2017-05

第三回 ズンドコ杯争奪 読んでみやがれ!感想文の会

第三回 課題図書

☆『球体の神話学』 高橋睦郎 河出書房新社 1991

出題者:絹山絹子
コメント:10年位前貪るようにこの辺りを読んでいた。詩人が鋭敏な感覚を丁寧に丸めていく過程のようなもの。過程とは過程自体が面白いのであって、丸まりきったら苦いんだけどね。

 
☆『贋金つくり 上・下』  アンドレ・ジイド 山内義雄・訳 新潮文庫 1952

出題者:素天堂
コメント:プリティボーイズメルヘン(vvv)←ハート

◇ 提出期限 4月25日


ズンドコ杯については、こちらを参照のこと。


性懲りもなく第三回です。
また上下本かよ!と睨んでいます。
天麩羅が食べられるくらいにお腹の調子が回復してきたので(相変わらず一日三回以上ですが)…というわけではないのですが、久々に感想文で身悶えてみたいと思います。

本当は復調宣言ということで、今月は岩波文庫月刊と題して、(目標は「中学生の私よ甦れ」ということで)一日一冊岩波文庫一人感想文の会をやろうと思ったのですが。
既に初日にして、やられました。


あきらめ,木乃伊の口紅 他4篇 あきらめ,木乃伊の口紅 他4篇
田村 俊子 (1952/04)
岩波書店
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1952年発行となっていますが、94年の復刻フェアで復刊されています。
それでも、もう品切れの可能性大なのかな。

田村俊子といえば、田村俊子賞ですが。
森茉莉、武田百合子、倉橋由美子と、受賞者は大好きなのに賞を冠した人の作品には触れたことがない。
しかしねえ、非常に苦しかった。
正直にいえば、胸が悪かった。

例えば、普段ファッション全般に全く興味がない器だけは女性の箱に入った女の子が、異性という目で恋愛をするのではなく、むしろ中性体として独自の審美眼によってごく限られた他者に心を開くような女の子が、女性専用車に閉じこめられて、その中ではひたすら化粧を続ける女の子たちと、漬け物石みたいなファッション誌を読みあさる女の子たちと、男たちを冷笑しつつも策略を練り合う女の子たちの集団に突っ込まれた感覚。
とでもいいましょうか。

『木乃伊の口紅』のように、田村俊子自身が作家を目指し、一方で女優にも転じた自伝的要素を多分に含んだ作品だけでなくとも、いずれの作品にも共通しているのは、主人公の女性がひとつのプロトタイプを示しているということ。
彼女たちは風景を愛しています。
風雨は、こぼれ落ちる日の光は、またそこはかとなく漂ってくる匂いは、すべて感情の細やかな変化を映す鏡となって存在してくれるからです。
また彼女たちは、思い出を愛します。
自分の体をすり抜けていった男たち、あるいは自分たちを慈しんでくれた導き手たちは、遠い蜃気楼になったとき、ひたすらに浄化されて涙を誘ってくれるからです。
けれども彼女にとって、現時点目の前に存在する男とは、たとえ美しい顔をしていても、退屈で芸術の欠片も尊重しない、愚鈍なものにすぎないのです。
彼女たちは自分に確かに選ばれるべき「光」があり、それは自分から掴みにいくのではなく、すべからくすれば誰かが見い出してくれる存在であると信じているのです。

これは、まさに一つの粘性の「女」を描いた作品群なのです。
『木乃伊の口紅』で主人公のみのる自身がこう述懐しています。

こんな日の間にも粘りのない生一本な男の心の調子と、細工に富んだねつちりした女の心の調子とはいつも食ひ違つて、お互同士を突つ合ふやうな争ひの絶えた事はなかつた。  270p



退屈と叩きつけたくなるよりも、人の胸を悪くさせることができる作品の方が、感興を促しす力があるという意味では、差異があるのかもしれません。
もしかしたら、フェミニストな人たちには受け入れられるのかもしれませんしね。

と久々にズダボロにむっとした本だったのですが。
いつもどこかで、「その気配」には鼻が利く絹子なので、こうした女たちの一つの型として、おそらくは絶対美は異性にはないと信じる傾向が生み出すレズビアンな発現を抜き出してみましょう。

京子――と思つたはずみに、幾重の胸に放埒な恋が燃えるやうにきざした。あの可愛らしい娘ごころを今夜一晩で何うにかしてやりたいと思つた。赤い色彩で埋つてゐる京子を、幾重はどうしても今夜気儘にして見たかつた。牡丹の花の崩れるやうに、自分の抱かうとする手に崩れてきさうな京子の風情などを描いて、幾重は、自分の肉が震へるやうな気がした。
『春の晩』226p



(引用に際し、旧漢字は新字に改めています)
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カメラ!カメラ!カメラ!

第二回 ズンドコ杯争奪 読んでみやがれ!感想文の会
指定図書:『フリッカー、あるいは映画の魔 上・下』 セオドア・ローザック
田中靖・訳 文春文庫 1999

推薦人:素天堂
感想担当:絹山絹子

フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉フリッカー、あるいは映画の魔〈下〉


欠如は想像を喚起する泉だ。
読書は、物語を掴み取ることは、欠けた情報を読者の来歴をもって補完しつつ目裏の劇場に投影する作業。
過剰な情報が与えられ続けても、視覚聴覚を不足した状態では、例えば「映画」のようなものに対抗することができないのかといえば―――。
現実対抗し、凌いでしまう作品も数多ある、というしかない。
それは、想像というものを補完すべき色彩が、不足した状態に、穴の空いたそれもどう空いているかも各人各様にしか取れない穴に、ぎゅっとシリコン剤や絵の具や音質をあてはめることができる自由度からきている。
例えば小説から始まった一つの世界が、挿絵を加えられ漫画として動きをもち、さらにアニメーションへと広がって、最後に実写化されるに伴って抱く、喪失感と違和感がそれを裏打ちしている。
では、言葉だけで、どこまで音と画をもった「映画」というものに肉薄することができるのだろうか。
あるいは、極限にまで肉薄できるなら、読者の想像力を欠如させ不満を抱かせる一点にまで到達することが可能だろうか。

プイグの『蜘蛛女のキス』を読んだ時、そこに浮かび上がった映像の、もしかしたら真実その映画を前にしても見落としてしまう部分にまで視線が誘導されていく快楽に酔いしれた。
映画監督を目指したプイグは、なしえなかった映像への憧憬を方法論に転嫁して、新たな境地を小説というジャンルに広げて見せた。
一方で、セオドア・ローザックはまったく別の方法で映画を小説に飲み込んでしまっている。
『蜘蛛女のキス』は、実在する映画、あるいはそれらのミクスチュアを会話文の間に過剰に挟みこむことによって、二人の男の関係を浮かび上がらせた。
だが、『フリッカー』においては、実在の映画を映像をただ読者の網膜に投影し、浮かぶとも消えるともいえない淡い感情の機微を惹起するといった、いわば甘い方法に頼っていない。
もっと高等な、いやむしろもっと狡猾で悪魔的な方法で「映画」を語っている。
映画の「魔」という副題は訳者によって付されたもののようだが、これはまさに推薦人の言葉を借りるまでもなく、「魔」というしかない大作だった。

この作品は、ミステリーであるという。
推薦人は、あやふやな記憶のまま「人が死ぬ」と告げたが、いつまで経っても順当な意味の殺人事件は起こりはしなかった。
嘘を言って。
そう詰っても、この場合意味はないことを、終盤において、残り二章に突入して卒然と理解した。
誰も死なない。誰も殺されない。
悪、主犯格と捉えられるカタリ派の教団・嵐の孤児の重要な教理そのものが、「殺さない」なのだから、通常の意味での死体は転がらない。
とはいえ、死体は予め転がっている。
謎の中心人物であるマックス・キャッスル本人が、水難事故により死んだと、伝えられているからだ。

もうひとつ、あやふやな死体はゾンビとして、彼の実体以上に雄弁で魅惑的な映像の断片、フィルムの隙間でほくそ笑み爪を研ぐトリックとして、徐々に立ち上がってくる。
主人公の指南者クレアは最初にマックス・キャッスルの映像を見たとき、身を震わせた。
辛辣な唇は、惹かれてしまう魔の力に抗おうと、二度と彼の映像を見ないと誓った。
監督は死しても、その作品はまざまざと蘇る。
そして、我々は最後に驚愕を持って、本物のゾンビが、孤島に生きながらえていることを知る。
この生霊が、マックスが生み出したあらゆる怪物よりも当然に人間臭い塊であることで、余計に驚かされる。
最後の二章にかかったら、一種の嘆息が洩れてしまうのはこのためだ。

ミステリーには謎が不可欠。
それでは、解き明かしたかったものは、本当の謎はなんだったのだろうと、首を振ってしまう。
結局我々は、マックス・キャッスルという亡霊の実体を追い求め、彼の映像が望んだ闇を貪り、その闇の意味を知りたがっていたのではなかったか。
悪く言えば、荒唐無稽化していく、あらゆる歴史上の「悪い種」(ヒトラーなど)はその宗教団体が、この世から全てを抹殺し、己たちをも含めて無に帰してしまおうという、忍従に継ぐ忍従によってなしえた成果であるという話に辿り着いたときから、首をひねり始めていた。
これでは、執拗に描き続けたマックス・キャッスルの映画、あらゆる映画を取り巻く気配が霞んでしまうではないか。

だが、セオドア・ローザックは、大仰に広げてしまった風呂敷を、収拾不能になったと逃げてしまうわけではない。
むしろ風呂敷自体が、曖昧な織物であったと、翻すのである。
敵は味方であり、味方はまた敵である。
読者は最後に、翻った半透明の敷物がもやもやと霞んでいくのを眺めながら、はたと自分たちは何を探していたのか分からなくなる。
マックス・キャッスルは、本当に教団に対立する忌むべき孤児だったのか。
教団は、本当に主人公に宣伝塔の土台になって欲しがったのか。
彼らの世界滅亡への暗躍は、どこまで進んでいたのか。

謎の骨格自体を謎として、読者の目的を海中に沈め、作者は微笑むこともなく去っていく。
このスタイルを呆然と眺めては、なんとなく、アンチ・ミステリーだのメタフィクションだの血にも肉にもならない形容が頭の中を掠め去っていくのだった。

知りすぎた主人公は、今やゾンビと暮らしている。
餌としての鉄缶の中でフィルムが日々朽ちていくのに、獣じみた唸りを上げながら、うろうろと孤島を徘徊している。
彼もまた、魔に飲み込まれ、一種の怪物となる。
おそらくたった一人の理解者であったクレアも、どこかで徘徊しているのだろう。


全体としては、以上のような印象だったのだが、もう少し、細部について書いてみたい。

おそらく、この作品では、映画だけでなくあらゆるこの世界の「魔」というものを文字媒体によって描くことに挑戦しているように思える。
女性読者ならば、全体に流れる言い知れぬ不快感を特に感じることができるのではないか。
主人公は、ありふれた男だ。
思春期から壮年期に至るまで、常に肉欲と隣り合わせにある。
彼が関わった主に四人の女性は、いずれも型は異なるとはいえ、彼女達との交情はひどく猥雑で息苦しい。
野心的な映像評論家であり、あらゆる意味で彼の導き手であったクレアは、セックスの最中に講義を行い、むき出しの肉体のまま、原初的な腕力で、こちらの首を絞める。
キャッスルを英雄視する貶められたカメラマンの妻は、いまやかつて主人公に映画の喜びを知らしめ夢中にさせた女優の俤をすべて消し去って、醜悪に肌を密着させる。
キャッスルの愛人だったオルガは、まるでその名が語るように、肉を交わさないヨガの手法で最高のオルガスムスを与えてくる。
60年代フランスの典型的なインテリ哲学者の元から主人公の元へとやってきた女学生も、キャッスルの魔手に侵されて(教団の教理は、子供のを産まないことだから)、主人公が性的不能になった事実をあからさまにして去っていく。

こうして多面的に捉えられたと思われる四人の女性の姿は、明らかに男性の捉える集合体に過ぎず、捉え残された、忘れ去れた影こそと、読者を憤怒させることに成功している。
また、過剰な不快感というならば、マックス・キャッスル作品の描写以上に、キャッスルの後継者であり、教団の洗脳部隊ともいうべき「若き天才」の作品は、グロテスクを極め、嘔吐を催さずにはいられない。

もうひとつ気になることは、これだけの分量においていわゆる空虚で形而上的な言葉を一切用いず、同時に一瞬も飽きさせずに(訳出の妙も素晴らしいです…とはいえ、導入部は少々苛々させられましたが)映像と映画を取り巻く60年代の情況、そして魅惑的な人物像を描き出しでいながら、消失しているものがある。
豊穣な五感への訴追に目を回しながら、ふと冷静になる瞬間がある。
ここまでくると、これは作者の意図としか思われないのだが。

常に――主人公の姿が見えない。
勿論、彼には名前があり、喋り、感じ、懊悩する。
けれど、この大枚の中で、一度たりとも彼の容姿について描かれている部分がないのである。
ありふれた「一人称」の物語として片付けられないほど、消えてしまっている。
そう、彼の映画館でフィルムに釘付けになる目(五感)も、女の肌を触れる肉体も、最終的には思考する脳さえも。
すべては、収録するものになっていると感じたのは、いきすぎなのだろうか。
彼は、まさにバイオカメラ(笑)、オブスキュラマキーナ(いい加減)。
最後まで己が一体の精巧な機械であることを認知することがなかった彼は、架空世界を現実に肉薄させるために産み出された「道化」として、今も、マックス・キャッスルのフィルモグラフィーを整理し続けているのだろう。


最後に。
蛇足だが、改めて興味を抱いたので、こんな疑問符を。
テレビという媒体が、映画と異なる最大の点は、真の黒が表現できるか否かにかかっているらしい。
ビデオやDVDといったソフトを用いて、今では簡単に家庭で映像を楽しみことができるようになっているけれど、さてフィルム変換方法はどうなっているのか、というのが疑問。
単純作業が、世の倣いなのか。
サブリミナルはさておき、作中でキャッスル監督が多用した光の明滅は、テレビの中ではどんな風になるのかなと思うわけです。
遠い昔、ゾーエトロープに恐れをなした教団は、1/24秒以上の速度変化を認識できない人間の目に潜む「隙間」にまさしく盲点を突こうとしたけど、安易に移行しつつあるフィルムとテレビの間にも、なんだか不気味なものが隠れているような気がしてならないのでした。

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**************

読了まで三週かかりました。
一日50頁目標が100になっても終わらず四苦八苦。
家では本を読めない絹子が、寝る前に読書生活なんてという日々で。
挙句読み終えてから、ボンヤリしているうちに三週間。
相変わらずの体たらくですみません。
でもまあ、こんなどえらい法螺話が書けるのは、日本人じゃ今のところ見当たらないような気もします。
読めてよかったです。

さて、感想は随所で見られますが、ここのマックス・キャッスルとは誰なのか!に迫った一文には物凄い気迫を感じました。
この本の中には多分に遊びの要素が隠されていて、本気で立ち向かえば十年単位の時間が流れてしまうのではと、それだけオタク心をくすぐる一冊でもあるわけです。
遊び方は千変万化ありそうですが、個人的には、キャッスル作品の題名に触手が伸びました。
だって、小説の題名にはもってこいな、想像を掻き立てられるタイトルばかりなんです。
『瞳は夢を見ている』 なんてどきどきしますよ。

第二回 ズンドコ杯争奪 読んでみやがれ!感想文の会

第二回 課題図書

☆『新編 江戸の悪霊祓い師(エクソシスト)』 高田衛 筑摩学芸文庫 1994

出題者:絹山絹子
コメント:累(かさね)伝説の快刀乱麻な切り口にうっとり。がんばれ祐天上人!

感想はこちら

 
☆『フッリカー、あるいは映画の魔 上・下』  セオドア・ローザック
田中靖・訳 文春文庫 1999

出題者:素天堂
コメント:これこそ、映画の魔! 新刊を本屋さんで買うことが出来るようになって最初に選んだ本でした。ちょっと高いなと思ったけれど、おもしろくて。その本が、「このミス」年間ランクインしたときには本当にうれしかったものです。〈映画の魔力〉もですが、人類を魅了し続けた〈映画の魅力〉も存分に味わってもらいたいと思って、この作品を選びました。

感想はこちら

◇ 提出期限 10月22日


ズンドコ杯については、こちらを参照のこと。


ハロウィンまでのお祭り模様として、可愛い仕様にしてみました。
今回こそ、さっさと読了して、感想文を先にあげてやる!
でも文庫とはいえ、1000頁弱あります。規定ギリギリです。むー。

河出のゾンネンシュターン〔骰子の7の目 シュルレアリスムと画家叢書〕が発売間近にして、アマゾンから撥ねられた!
なんてこと!
(予約かけてたのに、無理なんだって。)
取引不能って、まさかここにきて、出版が見送られたとも思えず、ベルメールなんかに比べて、発行部数がめちゃくちゃ少ないのかも。
それで店頭取次だけでぜーんぶ消えちゃったのか!
もういつも思うんだけど、刷っとけ!もっと刷っとけ!
早々に書店巡りしないとなくなるー。

アマゾンで怖いなあって思うのは。
my pageなるものがあって、そこに行ったら、今まで買ったものやチェックしたものを参考にして、「ほらほらお前さん、こんなのも好きだろう。早くカートに入れちまいな」と8Gくらいの吸引力をかけてくる。
そんなこんなで、発行を知らなかった、榎本ナリコさんの漫画と、町田ひらく君の新刊予約してしまいました。
ついでに吉田良さんの球体関節人形講座とか。
あぶなー。
そして、町田引力によって、忘れていたみかんR君とかロリっ子魔力が私を呼び始めるのでした。
誰にも見せられない購入履歴。

吉田式球体関節人形制作技法書 吉田式球体関節人形制作技法書
吉田 良 (2006/09/16)
ホビージャパン
この商品の詳細を見る

ドミノ倒し再び あるいはメランコリーへの喜劇の効用

第一回 ズンドコ杯争奪 読んでみやがれ!感想文の会
指定図書:『人妻と麦藁帽子』 ラビッシュ 梅田晴夫・訳 世界文学社 1948
推薦人:素天堂
感想担当:絹山絹子



最初にザンゲ。
こんなところでも遅刻魔です。
(私、合同誌の原稿、間に合ったためしがない)
数時間、日付ごまかしてます。


うーん、うーん。
読みやがれ!の裏側に、こんな魔物が潜んでいるとは。
読み終わった瞬間、負けを確信した。
だって、頭に浮かんだ感想が。
面白かったーー。
それがどうした?
だったのだもの。
こんな強烈な笑いの洪水を目の当たりにして、ただ濁流に飲まれてアーレーと叫んでいるわけにはいかないなんて。

本書の内容に反して、あくまで真面目一辺倒に語られる解説――「(前作の解説で)不当に落とされた地位から正当な地位に戻すために」持ち上げてしまった戯作者を「過当に引き上げられたかもしれない彼の戯曲の地位をもう一度正しいところに引きおろす」ために書かれた――に対抗する気にもなれないし。
(生真面目すぎて、若い梅田氏の若気の至りぶりが可愛いかったりしますがね)

困った。困ったなあ。
もう、いっそのことファディナール君(主人公)みたいに、「ピーヒャラドンドンドンときたもんだ!」って叫んで雲隠れしたい気分です。

そもそも私は「ああ、面白かった」と畳みの上に大の字に広がって、ご満悦になれる本をたとえ漫画であっても手に取ることが少ない。
というのも完全なメランコリー気質な人間にとっては、緊張を解きほぐす弛緩剤よりも、どこかしらで同じ匂いをもつ絶望にはまだ手の届かない憂い、共感できる憂いの棘の突き出た藪の中で膝を抱えている方が、安心してしまうからなのだ。
もう一ついえば、戯曲というものを読みつけない身にとっては、眼の裏の舞台で大人数が走り回り、歌い狂う騒々しさの初体験に、眼を回してしまった。

そこで、非常に姑息な逃げ口上だけど、『人妻と麦藁帽子』と対極的な戯曲『熱いトタン屋根の上の猫』(T・ウイリアムズ)も続けざまに読んでみた。
(対極的というよりも、戯曲という要素以外は、何の接点もない)
癌の告知をされぬまま偽りの検査結果に喜ぶ農園主と、彼の誕生日に集った二組の息子夫婦たち。
両親の愛情を全く得られなかった兄夫婦は相続の分け前を貰おうと狙い、弟夫婦はアルコール依存と同性愛な疑惑で眼を覆い耳を塞ぎたくなる罵詈雑言を浴びせあう。
嵐に飲まれながらも、妙に人心地つけるのは非常に内容が精神の根幹に根ざしているせいだろう。

構造的には、『猫』はたった一晩の出来事が三幕に濃縮され、『人妻』もまた婚礼の朝から夜更けにいたる一日が怒涛のごとく流れていく。両者は狭められた次元という類似点もみせつつも、両者はあまりに異なっている。
『人妻』は幸福すぎる、いわば善人たちのファンタジーな世界を描いている。
悩みが表面的であることは、観客にスピード感や突き抜けるような爽快感を与えるという点ではひとつの正当な答えなのだと思う。
また『猫』は洗練されすぎて、泥沼から足を抜け出すことのできない。
苛立ちと剥き出しの貪欲や欺瞞に朽ちて締めつけられていく。
リアルすぎて息苦しくなるうちに、首を絞められているうちに幻覚を見そうなほどだ。
そう、シュールレアリズムとは異なる、超現実な作品である。

あるいは、こんな視点からも両者の違いは歴然としているといえる。
戯曲という形式では、独白に特化することは難しいかもしれないが、『猫』では、おのおのが眼の前に立つ他者よりも、自分を相手に対話を続ける究極に近い形式をとっている。
一方の『人妻』では、他者が不可欠だ。
誰かの発した一言が、ちょっとした何気ない行動が、まるでサラスポンダサラスポンダと回されていく皿のように、展開の要因になっていく。

ああ、こんな横道へ逸れても、何の解決にもなりゃしませんね。
じゃあ『人妻』に焦点を絞って。

数多の登場人物は、困惑を繰り返しながらも、雪玉を巨大な雪崩へと変えていく。
まさに一つの麦藁帽子を求めて、玉はえいやっと婚礼の朝、坂を転がり始める。
そして雪玉を大きくしているのは、誰あろう帽子を追っている張本人、新郎のファディナール君のせいなのだ。
間抜けの真骨頂「ピーヒャラドンドンドン」(これって、今邦訳が出ても、こう訳すのだろうか・笑)を連発しながら進む彼の後姿は、まさに彼の本性を表している。

花婿ともあろうもの、ちょっと朝のお散歩の最中に馬がオイタをしでかして、ご婦人の麦藁帽子を食っちまったからって、麦藁帽子がないと家に帰れないと嘆くご婦人を匿ったりしたら、花嫁はムキーっと怒り出す可能性大。
彼女を隠そうとアタフタする君も君なんだ。
さらには、代わりの帽子を見つけてやろうと、行った帽子屋が昔の女の店で、彼女にも色目を使い出すなんてどういう料簡だ。
君の性格は、妙にルーズで、妙に生真面目で、手が焼けてしょうがない。
そう、一番の被害者で一番のお人よしの君は、花嫁の行列を引き連れて、あちらへこちらへと街中を練り歩く。
帽子はどこだーいってね。

さあ、さっさと片付けて結婚式を挙げたいと焦れば焦るほど、騒ぎは大きくなっていく。
ドミノは倒れる。
ばかばかしいほどに、倒れる。
最初の一枚は馬が倒したかもしれないけど、加速させたのは全く持って、君のせいなんだ。
『ボートの三人男』でも我々は四方八方に倒れてゆく勢いに圧倒されたけど、『人妻』のナンセンスな倒れ方には眼を瞠る。
さらに、これが一見無鉄砲な倒れ方をしていると思ったら大間違い。
大笑いしながら目まぐるしい転倒に度肝を抜かれ、真夜中を過ぎて終幕を迎えてふっと俯瞰すれば、ドミノの辿った道筋は、大きな大きな円を描き、コツンとファディナール君の後頭部を蹴飛ばして止まったことに気づくのだ。
そう、実はラビッシュによって周到に用意された結末は、大団円と呼ぶにふさわしい幕切れになっていた。

さてどうしてその美しい円環を、我々は野放図な倒れ方なんて中盤に感じてしまうのだろう。
勿論、ここには、名脇役たちが控えているからだ。
聞かれもしていないことを延々話し続ける耳の聞こえない叔父様しかり、植木鉢を抱えたまま移動するお人よしの花嫁の父しかり、汗を拭き吹き自分の世界に浸りこむ会計士しかり。
列に割り込みつつ、茶々を挟みつつ、意味のない道化(主人公の数十倍の)を演じているように見えて、自分と世界の間に南京錠をぶら下げた彼らは、ただの道化師ではなく、ひそかにキーワードを抱えながら、ドミノの列を伸ばす効果を果たしている。

たまにはね、こんな話で頭に釘を打ち込んでみるのも悪くない。
空いた穴から吹き込む風に、憂いの騎士達は右往左往しながら、自分が何に悩んでいたかなんて、すっかり忘れてしまうだろうから。
ただ気をつけるべきことは、鼻を少しばかりつまむこと。
性にあけすけで貞節には頑なな中世の泥臭さによって引き出された、幸福の一面性(これがラビッシュの欠点というべきでしょうか。とかく鬱な人々はこれがないと落ち着きませんからね)にそっと覆いをかけておけば、100%楽しめる。

腹の底からゲラゲラ笑って、幕が下りたら酒場に繰り出して、踊り明かせば、不眠症の彼や彼女も、この日ばかりはぐっすりと眠りにつく。
メランコリーには大いにカンフル剤になるだろう。
さらにはこの漫画的な展開を、実際に三次元の空間の中で、アタフタする彼らを眺めれば、その効果は一層大きくなるだろうと思う。

同時収録された『人間嫌いとオォヴェルニュ人』も「嘘のありがたみ」を酢昆布のように噛みながら眺めていると、いつの間にか広がった穴に落ちたご主人様の陰険さも、あっけらかんと構えた女中の可愛いずるさも、抱腹絶倒な帽子の飛び交いとは違った、一種ニマニマと人の人の悪い笑いを誘うに違いない。

もしかしたら、こうした素っ頓狂な登場人物が抱えた生真面目さが、ラビッシュ自身の奥底と通じているのかもしれない。

Un_chapeau_de_paille_d_Italie.jpgUn_chapeau_paille_2A.jpg


**********

感想文って難しいと今更ながらに、考え込んでしまった。
面白さを前面に押し出す、紹介文や販促とは全く意味が違うから。
それを読んで、何を感じ取ったかを書きなさいって、良し悪しをあげつらうことの一段上層にあることなんだなとつくづく感じました。

締め切り破った上に、感想の内容も今回は大敗。
ということで、第一回ズンドコ杯は素氏に贈られました。


第一回 ズンドコ杯争奪 読んでみやがれ!感想文の会

第一回 課題図書

☆『雲を笑いとばして』 今江祥智 理論社 1991

出題者:絹山絹子
コメント:大阪のケストナー(笑)。恋愛小説を読まない人のための恋愛小説。
『明るい表通りで』がジャズなら、こっちはシャンソン。

感想文はこちら
 
☆『人妻と麦藁帽子』 ラビッシュ 梅田晴夫・訳 世界文学社 1948

出題者:素天堂
コメント:これを読んだことのある人なら共感してもらえると思うけれど、ギャグはこうでなくっちゃ。

感想文はこちら

◇ 提出期限 9月20日


■ ズンドコ杯とは?

・この先一生読まないであろう本を無理矢理読ませて、唸らせてみようという企画。
・主催:ズンドコドコドコ教会
(一日一ズンドコを功徳とし、日々愛嬌のあるドジを踏むことを無意識のうちに行う鍛錬を積んでいる)

■ 課題図書規約

・出題者が最低一回は読了し、面白いとお墨付きのもの。
・オールジャンル。漫画を含むあらゆる紙媒体。
・総頁1000以下。(この範囲なら複数刊も可)
・ただし挑戦者のバックグラウンドがないと理解不能な特定の作家論・芸術論などは除く。

■ 感想文発表形式 

・各人のブログなどで。
・原稿用紙3枚以上。
・引用を行った場合は、文字数にカウントしない。

※ 入手困難本が課題図書になっても、バカ!と叫ばず一緒に遊んでいただける方、サイトなどをお持ちの方なら、第二回以降参加可能です。
勿論、ご自身も課題図書を選定してくださる方で。
って誰もいないって・笑。

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プロフィール

絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
Twitter account:@quinutax

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