな恥ずかしいことにならなかったはずなんです。

何が、恥ずかしいか。
まず、ディケンズは娘を病で失い、その後本作のヒロインの少女と出会い、恋に落ちるのですが。
ディケンズの乙女チックぶりは極まっていて、結局無垢の少女は全く無垢でも処女でもなかったのに、
ひたすらに聖なる女性として、崇め続けているところ。
あるいは、コリンズがある事件で出会った娼婦と恋に落ちるのだけど、その無駄に長い堕落の描写。
極めつけは、このタイトルに出てくる「倒錯の館」

パーマー先生は。
お父さんの書斎に入ったら、引き出しの中にSM写真を見てどきどきした。。。
くらいまでいっていたら、まだ許されたのだけど。
おそらく、それ以下の、純情な、純朴な、、、今時探せないくらいの。
ニキビいっぱいの中学生が川原で犬の散歩をさせていたら、一度雨に濡れてくしゅくしゃに歪んで乾いた
泥のついた雑誌のグラビアページで、女性のフツーの水着姿をみつけてしまい、鼻血を出してしゃがみこんだクラスなの。

「倒錯」のなんたるかなんて、ちっとも分かっていない。
彼の中では、蝋燭と鞭なんだ。嗚呼。
淫猥が本当は精神から、状況から生み出されると知らない。
彼の中では、手垢のついた三文以下の官能小説を、わざわざ衝撃的なものとして、作中作として無意味な描写として並べなければならない。
と、途中で、何度引き裂きそうになったかしれません。
ま、そんな今時珍種にも匹敵する乙女作品を渇望する方は、挑戦してみてください。

***

ゾッキ王国として思いつく出版社はどこでしょう。
B印じゃない本を探すほうが、むしろ難しい出版社はどこでしょう。
僕の中では、青弓/三一/博品・・・・、そして沖積です。

で、去年名古屋で買った「愚者の飛行船」堀切直人(沖積社)。
アマゾンの検索でも、もう出てこないわ。
いや、結構期待していたのです、このタイトル。
タイトルだけは素晴らしいですけど、初出誌に「ユリイカ」が三編も入っているのに、なぜ青土からでないのか。
読んでみるとその理由がはっきり分かりました。
今まで単行本としては読んだことがなかったけど、雑誌に載ってる評論としては、フツーに感じていましたが。

文芸評論の一手法として、一つのイメージを中央に据え置くというのは、往々ありうること。
例えば、彼は本書で岡本かの子および大正期の高等遊民たちに、「水」のイメージを与えている。
あるいは、金子光晴に「飛行船」とか。
で、イメージを表現者自身の生い立ち、作品からの引用と繋ぎ合わせるだけでなく、この人は、過剰なイメージの物語化を図るわけです。
その比喩の洪水は、筆が乗れば乗るほど過剰になっていき、読者を置き去りにして、長文化が続く。
もうついていけません、ほんと。
イメージって、個々人の中にあるものであって、それに具象を与え続けると、読者は限定された範囲のせいで逆に「水」が涸れてしまうんですってば。
イメージに付随した物語は、時に得手勝手とも思えるほど、余計なイメージを取り上げられた作家に与えてしまう。

加えて、この人、無類のバロック好き。
本文でもバロック、バロックって喧しいけど。
実際この過剰な装飾に満ち満ちたイメージの横溢は、バロックのごてごて感そのものなのです。

最終章で、「イリュージョンコミック」と題して乱歩論を展開していますが。
本来の乱歩に辿り着くまでに、まずはバロックを延々と、続いて探偵小説発生の背景を述べています。
そう、この探偵小説発生と階級の話って、逍遥10号でも素氏が苦しみながら書いていた話ですな。
別に身内褒めする気はないし、実際初稿をズタズタにした僕ですから、多くは語りませんが。
ほぼ同じ論の展開にかかわらず、この本に書かれている潮流のなんたる冗長なことか。
あんまりなので、ちょこっと引用して、終わりにします。
ながーーーーーーーい!!!
ランポはどこやねーーん!!
話を想像でつくるなーー!

素氏の癖、畳語の応酬も真っ青、メタファーもイコンもおののいて引っ込んでしまいます。
ほんと文句はいくらでも飛び出す絹山でした。
次回こそは、楽しかった本の感想を書きます。

すでに述べたとおり、バロック文化の主役クラスは上流の有閑階級によってもっぱら独り占めにされていた。だが下層階級に属する民衆もまた、傍役ながら、この文化に一枚噛んでいたことを忘れてはなるまい。貴族たちは民衆をグロテスクな怪物扱いしていた節があるけれども、それでも彼らを自分たちの主催する祝祭の観衆としてすすんで招待する一方で、香具師、綱渡り師、奇術師、人形使い、道化といった大道芸人たちの年期の入ったみごとな芸を、祭りや芝居のなかに積極的に摂りいれることにつとめた。貴族たちがあくまで主導権をにぎっていたにもせよ、そこでは上流階級と下層階級とは、互いに各々の遊戯的文化を交流させ、浸透させ合っていたのである。
ところがここに、この両者の交歓風景を、祭りの渦中には加わらず、部屋の窓越しに、苦々しい思いでじっと眺めていた連中が、彼らと別個に存在した。それは脇目もふらず一心に勤労にはげむことによって、確実に力を蓄えつつあったブルジョワ階級の人たちである。黒い質素な衣服を身にまとったこの中産階級の者たちは、バロックの祝宴を、その無目的な濫費、派手好み、遊戯三昧、アイデンティティの徹底的な解体などの理由から、蛇蝎のごとく忌み嫌い、そこに加わって浮れ騒いでいる貴族や庶民を軽蔑し、憎悪した。彼らが創造しようと苦慮している世界は、バロック文化の浮華のような美しくはあるが不安定な世界とはおよそ正反対の、地にしっかり足のついた堅固で不動の世界、確乎としたアイデンティティに裏打ちされた誠実さと廉直さとを美徳とする平穏な世界であった。嘘言、ペテン、仮装、軽佻浮薄、移り気、不意打ちの趣味、堂々たるみせびらかしなどの、子供とバロック人とが共有する演戯的性格は、ブルジョワジーにとってもっとも許すべかざる悪徳にほかならなかったのだ。
200-201p



あ、そうそう。
ただ一点面白いと感じたのは、関東大震災の衝撃について。
戦前/戦中/戦後と価値観を区切る考え方よりも、ある意味一夜にして世界が瓦解した大震災のことを
僕はいままで深く考えたことがなかったのだけど。
元々お坊ちゃまだった虫ちゃんのことを考える上で、22歳の衝撃ってどんなのだったのか、もう一回見渡しみたい部分だと思いました。

怪奇電話口で泣く女

昨晩のデートは非常に楽しく終了。
待ち合わせ場所を、新宿紀伊国屋1階雑誌売場にしていたら。。。
雑誌売場は、二階だった!
長年行っていなかったので、完全に忘れてアホ情報を流してしまった。
二階から降りようとしたら、階段途中で見上げる人あり。
偶然出会えなかったら、さぞかし、迷っていたにちがいない。

三年ぶりくらいに再会したので、J君は美少年から美少女に変身していました。
ワンピ姿が眩しい!
そしてロシア料理、おなかいっぱい満喫。
久々にパイで蓋したつぼ焼きを食べ、サーモンクレープでうまうまし、ピロシキもボルシチもジャルコエ・イズ・チャリャーチヌイも食し、最後に、三種の甘いジャムをデザート代わりにロシアンティーを頂いたと。
とはいえ、ウオッカはショットで二杯しか飲まなかったし、
何しろ僕はほぼ毎日、自宅で酒を飲みつつ晩餐しているので、酒はかなり鍛えられていますから
全く酔わないまま、可愛いお店を出ました。

その後、甘さ負けした二人は、日本茶を求めて右往左往。
ルノワールって確か最後に日本茶出たはず、なんだけど、全店そうではないようで却下。
結局、おとなしく喫茶店にはいって三時間近く粘って、しゃべり倒し。

で、話の中で、僕の実家の話がでたのですが。
普段は黒い話題で頭から削除しているわけですが、たまたま妹のことを思い出し。
彼女が数年前にマリッジブルーでひどい状態になったことを語り、なんとなく頭に残ったまま帰宅。
そしたら。
いきなり普段はめったに鳴らない自宅電話が真夜中に鳴り。
心臓バクバクする。
さらに。
受話器取ったら、、、、泣いているのです。
はじめは悪戯かと思ったけど、女の子が泣いてるから、声もほんと途切れ途切れだから。
ついつい、妹の名前を呼んでしまった。
そこから、延々10分以上、泣き声の隙間から話を聞く。

頭の端っこで、どうも声が違うような気がする。
関西弁じゃない気がする。
と感じてはいたけど、内容的に母親の話をだすところとか、非常にあってもおかしくない話で。
ついつい僕が言葉をつないで、話を進めていく。
何があったの?
で、ようやく聞き出した内容が、実家の構造からはありえない話で。
ついでに、親戚の人として登場した男性名が、まったく思い当る節なし。
そこで、彼はいったい誰なのかと、詰問し。
ついでに、ねえ、貴女、◎◎ちゃんだよねと、何度も確認をとる。。。
だんだんこちらも、こりゃおかしいと。
そして突然電話は切れました。

こ、こわいーーー。
いや、僕が最初に妹と早とちりして、どうしたのって聞いたのが悪かったけど。
「もう限界」と泣くのも、おかしくないから、ついつい古い記憶がざーと頭を駆け抜けて、いろんな最悪のシナリオが思い浮かんだ挙句の、対応だったけど。
おそらく、誰でもいいから聞いてほしい、助けてほしいひとだったのではないかと。
怖すぎました。
なんちゅうタイミングで、世の中ハプニングが起きるのだろう。

表参道方面へ

こんにちは、仕事の隙間に趣味ではなく、趣味の合間に仕事をするタヌキ、絹山です。
自宅に帰ってからの趣味仕事が多すぎます。
年明けてからはなかなかエンジンがかからず、職場で頭が宇宙をさまよいっぱなし。
とはいえ、連休明けからはみっちりになる予定。

二月、建国記念日と土日に挟まれた金曜日。
なんと職場の創立記念日で、事実上は四連休。
(でも休日出勤の可能性は、まだまだ濃厚)
休日出勤は自分でなんとかするから、その日世間の皆様が平日ならば、ちょいと旅行にいくのも悪くない。
と、一泊雪見温泉計画を立てようと、検索の嵐になりました。

昨日、青山ブックセンターに寄った(酔った)時もそうですが。
世の中情報が多すぎて、しんどくないですか。
昔からシキリ屋絹山は、旅行や宴会の幹事をやっていましたが、
ネットのない時代は、代理店で相談する、チラシをもらって検討する、旅館に電話するくらいですんだのに。
いまは、浮き上がった温泉、旅館の情報、口コミ、ツアーの有無、プランの比較、アクセス方法、、、、。
と、たとえ数軒に絞っても、そこから予約にいたるまで、へとへとになる。
シキリ屋は、できるだけ廉価で、満足度が高いものを選ぼうとする。
けど、横ちょに寝ころぶパンダは、「それでいいんじゃない」の一言。
きーきー、きりきりなるのも、性格上仕方がありませぬ。

****

昨日は。
某古書市で落札してしまった本を受け取りに、日月堂さんにうかがいました。
年明け初日営業だったせいか、店内にお客さんがいっぱい。
きさくな店主さんは、市でも我々を見つけて声をかけてくださったのですが
昨日も、他のお客さんがいて恥ずかしくなるくらいに、お喋りしてしまいました。
そもそも逍遙10号を取り出して、挙げ句買って頂いた素氏、、、赤面。
僕も久々にサーカス関連本を入手。
いつも涎はしたたるのですが、値段をみてヒャアアとなるものが多く、
散々お喋りだけしていくいけない客だったので、二人してお財布広げられて、一安心。
日月堂さんは、いわばサロンのような空間で。
店主さんもお客さんも、プカっと紫煙を浮かべていらっしゃるのも、
近年の古書店では、稀に観るほっこりとした雰囲気です。
いつか僕も、煙を浮かべたいです。

その後、渋谷方面へ散歩。
まるで僕たちを吸いこむために仕掛けられ罠のような、ABCの洋書大バーゲンの誘導印。
エントランスからエスカレータで吸いこまれ、横で大事な本が入った鞄を抱きしめた素氏をみていると。
まるで、我々だけを目当てにした怪盗紳士の鮮やかな手法で、「本当はない」バーゲンに連れ込まれて、身ぐるみ(いや持っていた本だけ)攫われそうな、そんな気分になる。
といっても、僕ら金欠人には高価だけど、そこまで仕掛けを施すほど、高価な本を抱えていたわけではない。
(が、帰宅してからの素氏の大はしゃぎは、現在進行形)

洋書って嫌いじゃないけど、背中観ても、頭の中の変換が遅く、どうしても時間がかかる。
悩んだ末、僕が選んだのは。
cameraという雑誌の1974年11月、Robert Demachyのまるごと一冊特集号。
まるで滲ませたコンテデッサンのような不思議なグラビア写真群。
つまびらかにその技法が出ていて、とっても素敵な一冊。
女の子たちの、虚ろにしずみこみそうなポートレイトが、素晴らしいのです。

予定外のABCでくたくたになった後。
中村書店に案内して貰って、帰宅。
やっぱり冬のお散歩は、気持ちいいなあ。

さ、本日は、久々にJ君とデートです。
先日の「ニッポンの教養」で撮影に使われていた、ロシア料理店に予約を入れました。
ウオッカで炎を吐きまくりたいと思います。

つれづれてれび

通販お申し込みたくさんいただいているそうで、ありがとうございます。
骨牌はマニュファクチャなので、少し増刷かけたいと思います。
五月の文フリにも、持っていけるといいなと考えています。

****

年末年始はテレビ漬け。
といいますか、あまりにも机の前に座っての作業が多く。
絵筆を握り、カッターを握り、年賀状を書き、春巻きを巻き、御節をつめ、入力作業をし、電卓を叩く。
この連続だったため、燃費の悪いラジオ状態で、テレビを聞いていました。
落語CD聴いとけばよかったと後悔しつつも、それなりに面白かったので徒然テレビ感想。

僕、マツモトヒトシのお笑いに対するストイックな挑戦姿勢が大好きだ。
お笑いの基本は話芸にあり、瞬発力にあり。
ではその真髄を極めるにはどんな番組をつくれば、若手は磨かれるのか。
後進に棘だった手を差し伸べて、一方で、自分ならこう語る、こう反応するという例をしめす。
これはあくまで「例」であって、必ずしも「お手本」というわけではない。
かっこ悪い、すべる時だってある。
つまり彼自身が王者としての座位に甘んじることなく、よきにせよあしきにせよ、「現在」や「瞬間」の自分の回答を示す。
その飽くなき挑戦を見ていると、ぞくぞくする。

僕は一発ギャグというのが、非常に苦手だけど。
一発屋が一発屋であるのは、「瞬間」にだけ許される観覧者の驚きに甘んじるからだ。
甘んじたくなければ、「瞬間」を投げ出すか、変化を加えていくしかない。
落語が同じ話を何度聞いても面白いのは、「瞬間」の驚きなどものともしない、四次元をとらえているから。

というわけで、「イッポン」「すべらない話SP」「ホテルマン24時」はたいそう面白かった。
加えて、マツモトヒトシの遺志(笑)を一番継承しているのは、チハラジュニアじゃないかと最近感じている。
若い頃は、刃物の鈍い光が奥に見え隠れして、発声がいいとは言えないしわがれた声も危なつかしくみえたけど。
負の要素が余裕に転化されて、なおかつ笑いの真髄を極めてやるぞという、別のギラギラ感が出てきたのがすごいと思う。
「イッポン」「すべらない話」の挑み方も素晴らしかったけど、「携帯大喜利」の選者ぷりがすごいのだ。
何万とやってくる投稿は勿論先にフィルタリングされているけど、最終的には彼の手腕にかかっている。
生放送、場の空気を読み、投稿者の段位をふりわけ、詠み上げる作業は、半端なくしんどいはずだ。
たとえ瞬間芸だろうとも、むしろお題に対して自分で答えを出す方が遥かに楽にちがいない。
僕的には大喜利の答えを楽しむよりも、この技や、パソコンのモニターに噛り付いているジュニアさんの眼光を求めて毎回見ている。

NHKもここ数年様々な挑戦をしていて、やはり一番すきなのはNHKといわざるをえない昨今だけど。
年明けの「新春テレビ放談」はまさに砲弾級にぶっとんだ番組だった。
民放を含めたテレビ番組を各ジャンル毎にランキングを出し(ほとんどNHK入ってないのに)、番組の流行と趨勢、未来像を読み解く。
といったらカッコいいけど、かなりぶっちゃけた制作裏話が飛び出し、制作費がない、バラエティの出演者は大量のアンケートに答えなければならない、そのアンケートを元に台本が用意され、笑いのオチまでカンペ出されるとかなんとか。
一般人もある程度は予測可能な話だけど、ここまでぶっちゃけていいのかと思われるほどだった。
ジュニアさんはむしろこの討論では、よき聞き手になっていて土石流を素手でとめる的存在だったけど、合間に流される「テレビの思い出」というコーナーでは、あのザラザラ声で、ほのぼのとした思い出話を朗読するのが面白かった。
いったんとり散らかった空間が、不思議と整理整頓され、観ている人が、安堵できる時間になっていたように思う。

なんだかお笑いの話ばかりだけど。
結構お笑い好きなんですよね。
誰でもいいわけではなく、基本的には練りこまれた中堅以上。
職人芸はどんな職種でもうっとりするので、極めている人はやはり観ていて飽きないというわけ。

で、マツモトヒトシが飽くまで笑いを追及するなら、バクモンは笑いのない世界で笑いを織り交ぜつつ自己表現することに挑戦する人たちだ。
彼らの番組で好きなのは、「検索ちゃん」と「ニッポンの教養」
後者は各分野で活躍している研究者に会いにゆき、討論を戦わせる、めちゃくちゃエキサイティングな番組だ。
普段はオオタさんが、ふっかける。
それも尋常じゃない極論でもってふっかけ、研究者が戸惑い言い淀む隙をついて、さらに畳み掛けるのが常だった。
時には失笑ではなく、激しい反発をもって対抗する先生たちもいる。
が、亀山郁夫先生の時は、まったく違った。

そもそも撮影場所が研究室ではなく、ロシア料理店だったのだ。
ウォッカを飲まされて、口から炎を吐く二人。
タナカさんにいたっては、意味が分からない飲み物と叫ぶ。
僕がカメヤマ先生をかなり好きなのは、あまりにも切ない人だということ。
これだけの仕事をなし、ドストエフスキーを通じて世界を変えたいと願い、多くの読者を得て。
けれども世界は結局変わっていない、僕はこのままこの道を進むだけでいいのか、救わなくちゃ、もっと世界を救わなくちゃ。
と、あの独特の話術、あの独特の瞳を潤ませて、懇々と訴えられると、切なくてどうしようもなくなる。

結果、オオタさんも、ウォッカで酩酊した分も差し引いても、切ない先生に押される形になったのだった。
疑問を投げかけるのはオオタさんではなかった。
「なぜ秋葉原の事件は起きたのでしょうか」
カメヤマ先生に質問されて、答えて、とても素敵だとうなずいてもらって、ほっとロシアンティーにジャムを浮かべた瞬間に、「でも」と質問がさらに加えられる。
その瞬間、観ている人は、ああオオタさんの答えは真摯で明快ではあったけれど、やはり深層は避けていたのだと気づく。
話芸の達人が逃げている、極端な喩えで分かったような気にさせた退路は、さらに狭められて、喘いでいる。
それでもオオタさんが屈しないで、未来像の話に世界を転換させたのは素晴らしかった。

最初に提議された、ラスコーリニコフが最後に汚れた地面に口づけし、大地に帰依することによって、己を選ばれた者とする考えから開放するといったことを引き合いに出し。
アメリカ文化に子供時代から浸っていた、戦後の日本の子供たちは、地球の未来にチューブハイウェイで繋がれた高層化された無機質な都市を描いたけれど。
タルコフスキーが「惑星ソラリス」で描いた荒野、一面の大地を、「今」の子供たちは未来像と描いておかしくない。
と、そんな風に、不思議と(カメヤマ先生もひどく嬉しそうに同意した)日本とロシアの深い根底のつながりを感じてしまうのだと。

ネットに浮かぶ幾万の「消えろ」という他者殲滅願望、自分は特別なのだという思い、荒野、眼前にはなくとも頭の中に広がるひたすらの荒野。
それらは全てドストエフスキーが既に書いたもので、「知って」いさえすれば同じ行為を行う陳腐さを簡単に思い知ることができるのに、僕たちは知らないまま終わらせようとする。
僕は、本を読む。
疑似体験を重ねて、時に本の世界の凄みに押されて、震えが走る。
別段露文にかかわらず、打ちのめされると、痛みは強いけれど、とても安堵する。

絶望しながら、それでも世界を変えたいと戦う人たち。
バクモンさんたち、カメヤマ先生、その他、このシリーズに出てくる多くの研究者にいつも感銘してしまう。

で。
時々素氏と話していて、この世の中には、悪しきアカデミズムの申し子がいて、小説をすべて私小説的解釈で論文にしようとする、アホな輩がいるのだと、嗤笑することしばしばだけど。
内面の発露、軛からの解放、激しいカタストロフィ。。。まあ僕も嫌いじゃないけど、その計算機、全てに使えるよと思うなよと。
先日のジュール・ヴェルヌ協会の講演会でも、奥泉光さんは、「書きたいことはないけど、小説は書きたかった」「書いて気持ちのいい小説ではなく、読んで面白い作品を書け」っていっていたように、書く=解放じゃない、方法論に突き進むヒトだって、沢山いる。

そして、同議題でよく例にあがる星新一ですが。
NHKさん、星新一のショートショートを映像化していました。
アニメも実写もあったけど、どれもシュールで可愛いんだ。
僕が幸運にもみられたのは、年明けの「ひとつの装置」「殺し屋ですのよ」「調査」の三本でした。
また観られるといいなあ。

今年の抱負

あけましておめでとうございます。
今年も時々登場するかと思いますので、よろしくお願いします。

ほんとに12月はばったばったに進んでしまって、気づけば冬コミ当日という感じでした。
逍遥10号の乱丁。。。台割ノンブル打ち担当は僕なので、責任は僕にあったのですが
十分な謝罪もできないまま年が明けてしまいました。
せっかくの記念号だったのに。。。と落ち込んでいるまもなく。
カルタだ、歌留多だ、骨牌だ。ということで。

またへぼイラストを描きまくり、サクラ水彩絵具で色付けし、
色付け最中に赤系の絵具がガチガチになっていたので、イトーヤに買いにいったらなかなか見つからず、
ようやくみつけた同じサクラ水彩は、軟膏チューブではなく、プラスチックチューブでびっくり。
素氏のイラレ技が冴え渡り、徹夜で彩色してものをスキャンしてもらって、
がふがふとインクジェットで印刷。
途中、カラーインクに黒インクを補充してしまうオオボケをかましつつ、なんとか完成しました。

CIMG0078.jpg

煙草と比べてもらうと分かりますが、結構札は小さいです。4x4.8cm
でもしっかり厚みのある光沢紙にすったので、96枚集まると、2cm超えの厚みに。
箱もついていますよー。
職場で実験手袋の箱を眺めて展開図作ってたら、怪しまれました。
とはいえ、販売用は、A5の用紙9枚にまでしかカットしていません。
さすがに、札全部切るのと、箱作るのは皆様にお願いしたいと思います。
作成前に、詠み札と絵札を比べつつ、ぷふふと笑っていただけると嬉しいです。

いろは順で作ったので、(いろはが正しく言えない絹山)「ゐ」「ゑ」「を」は四苦八苦。
「ん」の替りは「京」を使うというのも、初めて知った、おばかさんでした。

今回、虫太郎の文章の音律のよさを改めて実感できたのは、非常に面白かったです。
五七、七五調が綺麗に出ているので、台詞や語句がそのまま札にできるという。
たとえば。

し:シサムネス皮剥死刑図(かわはぎしけいのず)
せ:心像(ぜーれ)は広い 一つの国じゃないか
む:昔ツーレに 聴音筒(ラウシュレーレン) ありき
た:ダクダク講社の 棕櫚糸時計

とか、そのままに嵌りすぎて、わらえるー。

僕が作った、お気に入り札は

こ:高等遊民法水 肉衣(タイツ)を纏う こともあり
を:幼き日より 願いし心 父よ、吾も人の子(パテール・ホモ・スム)
ら:ライバル視 したはずの乱歩に 序文書いてもらい

とか、いかがでしょうか。
まあ、歌留多は三人以上必要なので、我が家でもまだ出来ないのですが、楽しんでいただければ嬉しいです。

***

と、本日からまた外へ飛び出して任務へ本業へ副業へと、あわただしくなります。
でも、黒い遊び心は、今年一年も持ち続けて頑張っていきたいと思っておりますよ。

そうそう、年末に大好きな献血をして、恒例のキティ手帳をもらいました。
12月は、高円寺と松屋銀座の古書市、念願の丸善松丸本舗へといけたので、
そして本日も年初の儀式、南砂のたなべ書店で新年サクサクツアーを決行したので
今年こそ、きっちり購入本リストを作ろうと思ってます。

あ、年賀状。
今回も黒く頑張りましたー。
ええ、詩文と絵画のミクスチュアさ、いつもながら。
呪詛的にホルスト・ヤンセンのエロチック版画と、安永蕗子さんの歌を絡ませています。
届いた方は、おめでたく呪いにかかってくださいませ。

通販は昨日から、古代時計室ではじめていますので、そちらもよろしくお願いします。

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絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
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