2008-07

ご降臨

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つ、つ、ついに!
来ました!

素氏に唆されたとはいえ、やはり手元に届いてみると、ぶるぶる震えちゃう。
絹山、生涯で一番高い古書です。
愛書家の方からすれば大したことないかも知れないけど。
ぽにょ様が目論んだスカートに匹敵します・笑。

ああ、でもこの装釘を目の当たりにしたら、
逸見君の後書き読んだら、
そして、拓次の絵を見たら(びみょーな部分もありますが)
ははーっとひれ伏さずにはいられようか。

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そう、「蛇の花嫁」がやって来たのです!
きゃー。

僕が拓次と出会ったのは、高校生の時です。
「舞ひあがる犬」を合唱部で歌ったから。
あの沼に裸体を漬け込んでいくような衝撃的な感覚を、今も忘れてはいません。

だからこそ、「ライオン歯磨八十年史」なるどでかい、きっと殆どの人にとっては無意味な社史まで買ってしまうのです。
天野祐吉さんのとんでも広告史を舐めるように眺めて、ライオン歯磨広告の中から、異国の香りを掴み取ろうと躍起になるのです。
拓次と逸見君は二人とも、ライオン歯磨で働いていました。
広告部と意匠部に所属していました。
先に逝ってしまった拓次の詩篇を集めて発行されたのが、『藍色の蟇』。
そして『蛇の花嫁』は、拓次の遺品の中から、全て清書し目次まで作っていたものを、逸見君ともう一人の友人、澤田君が発行に漕ぎ着けたものです。

昭和15年12月30日発行。
定価四円。
奥付によれば、表紙は銀揉鳥ノ子紙、本文は沙漉鳥ノ子紙。
朱と墨の鮮やかな二色刷りで、小口はフランス装をペーパーナイフで切ったような不均一さがあります。

逸見君があとがきで、

「藍色の蟇」は発表される詩集であつたのに比して、この「蛇の花嫁」は飽くまでも秘められた、しかもそれを知られることは「みづからを削られる」思ひの詩人のいのちではなかつたろうか

と重い呟きを発しています。

では、そんな拓次のまへがきを引用して、今宵は僕も溜息の海に落ちていきます。

わがおもひ盡くるなく、ひとつの影にむかひて千年の至情をいたす。
あをじろき火はもえてわが身をはこびさらむとす。
そは死の翅なるや。
この苦悶の淵にありて吾を救ふは何物にもあらず。
みづからを削る詩の技なり。
されば、わが詩はわれを永遠の彼方へ送りゆく柩車のきしりならむ。
よしさらば、われこの思ひのなかに命を絶たむ。


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ロボットを目指す者

昨夜の祈りむなしく、爆発しました。
なんとかオペは切り抜けましたが、明後日も爆発かも。
「いっそ殺して」は、原稿修羅場だけの台詞だったのに。

素氏は僕が自分を低く評価しすぎるとよく怒りますが、
期待されることほど僕にとって辛いことはありません。

なぜか立花隆の「中核VS革マル」なんかを熱心に読んでいる昨今ですが、
(パルタイとブントの意味がようやく分かったよ。
倉橋由美子大好きなのに、今更さらさら)
一向に溜まった感想が書けないのであります。


日の名残り (ハヤカワepi文庫)日の名残り (ハヤカワepi文庫)
(2001/05)
カズオ イシグロ

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もし作家が、一作ごとに作風を意図的に変えていると信じているのに、受け入れる側にとっては同じに見えてしまったとしたら。
それはとても切ないことだ。

どうしてだか、僕は一作も読まないうちから、この人とは合うのではないかと、妙な思いこみをしてしまったせいで、先に買い集めてしまっていた。
特に「私を離さないで」はジャケ買い、タイトル買いという、海外文学にとっては、ますます本人のあずかり知らぬ所以で、彼は勝手に思いこみを受け、勝手に叱られてしまっているようだ。

カズオ・イシグロは血統的には日本人である。
けれども幼少から英国に渡り、思春期から現在に至るまで彼の地で生活し帰化した人だから、ほとんど日本的なるものを持っていない。
作風は、均衡と抑制がきき計算されたものだと云われている、らしい。

先に「私を離さないで」を読んで、唸りこんでしまった。
未読の方にとってはきっとキーワードすら与えてはいけないような小説だろうけど。
起こりうる近未来的予測を、その犠牲者の側から捉えたSF、まさしくバイオサイエンス的な小説である。
けれども、ここには科学の根拠となる理論は一切描かれていない。
ただ自覚を持たない、ただひたすら運命に向かって歩いていく「子供」が思春期を迎える様、そして一次的な養護施設から巣立った後の二次的な偽自由施設、そして終末の医療機関へという、三つの階段が描かれているにすぎない。
途中途中に、あからさまなキーワードが現われる。
「提供者」「クローン」という語を聞けば、きっと貴方が想像するそのままの世界が開けている。

では、ここで「彼ら」の運命を目の当たりにして、一瞬でも悲壮感を感じるのだろうか。
答は、ノー。
小説は施設で育ち、最も苦々しく親しかった友人と、長くその彼女と恋人関係にあった彼が提供し、死を迎えるのを看取る看護人の視線で全てを描き取っている。
一人称の小説は、ミステリーではミスディレクションの技巧に一役買うことが多いけれど、ここでは、ただ「見ている」眼、「語っている」唇だけでなく、もっと大勢の人間が「阻まれている」ことに気づく。
語り手だけでなく、施設で育った運命の子供たちは、思考を制御されているのだ。

彼らは、幾たびも疑問を抱く。
提供者にならない道があるかもしれないと、噂が広がる。
それでも、彼らは、本当の意味での運命からの解放を決して知ることはない。

簡単なことなのだ。
手錠も足枷もない。
面倒な過程などすっとばして。
逃げ出せばいいのに!

細やかに描かれた心理描写。
むしろ緻密すぎて、人が何となくの違和感としてしか覚えていない幼い頃の他人との軋轢が、ここでは手を変え品を変え、現われる。
勿論、それが僕にとってとても不快だったと言えるかも知れないが。
実は、彼らが一般的な個人よりも何倍も細やかな心を持っているという状況の一方で、確実に閉鎖された思考があること、生涯閉鎖されていることに気づかないことが問題だった。
作者が閉じこめたこの枠が鮮明に浮かび上がること自体が、とてつもない不快感の原因だった。

そして、カズオ・イシグロを信じたくて。
本当の心というものを見てみたくて。
「日の名残り」を読了したのだけれど。

彼が各作品で手法も題材も変えていると、訳者(ともに土屋政雄)は語るけれど。
悲しいくらいに、僕にはそっくりに見えてしまった。
執事は、優秀なる執事は、まさしく運命の子供達と同じに、枠に閉じこめられた者である。
敢えて云うなら、子供達が教師達に植え付けられた思考回路から抜け出せなかったのに対して、執事は、自ら骨の髄まで執事あることを目指し、いつしか枠に閉じこもってしまったのだから、より悪質である。
この枠には、一向にエロスの匂いがない。
抑圧を抑圧と感じない者は、単なるロボットだ。

「日の名残り」の中で、邸宅で共に働いた女中頭のアプローチを、それが非常に奥ゆかしく人間的なものであっても、いや人間的なものであるからこそ、数々の思い出の中でも、一場面としか残らないものとして描かれているのが分かったとき。
僕はもうすっかり慄然としてしまった。
別段ロマンスなど入れる必要もないのに、まるで、彼女の涙滴を無惨に刺してしまうような描写。
どうして彼女は、あの日泣いていたのでしょうと。
思い出すだけの無関心。

見えるけれども、見ていない。
あらゆる感情があるかに見せかけて、実際は寂寥の心臓。

こんな怖ろしい技法を使って。
こんな不快感を与えて。
そこまで計算し尽くして、一体彼は何を書きたいと望んでいるのか。
かつて無機質だと感じた作家など、完全に抜き去って、カズオ・イシグロは飛び去っていく。
後ろにゾンビめいたロボットを従えて。


わたしを離さないでわたしを離さないで
(2006/04/22)
カズオ イシグロ

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雲が灼けている

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帰り道。
もくもくの雲が、ちょうど毎日お世話している細胞の表面みたいに盛り上がっていた。
そこに居場所不明の夕焼けが乱反射して、すごいのです。

明日も無事にオペが済みますように。
もりもり重層化したシートがうまく剥がれてくれますように。

そういえば、今日、なぜか高校三年生の男の子が見学に来ていました。
見学だけじゃなく、免疫染色やってた。
蛍光染色の美しさは格別だから、感動してくれるといいなあ。
僕も、細胞をフラスコから剥がす所や、血球計算盤で数えるところ見せてあげました。
いったい誰の伝手で来たのか分かりませんが、
きっと楽しい夏休みの実験タイムになったことでしょう。
しかし。
なぜか彼は英語がぺらぺらでした・笑。
多国籍軍と呼ばれるチームの中国人やエジプト人と、フツーに語り合っていて、ひーでした。
ますます謎です。
僕も10月頃、ベトナム人に英語で解説しないといけないそうです。
ひやー。


土曜日に素氏が無事脱稿しました。
今回は絹子がだめだめーずだった分、一人早め早めに頑張ってくれました。
絹子も、最後の二頁に文章載せています。
よろしかったら、夏コミで読んでやって下さい。

正木博士に捧ぐ?

チャカポコチャカポコ。
ブーン、ブーン。
チャカポコチャカポコ。
ブーン、ブーン。

とある研究室の夕暮れ時の出来事である。
普段、実は同じ年だが、冗談など滅多に吐かぬ上司が、こう問いかけた。

「ねえ、ア○バンク太郎って知ってる?」

アイバ○クはこの研究施設の総元締めの名称である。
は?と首を傾げた絹山研究員に、すかさず合いの手を入れた、こちらは日頃から少々度が過ぎる冗談人。

「週に一回、一階で太鼓を叩いてるんですよお」

ああ、例の最近閉店した浪速の宣伝マンと引っ掛けてる訳ね?
でも、ア○バンク太郎って、なんのこと?
上司の顔を見ると、どうやら真面目に云っているらしい。

「??いや、、知りませんけど」

だがその時、絹山の脳裏に、前任者の道具が置かれた棚の一角にひっそりとある、発泡スチロール製のアイスボックスがふっと過ぎったのだ。
その箱には、確か『太郎と次郎の家』と書かれていた。
結構なんでも探りたがる絹山であるが、以前の職場で『マウスの家』と書かれた段ボールに、ただケージが詰め込まれていて、なーーんだと落胆した経緯もあり。
小さいながらも、どうせ何かそういった類の道具が入っているのだろうと。
深くさぐることもなかったのである。

「▼▼君(前任者)から聞いてない?一ヶ月に一度、ホルマリン交換してたはずだけど」

ますます食い下がる上司。
ホルマリンですと?
一体、何?

「あの・・・もしかして」

と棚から恐る恐るアイスボックスを引っ張り出す。
フタを空けると。
何やら、クッション代わりのキムタオル(実験用の紙雑巾)に挟まれて、二つのボトルが。

「あ!こんなところにいたんだ。太郎と次郎」

急に古参の研究員も集まり始める。
持ち上げてみると、透明な液体の中に、親指大のものがふわふわしていた。
絹山は、その時、てっきりそれは目玉だと思ったのだ。
ここなら、そういうものがあっても、まあおかしくはないからだ。
でも、人やウサギのものにしては、ちと小さいし、何やらいびつ。。
よくよく眼を凝らすと、そこには宇宙人めいたものが横たわっていた。

「太郎はついてるから男だって分かるけど、次郎は4週だから、よく見えないねえ」

おおおおお。
かつてえげつないものを数々眼にしてきましたが、また新たなものが加わったようです。
でも、これって供養しなくてもいいんでしょうかね。

現在の黒死館的環境を鑑みれば。
正木博士よりも、降矢木博士、押鐘博士、、、。
いやいや零保久礼博士に捧げるべく、絹山、誠心誠意ホルマリン交換させて頂きます。
でも、そんなに頻繁に替えなくてもいいんだけどなあ。
まあいいか。

チャカポコチャカポコ。
ブーン、ブーン。
チャカポコチャカポコ。
ブーン、ブーン。

検索の鬼

炎天下の土日出勤。
やれ楽しや、それ楽しや。
ってなばかりに、盆踊り状態で細胞が増えてくれれば、僕のノイローゼも少しは収まるのですが。
世の中そうは問屋がおろしません。

さてさて、パソコンもタヌキもオーバーヒートになりながら、励んだのは検索の嵐。
そう、現在鋭意制作中の逍遙7号でお目見えする、虫ちゃんの詩文の謎にとりくむ、まさに「我が家でできるよミステリーツアー」でございます。

二日間で結構な成果が上がったので。
僕、自分を誉めるためにこの日記を書いてます!
きっと素氏本人が書きまくるので、詳細は避けますが。
レーナウのあれも、ホイッティアのこれも、グスタフ・ファルケのあれも、シュニッツラーのそれも。
見つかったざんす!

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写真は、黒死館で『愛蘭土星学』という詩を書いたとされるハルピンおじさん。
おじさんも、詩もちゃーんと存在した!
だから。
虫ちゃんのことを、ツクリゴトで煙に巻いた!なんて言う奴は、控えよろう!・笑。
虫ちゃんは、ちゃーーんと土台があるんだい。

ハルピンおじさんこと、チャールズ・グラハム・ハルピン1829-1868は。
アイルランド移民として22才で渡米します。
で、ジャーナリストやコピーライターとして活躍しました。
彼のお父さんもアイルランドで著名な新聞社の記者でしたが、
チャールズも「ニューヨーク・ヘラルド」「ニューヨーク・タイムズ」と渡っています。
陸軍で准将としても活躍しましたが、失明し、
最期はクロロホルムの過剰摂取!で亡くなったということであります。

でアイルランドに土星があるわけじゃないよの詩は
きっと7号に掲載されるので、お楽しみに。
なぜか、アメリカで、この詩についているはずの曲を探索している掲示板があって。
そこで発見することが叶いました。
なんとも、面白いものが落ちていますねえ。

今回は、グーテンベルク・プロジェクトと和独サイトに、お世話になりっぱなし。
かの世界征服(あ、そういえば榎本ナリコさんの世界制服、今夏に出るらしい)
を狙っているという、グーグル殿にも、足を向けて寝られません。

というわけで、余りの暑さに、頭を窓側に向けましたが、寝つけず。
真夜中に保冷剤をタオルに包んで首の下に入れて、やっと浅い眠りに就きました。
早く秋になってほしいいいいい。


眠り姫と夢王子

泉はいつでもうたっている
寝静まった町の夢のなかで、

遠ざかってゆくぼくの、
白い服は野薔薇の
垣根を離れて、
花飾りは
茨の冠に変わってしまった、
小さなぼくの手は
果てしなく血にまみれてゆき、
魂は悲しんでいる
死にかけた仔羊の
瞳のように。

そして泉はうたっている
ほの白い扉のかげで、

ああ、ぼくだけはきっと
眠らないだろう、
夢見ないだろう
死の日まで

「最後の夢」 セルジョ・コラッツィーニ



ぼくらは黄金のぶどう畑の
泉のほとりにすわっていた。
黙って涙をためてすわっていた。
やさしい恋人の眼瞼に
涙があふれてきた
まるでふたつの帆が
海の微風をはらんだように。

ぼくらの悲しみは愛の悲しみではなく
郷愁の悲しみでもなく
欲望の悲しみでもなかった。
ぼくらは毎日死んでいた
清らかないわれを求めて
やさしい恋人とぼくとは。

だが、あの日はすでに失せて
ぼくらの死のいわれは
二度と甦らなかった。

そして黄金のぶどう畑に日暮れは垂れこめ
あまりにも暗くかげったので
ぼくらの魂にはまるでそれが
降り積もった星座のように見えた。

ぼくらは毎晩、味わった
その不思議な房の実を。
ぼくらは黄金の水を飲んだ。
やがて泉のほとりにすわった。
ぼくらを夜明けが映し出したとき
ぶどう畑は黄金の色を失った。

ああ、やさしい恋人よ、
行きずりの人に打ち明けよ
ぼくらが死にきれなかったいわれを
月にも似た、黄金の水と
甘美な果実とを拒んだばかりに。

そして打ち明けよ、二度と
死ぬことなく、ぼくらが永遠に
命をさまよいつづけるいわれを。

「タンタロスの死」 セルジョ・コラッツィーニ



セルジョ・コラッツィーニ(1886-1907)
享年21。ローマに生まれ、ローマに死す。
1910年前後のほんの短い期間、彼が率いた詩人達を【黄昏派】と呼ぶ。

三本足 五本足

喫煙所で休憩中の清掃担当の小父さんが、こう呟いた。
「俺、この間初めて、象を見たんだよ。びっくりしたなあ、足が五本あるのかと思った」

直前までDVDのコピーガードの話などしていたと思ったのだが、さてどうゆう脈略で象に移ったのか。
七十近い風貌で、逆に物心ついてから動物園など行こうとも思わなかったのかとも想像できるけど、いまさら象に感嘆することに首をかしげた。
絹子はその瞬間、曇り空の彼方に、「三本足」と「五本足」を見つけた。
獣のそれとは異なり、ヒトガタから突き出る、横一列の三本と五本の足を見つめた。

奇数は吉兆、偶数は凶兆という観念が染み込んではいるけれど、均衡と対称の観点からは偶数が望まれる。
特別な数字である1は、むしろ0に近しく、対称の中点をなす、あるいは排他と存在の始まりとして、単なる奇数とは隔絶されている。
SFでも怪奇でもありうるけど、三本足と五本足は純愛でなければならない気がする。

三本足に出会った五本足は、自分を二つに分けて、三本足と二本足になった。
三本足は世界に二人きりだから、このまま一緒にならなくちゃと言う。
捨てられた二本足は、みんなのところに行けばなんとかなるだろうと放り出されるのだ。
でも、外見が同じになったからといって、3/5切り取られた心はどうなる。
未知の重心と曖昧な均衡のまま、群集に投げ込まれて、どうなる。
きっと怪物は偶数の中にも潜んでいるというのに。
普遍と安定の中にこそ潜んでいるというのに。

他愛のない断片が、最近僕の中でちりぢり浮かんでは、何処ともなく逃げてゆく。
素氏の草稿の裏側に印刷された、数ヶ月前に僕が記したはずの文章を、校正の合間に斜め読みする。
これは、本当に僕だったのだろうかと。
文章の一つ一つは宙を舞いながら、唯一僕はいつの時代でも、観念ばっかりだなあと目を閉じる。
少しでも多くの白日夢を見られるように。

――1人ぼっちだからって、死を望むのは、短絡過ぎる。
死を望むのは、ただいてもたってもいられない渇望からだ。
少なくとも、僕はずっとそう。

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プロフィール

絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
Twitter account:@quinutax

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