2006-09

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ドミノ倒し再び あるいはメランコリーへの喜劇の効用

第一回 ズンドコ杯争奪 読んでみやがれ!感想文の会
指定図書:『人妻と麦藁帽子』 ラビッシュ 梅田晴夫・訳 世界文学社 1948
推薦人:素天堂
感想担当:絹山絹子



最初にザンゲ。
こんなところでも遅刻魔です。
(私、合同誌の原稿、間に合ったためしがない)
数時間、日付ごまかしてます。


うーん、うーん。
読みやがれ!の裏側に、こんな魔物が潜んでいるとは。
読み終わった瞬間、負けを確信した。
だって、頭に浮かんだ感想が。
面白かったーー。
それがどうした?
だったのだもの。
こんな強烈な笑いの洪水を目の当たりにして、ただ濁流に飲まれてアーレーと叫んでいるわけにはいかないなんて。

本書の内容に反して、あくまで真面目一辺倒に語られる解説――「(前作の解説で)不当に落とされた地位から正当な地位に戻すために」持ち上げてしまった戯作者を「過当に引き上げられたかもしれない彼の戯曲の地位をもう一度正しいところに引きおろす」ために書かれた――に対抗する気にもなれないし。
(生真面目すぎて、若い梅田氏の若気の至りぶりが可愛いかったりしますがね)

困った。困ったなあ。
もう、いっそのことファディナール君(主人公)みたいに、「ピーヒャラドンドンドンときたもんだ!」って叫んで雲隠れしたい気分です。

そもそも私は「ああ、面白かった」と畳みの上に大の字に広がって、ご満悦になれる本をたとえ漫画であっても手に取ることが少ない。
というのも完全なメランコリー気質な人間にとっては、緊張を解きほぐす弛緩剤よりも、どこかしらで同じ匂いをもつ絶望にはまだ手の届かない憂い、共感できる憂いの棘の突き出た藪の中で膝を抱えている方が、安心してしまうからなのだ。
もう一ついえば、戯曲というものを読みつけない身にとっては、眼の裏の舞台で大人数が走り回り、歌い狂う騒々しさの初体験に、眼を回してしまった。

そこで、非常に姑息な逃げ口上だけど、『人妻と麦藁帽子』と対極的な戯曲『熱いトタン屋根の上の猫』(T・ウイリアムズ)も続けざまに読んでみた。
(対極的というよりも、戯曲という要素以外は、何の接点もない)
癌の告知をされぬまま偽りの検査結果に喜ぶ農園主と、彼の誕生日に集った二組の息子夫婦たち。
両親の愛情を全く得られなかった兄夫婦は相続の分け前を貰おうと狙い、弟夫婦はアルコール依存と同性愛な疑惑で眼を覆い耳を塞ぎたくなる罵詈雑言を浴びせあう。
嵐に飲まれながらも、妙に人心地つけるのは非常に内容が精神の根幹に根ざしているせいだろう。

構造的には、『猫』はたった一晩の出来事が三幕に濃縮され、『人妻』もまた婚礼の朝から夜更けにいたる一日が怒涛のごとく流れていく。両者は狭められた次元という類似点もみせつつも、両者はあまりに異なっている。
『人妻』は幸福すぎる、いわば善人たちのファンタジーな世界を描いている。
悩みが表面的であることは、観客にスピード感や突き抜けるような爽快感を与えるという点ではひとつの正当な答えなのだと思う。
また『猫』は洗練されすぎて、泥沼から足を抜け出すことのできない。
苛立ちと剥き出しの貪欲や欺瞞に朽ちて締めつけられていく。
リアルすぎて息苦しくなるうちに、首を絞められているうちに幻覚を見そうなほどだ。
そう、シュールレアリズムとは異なる、超現実な作品である。

あるいは、こんな視点からも両者の違いは歴然としているといえる。
戯曲という形式では、独白に特化することは難しいかもしれないが、『猫』では、おのおのが眼の前に立つ他者よりも、自分を相手に対話を続ける究極に近い形式をとっている。
一方の『人妻』では、他者が不可欠だ。
誰かの発した一言が、ちょっとした何気ない行動が、まるでサラスポンダサラスポンダと回されていく皿のように、展開の要因になっていく。

ああ、こんな横道へ逸れても、何の解決にもなりゃしませんね。
じゃあ『人妻』に焦点を絞って。

数多の登場人物は、困惑を繰り返しながらも、雪玉を巨大な雪崩へと変えていく。
まさに一つの麦藁帽子を求めて、玉はえいやっと婚礼の朝、坂を転がり始める。
そして雪玉を大きくしているのは、誰あろう帽子を追っている張本人、新郎のファディナール君のせいなのだ。
間抜けの真骨頂「ピーヒャラドンドンドン」(これって、今邦訳が出ても、こう訳すのだろうか・笑)を連発しながら進む彼の後姿は、まさに彼の本性を表している。

花婿ともあろうもの、ちょっと朝のお散歩の最中に馬がオイタをしでかして、ご婦人の麦藁帽子を食っちまったからって、麦藁帽子がないと家に帰れないと嘆くご婦人を匿ったりしたら、花嫁はムキーっと怒り出す可能性大。
彼女を隠そうとアタフタする君も君なんだ。
さらには、代わりの帽子を見つけてやろうと、行った帽子屋が昔の女の店で、彼女にも色目を使い出すなんてどういう料簡だ。
君の性格は、妙にルーズで、妙に生真面目で、手が焼けてしょうがない。
そう、一番の被害者で一番のお人よしの君は、花嫁の行列を引き連れて、あちらへこちらへと街中を練り歩く。
帽子はどこだーいってね。

さあ、さっさと片付けて結婚式を挙げたいと焦れば焦るほど、騒ぎは大きくなっていく。
ドミノは倒れる。
ばかばかしいほどに、倒れる。
最初の一枚は馬が倒したかもしれないけど、加速させたのは全く持って、君のせいなんだ。
『ボートの三人男』でも我々は四方八方に倒れてゆく勢いに圧倒されたけど、『人妻』のナンセンスな倒れ方には眼を瞠る。
さらに、これが一見無鉄砲な倒れ方をしていると思ったら大間違い。
大笑いしながら目まぐるしい転倒に度肝を抜かれ、真夜中を過ぎて終幕を迎えてふっと俯瞰すれば、ドミノの辿った道筋は、大きな大きな円を描き、コツンとファディナール君の後頭部を蹴飛ばして止まったことに気づくのだ。
そう、実はラビッシュによって周到に用意された結末は、大団円と呼ぶにふさわしい幕切れになっていた。

さてどうしてその美しい円環を、我々は野放図な倒れ方なんて中盤に感じてしまうのだろう。
勿論、ここには、名脇役たちが控えているからだ。
聞かれもしていないことを延々話し続ける耳の聞こえない叔父様しかり、植木鉢を抱えたまま移動するお人よしの花嫁の父しかり、汗を拭き吹き自分の世界に浸りこむ会計士しかり。
列に割り込みつつ、茶々を挟みつつ、意味のない道化(主人公の数十倍の)を演じているように見えて、自分と世界の間に南京錠をぶら下げた彼らは、ただの道化師ではなく、ひそかにキーワードを抱えながら、ドミノの列を伸ばす効果を果たしている。

たまにはね、こんな話で頭に釘を打ち込んでみるのも悪くない。
空いた穴から吹き込む風に、憂いの騎士達は右往左往しながら、自分が何に悩んでいたかなんて、すっかり忘れてしまうだろうから。
ただ気をつけるべきことは、鼻を少しばかりつまむこと。
性にあけすけで貞節には頑なな中世の泥臭さによって引き出された、幸福の一面性(これがラビッシュの欠点というべきでしょうか。とかく鬱な人々はこれがないと落ち着きませんからね)にそっと覆いをかけておけば、100%楽しめる。

腹の底からゲラゲラ笑って、幕が下りたら酒場に繰り出して、踊り明かせば、不眠症の彼や彼女も、この日ばかりはぐっすりと眠りにつく。
メランコリーには大いにカンフル剤になるだろう。
さらにはこの漫画的な展開を、実際に三次元の空間の中で、アタフタする彼らを眺めれば、その効果は一層大きくなるだろうと思う。

同時収録された『人間嫌いとオォヴェルニュ人』も「嘘のありがたみ」を酢昆布のように噛みながら眺めていると、いつの間にか広がった穴に落ちたご主人様の陰険さも、あっけらかんと構えた女中の可愛いずるさも、抱腹絶倒な帽子の飛び交いとは違った、一種ニマニマと人の人の悪い笑いを誘うに違いない。

もしかしたら、こうした素っ頓狂な登場人物が抱えた生真面目さが、ラビッシュ自身の奥底と通じているのかもしれない。

Un_chapeau_de_paille_d_Italie.jpgUn_chapeau_paille_2A.jpg


**********

感想文って難しいと今更ながらに、考え込んでしまった。
面白さを前面に押し出す、紹介文や販促とは全く意味が違うから。
それを読んで、何を感じ取ったかを書きなさいって、良し悪しをあげつらうことの一段上層にあることなんだなとつくづく感じました。

締め切り破った上に、感想の内容も今回は大敗。
ということで、第一回ズンドコ杯は素氏に贈られました。


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お化けなんていらない

先日、終業間際になって、隣の顕微鏡の前に座ったある医師と話をした。
二人で最近は病理解剖が減ったねという話題で。

病理解剖は、主に大学病院などでなくなった方に、病因の解明や治療法の探求のためにご遺族の同意を得て行うもの。
変死などで死因特定に行うのは、法医解剖、献体されたものを固定して学生の実習に用いる、主として体の仕組みを学ぶために行うのが系統解剖、他に伝染病などの特別措置時に行う、行政解剖っていうのもある。
減った原因は、遺族の同意を得にくくなっていることと、臨床と基礎系との連絡が悪くなっている…ぶっちゃけ、病理医が病理診断を出すのも遅けりゃ、臨床が結果を活かす機会も減っているから。

「先生ご自身は、解剖されたいと考えてますか」

「それはケースバイケースだけど、もし末期の癌なら腹水も数リットル貯留してるし、臓器が腐乱してるから、僕は掃除して欲しい。腐敗も遅くなるし、十キロ近く軽くなるし、死んでから言うのもおかしいけど、腐ったものを除いてもらったら、患者も楽になれると思う」

「へえ。それは、変わったっていうか、新鮮な考え方ですね」

「僕の習った教授は、そう言って、ご遺族に了解を得ていたよ。今じゃ、そんな勧め方しないと思うけど。医学の貢献になんていうより、ずっと分かりやすいし、プラクティカルでもあると思うけど」

「腹水って、ドレーンで引いたりしないんですか」

「腹水の中には栄養分が一杯入ってるから、簡単に抜くことはできない。衰弱が激しくなるからね。でも、最近は、腹水を大静脈に直接戻す方法もとられてて、そうすると患者さんは楽になる。勿論、全身に癌細胞を播種して、転移することが分かっていても、末期の患者さんには楽にしてあげることも大事でしょ」

就業時間を延長して、私はこの話に眼を輝かせて聞き入っていた。
本当のところ、私は彼のことがあんまり好きじゃなかったのだ。
いつも可笑しいと思うのは、自分が興味の対象が合致すると、例えば世間体というものをひっくり返してでも、観察を続けようとするきらいがあること。
例えば、二年前、自分は別居中の相手と一緒に、ただただ聴きたいがため、いそいそと法歯学の講演に出かけて、スライドに眼を輝かせていた。
そうした行為は他人から見れば、非常識で奇異に映ると分かっていても。
何かしらかのつまらぬ衝動や信条を、是が非にでも突き通そうとする。

さて、本題である。

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幻想や怪奇という表現方法には、実際にお化けも血糊も必要がなかったのだと、そんなものよりもずっと寒気を誘うものがあるのだと、吉屋信子は教えてくれた。
彼女の話がぞわぞわしながらも、魅力的で一気に読めてしまうのは、その語り口の妙にある。
この集成で私が最も魅かれた「冬雁」や「生死」という話のどこにも、不思議なことは起こらない。
主人公の思考回路の歪みが、僅かに一般人とずれている、ただそれだけのことであり、何故彼らがそういう回路を持つのかというのは、生来のものとしかいいようがなく、日常生活を続けるのに何の不具合も感じていないし、周囲の人間も彼らを異常だと思うこともない。
0.1ミリのずれで人生を淡々語り、どこかしらへと消えていく。
「生死」の霊魂不滅を信じきった主人公も面白いけど、「冬雁」のつうという女性が、興味の赴くままに、醒めるままに進んだ道行きを少しだけ辿ってみたい。
私が、0.3ミリのずれで現実で呼吸しているのも、曲げられないものを抱きかかえているのも、つうとおかしな共感を見せているなんていったら、だからこそ一層面白いといったら怒られてしまいそうだけど。

つうは蕎麦屋の長女に生まれた。
職人気質の父親と、母と妹、それに辰次という店員で店を切り盛りしていた。
つうは、子供のころから夢想癖が強い方で、店に置かれた一幅の広重の衝立を何時間も眺めては、巡礼する親子連れに見入っていた。
年頃になったつうを母親は父も亡くなった店の中で跡継ぎにと、辰次との婚姻を勧めるが、頑として聞き入れない。
辰次以外の他の誰でも嫁ぐといった彼女は、見合いをしてある一人暮らしの男の元にいく。
彼は家具も揃った立派な一軒家に住んでいたが、ただ一点、猛烈な吝嗇家だった。
二人の前妻もその徹底したケチっぷりに嫌気が差したのだろうが、つうはあまりの徹底振りに、まるで遊んでいるみたいな気分になって粗食に、無駄をなくすことに付き従った。
だがある日、実家から秋刀魚を貰って戻ってくると、良人の口元の動きが眼に留まる。
彼は朝から夕暮れまでずっと一粒のラッキョを口の中で転がしていて、それに気づいた彼女は急にぞーーっとして、蕎麦屋に戻ってしまった。
しばらくして、寺の庫裏に住む年下の美少年と恋仲になった。
けれどもある日、彼が顔を歪ませて、腹が下ったと告げたのが醜くて堪らなくなって、再び実家に戻った。
次は米問屋の女中に入ったが、隠居の妾同然だった。
ただご隠居は茶の道を毎日つうに教えて、彼女も習うのが楽しくてしょうがなかった。
姉が妾になったと口さがなくいう噂に耐え切れない妹は、縁を切りたいと罵る。
それでもつうはあっけらかんと、楽しさを伝えるだけだったが、戦争も長くなり米問屋も疎開することになって、つうは暇を出された。
再び蕎麦屋に戻ると、辰次が美貌のつうに襲い掛かってきたところを、妹が見つけ、二度と敷居を踏むなと追い出した。
戦火に包まれ、店も焼けてしまい、妹夫婦の消息も分からなくなった。
軍需工場の仲間に紀伊出身の女がいて、自分が子供のころに好きだった衝立の絵が、八十八箇所巡りのお遍路であることを知り、興味は巡礼に向かうようになった。
つうは器量を見込まれて、戦後、料理屋で住み込みの店員として働き始め、そこでも女将にたいそう気に入られていた。
ある晩、女将は奇妙な物音に目を覚まして廊下に出ると、ぎょっと腰を抜かしそうになった。
よくよく見ると、つうがようやく溜まった給金で、巡礼用の白装束一式が揃ったことが嬉しくて、真夜中に仲間が寝静まるのを見計らって身につけていたのだった。
女将は、つうの思いを叶えてやることにした。
旅費を渡してやるのに加えて、関西の知り合いの住所を教えて、ゆっくり奈良や京都も巡ってくればいいと送り出した。
その後、つうは二枚の絵葉書を女将に送ったが、二度と帰ってくることはなかった。
女将はつうがどこかで男と一緒になっているという声を激しく叱り飛ばして、あの子は二度と男と一緒になるわけはないと言った。

そう、ホラーというなら、視覚的にはつうがぬっと白装束で現れたところなんかを取り上げてもいいのだろうけど、本当はこの小説は別の薄気味悪さがある。もっと生理的に微妙な、はっきりと気味が悪いともいいきれない、心の奥底の産毛の一本をすっと撫でられたような感触がある。
平板に粗筋を流しただけでは感じ取れない、吉屋信子の筆致は、もう読んで味わってもらうしか説明のしようがないかもしれない。
まあ、最初の男が転がしたラッキョの実のように、味わってもらえるといいなと思う。

もう一つ、この集成から感じたことは、吉屋信子自身が戦火で焼け出されたのだろうという予測と、戦時下、あるいは戦後の混乱期の苦しい体験の中で、幻想に退避したといった浅はかな想像をよそに、あの混乱期にこそ幻想が生じるのだと思い切った短編を描ききった力だった。
特に焼失した家屋に突き刺さる夏の日差しは、何度描写されても乾ききって眼に突き刺さるし、復員兵や防空壕といった当時はありふれていたアイテムが、黄泉返りや異空間を招き寄せるにつれ、彼女の技巧に眼を瞠るのだ。
例えば、終戦を知らせたくないがために、蔵に閉じ込めた老婆を子供たちがお化けだと思い込んでしまったという「黄梅院様」の落ちでさえ、幽霊の正体見たり…以前に、老刀自を軟禁していた家族が淡々と語る言葉のほうが、ぞっとしてしまう。

※蛇足ですが。
もし吉屋信子といえば…の百合臭を求めるなら、あまり期待に添えないです。
強いていえば、「井戸の底」で井戸に落ちる女学生が嫉妬した友人二人の関係が、少し百合っぽいかも。
ついでに、吉屋信子って、伊藤人誉に似たところがあるなーと思うのは、私だけでしょうか。

※お待たせしている(待ってる人いるのか?)ズンドコ杯感想文。
明日、期日スレスレ滑り込み提出します!
そしたら、二週間ぐらい地中に潜り込みますよ。
やばいんだ、原稿が。

陳腐な決め台詞

何もこれは珍しい話じゃない。
ただちょっとだけ、自傷行為に似ているというくらい。

昨日、電話口で叫んだ。
「あんたが、気ちがいなんだ」と。
そし今日、同じ家に住む妹の嘆きに応えながら思うこと。

あれは、まあ非常に陳腐ではあったけど、私の決め台詞だったのにな。
なんの効力も持たない、発する必要のない決め台詞であったのにな。
当然だ。
気ちがいは、自分のことをそう認識していないのだもの。
四人をどれだけ痛めつけたか、一生考えず、吠えているただのウイルスに犯された狂犬病の犬なんだもの。
効力なんてこれっぽっちもない。
ただ時期が早まってしまって、それを少し苦く思うくらい。

ぽつぽつと妹に話しながら、電話の後で、噴き出しそうになっていたらしい。
そうだ、これは笑い話。

中学生の頃、塾の帰り道。
制服のブラウスにピンクのチェックのスカートを履いた私は、アンケートに答えた。
「どうして不良にならないんですか?」
あははは。
その当時の私は、こう答えた。
「そんなものになる余裕がないんです。それだけ荒んでるんです」

笑ったP氏も言ったもの。
不良になるなんて、社会への暴力行為なんて、甘えだと。
そう私達は、甘えてる暇なんて一切なかった。
家に帰れば、毎日が闘争と喧騒と時には炎や官憲に取り巻かれていたのだもの。
本当に、可笑しい。

時折、作家や文学者の中に親に対する強い依存・愛情を示せる人がいるけど。
そんな感情をもてるだけで、一種羨ましいようで、大部分吐き気がする。
私はこの先、幸福以前の平凡な家庭というものを妬むこともない。
ただ、私が子供を描いてしまうのは、多分にこんな背景に起因しているのだろうと、そう思うだけ。

カポーティ・ラッシュ

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映画「カポーティ」のおかげで、出版界は小さなカポーティブームに沸いているみたい。
普段はタイアップなんて商業主義の副産物にしか思えないのだけど、今回はうふふーと万歳してみたりする。
入手しづらかった『夜の樹』や『草の竪琴』も増刷がかかった気配があるし、何より単行本を探すしかなかったものが、続々と文庫化されているのも嬉しい。
こういうマイブームと世のブームが合致することもあるんだーと、妙に感慨深かったり。

『トルーマン・カポーティ』は、彼の周辺をすり抜けた色んな著名人の膨大なインタビューのみで構成されている。
なーんだただのインタビューの寄せ集めかよ、作者の意図なんてないのかよ、って侮るわけにはいかない。
記憶の中にある、つまりは写像であるカポーティの姿は、決して真の姿とはいえないかもしれない。
けれど作品が多面体であって一元的に捉えられないのと同じに、彼自身(特に彼のような人であればなおのこと)のホントウなんて、誰も分からない。
齟齬や記憶の混濁、自己防衛なんてものは結局どうでもよくて、様々な偏光をこの本で読者が浴びることができたら、プリズムの集積に一塊の姿を見ることができたら、ファンとしてはそれで十分すぎるほど幸せだと思う。

私は作品自体だけでなく、作家の生き様とかを追いかけるのが好きなのだが、さらにそれが奇妙であったり切ないものであれば余計に喜ぶのだけれど、たとえ平板であってもあるいは不快なものであっても、作品自体に視線を戻した時、嫌いになるなんてことはない。
世間の人がゴシップを好むように、彼/彼女にまつわるエピソードを見せてもらうたびに、カーテンを潜って向こうの世界を覗きみた気分にワクワクするのだ。
で、双眼鏡をきゅっとあげると、こんなものが揺らめいてます。

一九四八年の夏、パリでガリマール――カポーティの版元だった――が開いたパーティの席だったと思う。カミュとサルトルが来ていた。その夏の終わりごろ、カポーティはカミュと寝たことがあるといった。しかし、カミュはパリで女優と見れば片っ端から尻を追いかけていた。男や少年に興味を示したとは聞いたこともなかった。しかも、その夏、トルーマンはアンドレ・ジッドとも寝たといっていて、私はその嘘を見破っていた。トルーマンによれば、ジッドは金とアメジストの指輪をくれたという。その二週間ほどあとにジッドに会ったので、「どこでトルーマンを見つけたのですか?」と聞いてみた。
「誰だって?」
私は名前をくりかえした。すると彼は「ああ、その名前は聞いたことがある」といって、ソファに寝そべった彼の写真を手に取った。「パリに来ているのかい?」
「ええ。あなたと会ってとても楽しかったといってましたよ」
「会ったことはないな。しかし、この写真なら郵便で十枚以上送られてきたな」
(上175p ゴア・ヴィダルの証言)

 

写真というのは『遠い声 遠い部屋』の裏表紙に使った12歳くらいにみえる、迷子の妖精みたいな彼の写真。
いわゆる「これをもって、私の決定版とする」というやつ。
カポーティは自信満々に「写真を撮られるときは頭の中を美しいことで一杯にしなくちゃだめだ――それがコツさ――そうすれば誰でもきれいになる」とも語っていたらしい。

さらに一粒で三つ美味しいこんなオマケが、くっついてくるんですよ。

カーソン(・マッカラーズ)とトルーマンは真実を作り変えて微調整する才能に恵まれていた。ある日カーソンは、『ニューヨーカー』に書いていた作家のエドワード・ニューハウスに、父親がソファで煙草を吸っていて焼け死にそうになった話をしはじめた。父親は上の空だったので、気がついたときには炎がかなり大きくなっていた。そこまで話したとき、ヤドーの夕食を知らせるベルが鳴った。話はそこで中断された。エドワードはその先がどうなったのか、気になってしかたがなかった。食事を早々にすませてカーソンに話の続きをせがむと、彼女はいった。「あら、エドワード、あの話を本気にしてたの?私の話しぶりもだいぶ上達したのね」
(上113p ヴァージニア・カーの証言)



鋭敏な感性と過剰な自意識を保ちながらも、誰よりも人を楽しませることに長けていた彼が、映画の舞台となるドキュメンタリー『冷血』を完成し、華やかな社交界で壊れていく。
この本の中で、一番切なく美しいおとぎ話みたいに輝いているのは、ケイト・ハリントンという女性の証言。
彼女はアル中薬中になった晩年のカポーティと時間を共有した少女。
そして、同時に彼女は、彼の愛人の娘だった。

父親がカポーティと関係をもった始めの頃は、家族ぐるみで彼とつきあっていたけれど、そのうちに両親の不仲は決定的になり、離婚後子供三人は母親に引き取られて貧しい生活を強いられる。
何か働き口はないかとカポーティを頼ったケイトは、モデルの仕事を紹介されて、平日は高校に通い、週末になると彼の広すぎる家に寝泊りして仕事を続けた。
カポーティがどんなに有名な作家か彼女はよく分かっていなかった。
退屈だとテレビの在処を尋ねると、彼はケイトを図書室に案内して、これがテレビだよと言う。
二人は時間があると一緒に遊んだ。
二人でお話を作って、遊んだ。
素敵な淑女になれるように、カポーティは進言と援助を惜しまなかった。
それらの言葉が、『ティファニーで朝食を』にすっかり収められた言葉だと知ったのは、何年も経ってからのことだった。
アメリカ版『失われた時を求めて』となると信じて書いた『叶えられた祈り』が辛辣すぎるゴシップとして捉えられ、社交界から蹴りだされ、多くの友人から捨てられた時、ケイトはベッドの中で泣きじゃくる彼を抱きしめた。

ところで映画に行くかどうか、迷っている。
実は『冷血』を読んでいないし、この先読むことになるかも分からないから。
詩的だった『冷血』以前の作品達との距離を知るのが、怖いから。
一家四人惨殺の犯人の片割れと、強くシンパシーを分かち合ったカポーティ。
死刑延長を求める一方で、死を持ってエンドマークを打たねば、「小説」が完成しないというジレンマに陥ったカポーティ。
この辺りの鋭い葛藤なんて、かなり好みなんだと思いつつ、少なくとも先に『犬は吠える』で一息入れてから、向き合いたい。

※今回、思わぬ発見があった。
あのパーフリちゃんのブレインこと小沢健二の徹底したサンプリング・マシン振りを示す事項がこんなところにあったのだ。
「犬は吠えるが、キャラバンは進む」
これが『犬は吠える』の巻頭に掲げられている。
翻訳の小田島氏の解説によれば、アンドレ・ジッド邸を訪れたカポーティが、押し寄せる良悪の手紙の山に辟易したと告げると、ジッドはこの古いアラブの諺を紹介したという。

あらゆる諺の例に洩れず、この諺も多義的にいろいろな意味に読みとれる。でも、とっさにつかまえられる意味は、うるさい批評なんか気にしないでどんどん書くことだ、というものだろう。
(2巻 272p)


まあ、オザケンの同名のアルバムをお持ちの方は、リーフレットを開いてください。
少しだけ引くと、こんな風になってます。

言い古された言い方をすると、作者に全てが分かる訳じゃない。でもお喋りな作者というのは常にいて、哀れにも自分の作品には及びもつかないみすぼらしいメモ帳の切れはしを読み上げてしまったりする。僕は過去に何人ものそういう愛すべき作者たちが好きだったんだけど、今回はどうやら僕の番のようだ。



でもね、ここはパクリじゃなくて、我らが偉大なるサンプリングの手法なのですよ。
本当にいつも早熟ぶりに頭が上がらない。
私はいつも十年以上遅れて、たった一つ年上の彼の色々に気づくんだ。

それにしても、オモロイところで、世界はつながってるなあ。

新刊買おうぜ:新潮パンダ入手計画。

絹子が消沈しているので、三人でまた遊んでみた。
僕達の遊びは、簡潔で、姦しい。

この間は、古い本たちを次々に本棚から引っ張り出しては
貼られた検印のデザインや苗字について、賭けを行ったのだ。
例えば、乱歩は「平井」なのか「乱歩」なのか、はたまた…。
少なくとも不思議図書館の中では、混在していた。

蔵書票については、とっくの昔から工芸品美術品として認知されているけど、検印票は今は99%省略されているから、眼を向ける人はいないんじゃないかな。
でも、各社デザインに凝っていたり、筆者自身も粋な判を使っているから、覗いてみると楽しいよ。
そして昭和初期までの本を引っ張り出しては、なんという印になっているか賭けをしてみてほしい。
ちなみに、虫ちゃんは三文判「小栗」だった。
つまんなーいと叫んでも、これは多分、出版社に預けっぱなしにしたハンコなんだろう。

で、今日の遊び。
最近新刊を買うことが年数冊から、月数冊に復活を遂げた絹子が、新潮文庫の差込チラシみて叫んだんだ。
例のYONDA?パンダのデザインが一新されると。
よーしそれならば、家中の新潮文庫を引っ張り出して、表紙袖についたマークを集めようと。
取り合えず、色は何色でもいいということがわかったから、必死で△マークを探したのさ。

そこで判明したこと。
概ね平成10年以降発行のものは、付いている。
平成5-10年に関しては当たり外れあり。
ただし、復刻版は付いていない。

よーし、これだけ文庫があるんだからマグカップ(20点)は余裕だよね。
もしかしたら、マグカップもう一個いけるんじゃないと。
それで、二階と一階と行ったりきたり。
何度も、くそうの悪態が宙を舞う。
そもそも、この図書館、古書店から搬入されたものが多すぎるのです。
さらに、近所の行きつけの店が、あらゆる文庫が、50円均一か、定価の半額なので、できるだけ古い版を探すようになっていた。
三人とも旧字旧かな大好きだから、余計に古い方へと固まっていく。
さらに問題は、司書が新潮文庫にあんまり興味をもっていないこと。

結果発表:計28冊。
ということで、現行デザインの締め切りは2008年(めっちゃ先やん・笑)なので、とりあえず、マグカップ一個とピンバッチ(5点)を申し込もうかなーと協議完了。

頑張ってくれた作家たち:内田百間・久世光彦・Tカポーティ・三島由紀夫・北村薫・WJパーマー
沢山あるのに古すぎて力及ばずな作家たち:倉橋由美子・福永武彦・安部公房・谷崎潤一郎
平成八年なのについていないのは、やっぱりなのかな作家:佐藤亜紀

ということで、これから50円均一の新潮があったら、裏表紙を確認しようね。

個人主義

繊細という名の視野の狭さに、息もつけない。

「作品は作者の手を離れた瞬間から、読者のものである」
という教えられた言葉を、昨日、人へのメールに使ってみた。

実感を一度も得たこともないというのに。
それじゃあ、こうした呟きさえ、公開した途端に私の手を離れたというのだろうか。

最近、綴ることが、綴ることしか主張のすべはないのに、みんな分からなくなってます。
物語って一体何を投影していたんだろう。

なので工作の夢をぼんやり描く。
来週、ここに行ってみたいな。
某所の「和色図鑑」という作品で間接的にお世話になった方が、参加されているみたい。
職人になりたい。




「死ぬって結構難しいよ」と妹が言いました。
婚約破棄を告げられぬ彼氏のために
相手の親や親戚を納得させるために、
ひいては結婚したいと願い続ける彼氏を諦めさせるために
最大かつ不可欠な理由づけとして、そういうふうに自分を追い込んだらしいです。

あのね。
昔から言われてるじゃない。
そして私達姉妹は、幼い頃から体験してきたじゃない。
気ちがいの家には、気ちがいがどんどん増えていくって。
だから早くそこから逃げなくちゃダメだって。

でも手を引っ張って一緒に逃げたり
シェルターを用意してあげることはできないよ。
血を憎む私には、どんなに大事でも、一人きりで走るのを待つだけ。

だから、「もし」があっても。
昔みた、彼女がライオンに食べられちゃう夢みたいに
一瞬の胸の重みで消えるかもしれない。
これは温度の問題じゃなく、思想の問題。

それにしても。
数少ない私の半径二メートル以内の人たちは
こうも同じように消滅の願いや方法を聞かせてくれるものだと。

そういうことはね。
そっと、そっと。
祠に棲んでる粘菌にでも語りかければいいのだよ。

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Author:絹山絹子
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