2017-04

無の塔(後)

放置された穴が、毛布の切れ端で塞がれたのは、穴が崩れて一週間目のことだった。
そして、その穴を塞いだのは、浅葉の方だった。
それを発見して、ついに、有馬は声を発した。
長い間使われなかった声帯を震わせたとき、流れ出た音は、妙に甲高くしわがれて、自分の声も忘れてしまったのではないかと思れた。

「アサバ、どうして、塞ぐんだ」
有馬もまた、隣人の名が、アサバ ヒデアキだということを知っていた。

想像していたよりずっと若い男の声に浅葉は少々躊躇ったが、それ以上に相手が沈黙を破ったことに動揺した。
その声音は、あの繊細な手指からは確かに想像できなくもない。
「穴が開いていると、覗かれているようで、堪らない。」
一週間前まで発せられてた明朗な声とはうってかわって、浅葉は陰鬱で投げやりな口調で話した。
彼は濁った水差しから、浴びるように水を飲む。

「俺には、覗きの趣味はない」
言い切る有馬の声は、決然としていた。
「今まで大見得切ってたわりには、臆病だな。
 あれだけ退屈だ、退屈だと騒いでたのに、どうかしたんだ。
 紙と鉛筆があるから、駒を作ってチェスでもしてやろうかと思って用意していたんだ、どうだやらないか」
「いらない」

言葉を吐き捨てた浅葉は、立ち上がり、別の壁を蹴り始めた。
無性に腹が立った。
人の気も知らずに、何がチェスだ・・・。
「そんなに蹴っても足を痛めるだけだ。揺らすのがいいんなら、紙相撲でもしようか」
無口で、律儀で、そして綺麗な手をしたお気に入りの隣人が、厭味たらしい男に変ってしまった。
「沈黙は金」ではないが、言葉を介在しない分、今までいいように想像していた、自分の甘さに嫌気が差した。
たとえどんな容姿をしていても、食えない奴にちがいない。

なおも壁に八当たりを続け、上がる息を押し分けて、浅葉は相手を罵った。
「うるせえ、俺は子供じゃねえんだよ。
 おまえが、その生白い手を出してくるからいけないんだ。それが・・・・それが、俺をおかしくする」

おかしくするだって・・・くくっ、と有馬は、抑えられない笑いを封じようとした。
子供ではなくても、大声で毎日話していたのは自分を顕示する虚勢だったにちがいない。
それよりも、たった一度きり差し出した自分の左手に欲情するなんて、この男、面白すぎる。
今まで相手を誘惑しよう幾重もの媚を売ってきたが、意図しない仕草までが男を誘うのか。
女の話ばかりしていたアサバという奴が、知らず知らずに男に発情し、戸惑っている。

「こいつは俺に従う」というぼんやりとした思いが、有馬の表情を変えた。
かつて、他人を屈服させたいと思ったことはなかった。
しかし、自分は服従したように見せかけるのが上手かっただけだと、思い返しもした。


狭い穴に、押し込まれた布を引っ張る。
「堪らない」といった、浅葉の心情を裏打ちするように、穴は神経質に固く封じられていた。
有馬は勢いよくそれを引き抜き、鼻に押し当てて、煽った。
「臭うな、これ何の臭いだっけ。汗だけじゃないな、草を刈ったばかりの青いすえた臭いだ。
 俺の毛布はこんな臭いしないぞ。まさか、これにべっとりおまえのスペルマが付いてるんじゃないのか」
「やめろ、俺はただ、穴を塞いだだけだろ」
「そうか、でも俺、この臭いかいでるとおかしくなるんだよ。おまえがおかしくなったのと、同じ意味でな」
「変な言いがかりつけるんじゃねえよ、もう、ほっといてくれ。喋りかけるな」
「そうはいかないさ。今まで散々おまえの話を聞いてやったろ。
 言葉はなくっても、ちゃんと相手もしてた。今度は俺の話をきく番だ」
「勝手に喋りたきゃ、喋りやがれ。俺は、お前の話なんて聴かない」
「ははは。じゃあ、何も話さなくていいから、ここに来て、お前の指を見せてくれ。
 ずっと自慢げに話してた彫刻家の指とやらが見たいんだよ」
「くそっ、誰が見せるか」

苛立つ浅葉は、怒りの矛先をその穴に向けた。
元々、思考よりも行動が先に出るタイプだから、ぼろぼろになった靴のつま先に血が滲み、痺れが腰に届いても、壁を蹴ることが止められなかった。
有馬は、予想以上に愚かしい奴だと思いながら、時折確かに広がっていく穴を横目に見ながら、悠然と辞書を繰っていた。


この監獄には、電気も通わず、灯火さえも与えられていない。
だから、日が暮れれば、晧々と月でも照らない限り、文字を操ることは不可能になる。
辞書を枕に有馬は、浅い眠りについた。
浅葉は、穴の位置さえ不確かになるほど、房が闇に包まれても、ひたすら短い呪詛の言葉を吐きながら、壁を蹴っていた。

翌朝、有馬は案の定、最近まで握りこぶし大に過ぎなかった問題の穴が、頭を通すことができるまでに広がっているのを見て、唇を狡猾そうに曲げたのだった。

きっとあいつは、二度と関わりたくないと宣言しながら、必ず俺に擦り寄ってくる。
孤独に耐えられるタイプじゃないんだ。
アメとムチでいうなら、勿論アメを欲しがる奴だろうが、適度な責苦も必要だ。


有馬は決して、焦ろうとはしなかった。
ここでは、時間だけは恐ろしいまでに与えられている。
だから、己の忍耐さえ続けば、いくらでも、浅葉に変化が訪れることを待つことが出来たし、実際、じりじりと餌を供じては、相手がじれるのを待つことは、楽しくさえあった。

例えば、有馬は、こんな餌を撒いてみた。
指を差し出させるために。

「この手の上に指を乗せてみろ。忘れていた人肌にあえるぞ」
投げ出された白い有馬の手に、半日後、浅葉の指がおずおずと触れた。
人形のように動かなかった手は瞬時にきつく指を掴んで、穴へと引きこまれた。
「洗ってやる」
有馬は、まだ性的な匂いを封じたまま、浅葉の爪の間に挟まった小さな砂粒を水差しの水を使って、丁寧に取り除いた。

性器を差し出させるために。

「暇つぶしに、クイズを出そう。互いの陰毛の色と本数をあてるんだ」
「・・・・・・・・・」
「黙っていてもつまらないな。アサバの指の感触からいくと、お前のは少し傷んだ褐色だろう。本数は、300」
「・・・・・・・・・」
「明日数数えるからな、下着を脱いで、ここに出せよ。俺が当ってたら、何本かちぎらせるよ」


愚かしい誘惑。
穴を通して出された指を撫でさすり、陰毛をちぎり、性器を口に含んでやる。
「ああああ・・・・・二度とこんな・・・ああっ・・・いや・・い・・・く」
罵りながら陥落し、蔑みながら抑止できない、それが浅葉を追い詰めた。


有馬は、故意に偽装をしていたつもりはなかったが、浅葉の側から見れば、一枚、一枚と白い布が打ち払われて、次第に滲み出た毒々しい色に怖気づいている頃だろうか。
先に、手持ちのカードを寂しさゆえに晒してしまった浅葉にとって、相手を翻弄する手だては残されていない。
一方の有馬は、意図せずとも守ってきた沈黙によって、明らかな優勢を勝ち得ていた。

本当は、有馬にだって何の秘密もないと思いさえすれば、そこまで浅葉が萎縮することはなかったのだ。
だが、浅葉には恐怖にも似た感覚が、壁の向こうからひたひたと迫ってくるのを感じていた。
言葉が(いつしかそれは、誘惑から命令へと変わっていた)、一つ投げられるたびに、決まって、長い沈黙が挿まれる。
浅葉は、与えられた瞬間には、馬鹿馬鹿しくて聴いていられないはずの命令が、相手がじっと待ち続けているという時間に、じりじりと臓腑を焼くのを感じた。
それは、服従を意味した。

接触とは、ニ者の間に幾重にも張り巡らされた結界を打ち崩すことだ。
他者を屈服させるのに、性行為が用いられることが多いのは、それが多くの者にとって、原初的な反応を引き出し、剥き出しの羞恥を晒すことを余儀なくするからである。


有馬は決して、自分の快楽のバロメータを浅葉に読ませることはしなかった。
どんなに、彼が浅ましい声をあげ、穴の隙間から見える肉体の一部品が扇情的であっても、それに対して時に、己自身が滾ることがあっても、決して、それを表には見せなかった。
相手にはいくらでも放出を許したが、自分には許さなかった。

熱が溜まり、触れるだけで破裂しそうになっていたのは、本当は有馬の方だった。
だが、それを、おくびにも出さない。
耐えれば耐えるほど、浅葉には嗜虐的であるのに、その身には、被虐的な悦楽が充満していくのを感じていた。
明け方の白い光の中で、夢精によって零れた飛沫が、有馬の眠りを妨げることもしばしばだったが、決してそれを惨めたらしいものだとは思わなかった。

勿論、開いた穴の大きさからすれば、お互いの房に首を突き出すことは、可能だった。
しかし、穴が開いてから一度も、有馬と浅葉は、もっと直載的な部分は通過させても、決してお互いの顔を見合わせることはなかった。
残された疑問符によって、互いの空白部分を想像していたのは、もう随分前のことだった。
今は、補填しようとする意志さえない。
ただ、あるがままの互いを欠片をもって脳に携え、互いの神経を削り取ることで、生きていることを実感していた。

声と性器と指先と・・・もし存在するならば、幾ばくかの感情。
それらだけが、この無の塔に偶発的に生まれた「穴」を通過したものたちだった。

アンビバレンツな時間が、堅牢な監獄に浮遊していた。


浅葉の丸まった背中に憂鬱が宿す明かりが、見えない壁の向こうで明滅する。
そんな、やけに静謐な時間、有馬はぼんやりと四角い空を眺め、そこに細々とした、欠片を見ることもあった。
砂漠に雪がちらつくなんてことあるんだろうか。
欠片は、お互いの本当の姿を形作る、パズルのピースのようで、手を伸ばして集めなければならないものなのに、手の上にのせた途端、虚しく消えていくもののようだった。


「こっちに尻をむけろ!」
「なめてやる!」
「しごけ!」

雪の一粒は、命令と共に黒く滲んでいった。
内臓を病んだ汚れた水に棲む山椒魚が、無言で口にするヘドロを見てるようだった。

「ああ・・・・いやだあ・・・やめてく・・れ」

哀願と官能に満ちた声が、浅葉の絶望を刻み出す。
いつしか有馬は、辞書を繰る指を止めた。
命令を下すたびに、浅葉がそれを無視し、二度と口をきかず、二度と痴態をさらさないことを何処かで願うようになった。

気付くがいい、俺の発する言葉に何の意味も存在しないことを。
だが、必ず浅葉は不埒で淫猥な指示に陥落した。
そのことを、苛立たしく思う一方で、有馬は愛しいとさえ感じていた。


砂塵が目を焼き、耳を塞ぎ、口を穢す、日々。
それにも、いつか、終止符が打たれる。




それぞれの独居房に五百回目の朝日が差し込んだ日、いつもの老監守とは違う、だらしなく肥えた男が有馬のもとに現れた。
男はカーキ色の軍服を身に着けていたが、勲章のひとつも飾られていないことから見ても、さして地位が高いとも思われない。
有馬のノートを拾い上げ、気ぜわしく頁を繰り、こう言った。
「刑期は満了した。今から半年、思想改造をしてもらう」
「思ったより早く釈放されるんだな。
 それとも、おまえが誓いを立てた政権はすっかり腰抜けになったのか」

「だまれ」
先の丸まった軍靴で、有馬の顎を男は思いきり蹴り上げた。
有馬の体は一旦宙に浮き、砂がざらつく床に激しく叩き落された。
「ぺっ」吐き出された唾には、血が滲む。
しかし、見上げた彼の表情は男を小馬鹿にした薄笑いだった。
「調子に乗るな。ここから出すというだけで、何も自由になったわけじゃない。反抗的な態度を続けるようなら、ここに戻す」


浅葉は、その日の朝、見上げた空の様子に、不可解な気配を感じていた。
朝だというのに、空は茜色から茶褐色へのグラデーションをなしている。
朝焼けといえばそれまでだが、砂漠には珍しい雨が期待されるという割には、雲は筆で軽く刷いたようなわずかな姿しか見えず、ただ風が、生臭い匂いを孕んだ風が渦巻いているように感じた。

有馬の監房に、見知らぬ奴が訪ねてきたことは、すぐに気がついた。
どうやら、あいつはここから出ていくらしい。
それで、いいんだ。虚しく弄ばれる日々が終る。
結局お互いの姿は見なかったんだから、何年か先、俺が出所したところで、お互いを見つけることはできないだろう。
俺を気晴らし程度にしか思っていないだろうから、こんな閉鎖的な出来事は忘れてしまうだろう。

浅葉は、全身から自分を支えている力が床に流れだすのを感じた。
骨を取り巻く繊細な筋肉の一本一本が、急激に脱血したように眠りはじめる。


有馬は、軍人に対し服従するそぶりも見せなかった。
「おい、片付けがしたい、五分だけ外で待ってくれ」
「何を片付けるものがあるって言うんだ。
 それをもって出ればいいだけだろう。
 それとも何か隠してる物があって、目を離した隙に捨てる気か」

男は訝しげに周囲を見渡したが、例の穴は有馬の座っている場所と一番離れていた為に、薄暗さで目には留まらない。
「何もないさ。じゃあ、五分間、これで引き換えでどうだ」
膝立ちになった有馬はいきなり、皮ベルトで無理矢理締め上げられた腹部、垂れ下がった臀部を撫で回し、素早くファスナーをおろした。
怯んで後ろに下がろうとする男の腰を抱き寄せ、陰部を容赦なく口に含み、舌技を施しながら、余裕のまなざしで見上げる。

砂漠に駐屯する彼らが、狭い官舎で性欲をもてあましていることは、よくわかっていた。
爆発寸前で口を離し、ちろちろと亀頭をくすぐる。
かつて、この赤黒い重力に逆らって屹立する陽物は、欺瞞に満ちた法悦を演じ、組織に利を齎すために咥えこんだ棒っ切れだった。
そして、男根は任務を果す砦である一方で、くすぶる憎悪の対象でもあった。
冷徹な有馬も、時に容赦なく男根を食いちぎり、精液よりも遥かに濃縮された汚穢である血液を身に浴びて、苦々しく水場で嘔吐を繰り返したことがあった。
しかし、今は「組織」のためでない、「己」のための行動を実行しているのだ。

「ねえ、僕のお願いきいてくれるでしょ」
一旦口を離した有馬は、甘ったるい、白々しいまでの阿りの言葉を、男の耳元に囁きかけた。
浅葉が聴いていたなら、背筋を凍らせたかもしれない。
「・・・はっ、わかった・・・・」
汗の噴き出す、むさ苦しい顔を歪ませた男は、急かすように腰を突き出し、諾と答えた。


掴んだ五分間で、有馬は何をしたか。
砂が底に溜まった水差しから、汚れた水を含み、舌に絡まる青臭い大量の異物を漱ぎ落とした。
そして、素早く浅葉に声を掛けたのだ。

「アサバ、こい。ここに来て、手を出せ。最後の命令だ。時間がない、早くしろ」
怒気を含んだ、かつてないほどの厳しい口調に、浅葉はびくっと反応した。
ベッドからまさにごろりと床に落ち、延髄反射のごとくあの穴へ、目も空ろに近寄っていく。
おずおずと生気なく差し出された左手を掴んだ有馬は、取り出したナイフで手の甲とひらに、大きく十字を描いた。

彼は男が達する瞬間を狙って、ベルトに挟まれた小型のジャックナイフを抜き取っていた。
たとえ与えられた時間が多くあったとしても、決して有馬は躊躇うことなどなかったろうが、寸分の容赦もなく「刻印」を行ったのだった。

「ああああっ」
中空で浮遊していた緩慢な意識が、全て熱砂となって、左手に突き刺さる。
半睡状態の五感が急激に鋭敏になった。
描かれた接縁からみるみるうちに膨らんだ赤い滴は、十字を流すように重力に従って、手首を伝い垂れてゆく。

「静かにしろ、太い血管や神経には達していない筈だ。すぐにこいつで傷を押さえろ」
もう一つ、兵士から盗み出した比較的新しいタオルを穴にさし込んでくる。

「いいか、毎日朝一番の綺麗な水でここを洗うんだ。
 膿が全身をめぐるようなことは許さない。
 お前は、殺人犯だといったな。刑期は恐らく五年前後だ。
 それまでならこの印は消えない。お前がここを出たら必ず見つけ出す。
 その時、お前を抱いてやるよ。いいな、これは最後の命令だ。
 まあ、お前が二度と俺に遇いたくなどない思っていても、必ず見つけるから、覚悟しとけよ。ふふっ」

短い湿った風のような、最後の有馬の笑い声。
軋む重い扉を閉じる音が響く。
長い螺旋怪談を下っていく二つの足音も次第に遠ざかる。


一体、自分を何様だと思って、あいつは命令しているんだ。
タオルの繊維がみるみるうちに、血を吸い上げてゆく。
有馬の科白はぞっとするほど高圧的で、凄味があったのに、最後に聞こえた微かな空気の揺れが、浅葉を安堵させた。

二人の間にあったのは、閉塞された空間においてのみ成立する、擬似恋愛ではなかったか。
お互いの顔も知らない。
わずかな言葉によってだけ、酌み交わされた交情。
いや、それもおぼつかない、あったのは、性器を擦り合わせるだけの、自慰行為だけ。
例えば、がむしゃらに壁を打ち崩し、穴を広げ、手を取り合ったところで何があったというのだろう。
「唇」という粘膜を重ね、肌と肌を重ねることができたとして、何かが変わっただろうか。

未来を約束することに、何の意味がある?

不意に、残された浅葉の胸に乾いた笑いが込み上げてきた。

五年待って、俺を探し出すだと?
俺は、それまでお前のことを思ってマスでもかいてろって言うのかよ。
勝手に人の体に傷まで残しやがって。
馬鹿にするなって・・・・・・。

**********

当時のあとがきにはこんなことが書いてある。

参考文献は、埴谷雄高氏の政治論文集、準詩集、高橋和巳氏の「悲の器」「日本の悪霊」、それから加賀乙彦氏の「死刑囚の記録」あたり。
高橋和巳氏の文章は、非常に乾いています。
60年代安保付近の時代背景色濃いこれらの作品は、湿度がないように見えて、答のない矛盾と逡巡に阻まれて、酸欠状態です。
その閉塞と倦怠が、実にミステリアスに物語を押し進めるのです。
そう、全きほどに、私の憧れの文体なのです。

さて、死刑確定囚と無期懲役囚では、現れる精神病理が異なります。
拘禁ノイローゼをくりかえしながらも、いつ訪れるか知れない「死」から逃れるために、「無罪」を訴えたり、宗教へ走ったりして、一日一日を濃縮させて生きるのが前者ならば、後者は、恐ろしいほど緩慢で変化のない日々をやり過ごすために、一種の「呆け」状態を作りながら、日々を希釈しているのです。
本来ならば「無の塔」では、その刑期が知らされていないことによって、如何なる精神障害を引き起こし、切迫した状況を生み出すかを描かねばなりませんでした。(いや、全然書けてないです)

とかんなんとか…(笑)

いつの時代にも絹子には【元ネタ】があったけど、妄想の丈がもっともっと高かったな。
自分の欲望に忠実になるためには枯渇が必要で、空洞が小さくなったら書けないというのは、じゃあどうしたらいいんだ?という気持ちにもなりました。
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無の塔(前)

ここに砂漠に建つ一つの塔がある。
下から眺めると、堅牢な石組が全てを拒絶しているようだが、中程を過ぎると直径を結ぶ対称点に小さな窓が規則正しく並んでいることがわかる。
円柱の中心を貫く長い螺旋階段を上っていくとやがて、一つの鉄扉が目に入る。
扉は頑強で、ほんの小さな覗き窓がついているだけだ。
その鉄扉の正面に、同じ仕様の扉がある。
ランタンを掲げて暗闇を切り裂けば、緩やかに先細る尖塔に向かって、吸い込まれるような相似形が見える。
同じ高さに馬蹄を大きく広げた形の独居房が頂まで双部屋ずつ配列されているのだ。
ここは、つまり監獄である。

ここでは、労働も集団訓練もない、ただ刑期を了するのを待つだけの日々あるのみ。
刑期は囚人によって、まちまちだ。
一生を砂粒と孤独に委ねる者もいるという。
何よりも受刑者を懼れさせていたことは、自分の刑期を知らされないということだ。
釈放される「明日」を信じればこそ、忍耐も生まれる。
「明日」を待てなくなって、窓からその身を躍らせる事も一つの道だったが、死を選択する数時間後、数分後に、解放の扉が開かれる希望もある。
そうして彼らは、自分の選択すべき道を考えれば考えるほど、うずくまってしまうのだった。


ここでは、収監される際に、許されることが二つだけある。
それは、一冊だけ書物を持ちこんでよいということ、そして紙とペンを持ちこんでもよいということだった。
ある日、二人の男が護送され、同じ階の二つの房に収監された。
一人は思想犯として、投獄された。
入念に検閲された後、許可された書物は、辞書であった。
もう一人は、殺人犯。
彼は何も要らぬとうそぶいたが、最後には一冊の猥本を持ちこんだ。
「何日も女を抱けないんだったら、せめておかずは必要だろう」と。

思想犯の男の名は有馬といい、年は十八、その若さで極左の幹部候補生として一目置かれていた。
他者との接触を避け、寡黙に徹し、その唇は言論闘争の場に於いてだけ、鋭利な刃となって聴衆を圧倒する。
「エコール・ド・ムシュカ」と呼ばれたセクトの集団生活基地では、その黒髪を鏡を見ながら、毎日丁寧に刈り揃える姿に皆、寒気を覚えていた。
鋏を使わず、嫌な光沢を放つ剃刀を左手に持って、背骨の隙間に器用に抑えこんだ殺意を冷えきった洗面台にわずか溢しながら、鏡を凝視していた。
有馬が投獄ざれて、不自由に思ったことは、この習慣が絶たれたことだけであった。

光に当たれば、金に輝く髪を無造作に束ねた浅葉は、反対の独房で、外に開かれた格子も硝子もない窓から空を見ていた。
ここに来てすぐに暇を持て余し、とりあえずは昼も夜も眠ってしまおうとした彼は、薄い毛布の下で、目を醒ます。

盛夏、氷を削り出し、見物客の前で透明の人魚像を生み出している時だった。
通りの向こうで、ヒモ同然の亭主が、女をなじり、頬を打つ。
一度だけ寝た女だったが、憐れに思った記憶もない。もう、女の顔さえ忘れている。
しかし、体は自然と群衆をかきわけ、「おい、やめろ」と男を掴んだ浅葉の鼻先にぷんと、嫌な匂いがした。
肉塊の襞と襞の間から漂う、吐き気を催す汗の匂いが、体中の血を逆流させる。
「殺してやる」とかつて吠え立て抗いつづけた、憎い父親と同じ匂いだと思った。
握った鑿(のみ)が、過剰な太陽光で卑らしいほどぎらついた。
冷えきっていた指に血飛沫が当たり、瞬時に腐乱したような気がした。

その光景が自動反復される。再生してくれと頼んでもいないのに。
匂いのある夢なんて、反吐が出る。
眠る事も叶わぬのなら、せめて喋る相手が欲しい。
浅葉は、日に二回食事を運んでくる老監守に話しかけたが、全く取り合っては貰えなかった。
その内、向かいの房に人が入っている事が分かった。
向かいといっても、鉄扉の左右にある壁一枚を隔てているだけだ。

「おい、隣の奴。毎日暇だろ、何か話でもしようぜ」
丁度、浅葉が石壁を叩き声をかけてきた時、壁の裏側に凭れていた有馬は、煩わしいと眉をひそめて窓のほうに体を寄せた。
彼は、連日一冊の辞書を冒頭から一字一句ずつ読んでいた。
一日に読む頁数も厳しく区切っていた。
解放までの日数を「五年」と仮定して、その規定値を割り出していたが、早く読み終わって絶望や退屈の虫にとりつかれないように、一日の残りの時間は、思索の時間としていた。
こうした己を極度に律することが、なによりの精神の安定剤だと有馬は信じていたのだ。

「なあ、おまえは何で捕まったの?強盗?薬?
俺は、捕まるなら、その昔にあった姦通罪とかがよかったな、ジゴロな雰囲気でいいだろ」
「俺、氷の卸作業やってる傍ら、石を彫るのが仕事なんだ。夏場は、氷の彫像を何体も作る」
最初の数日は、身の上話を一方的に語っていた。
自分の犯した罪には触れたくないのか、「殺し」と壁を越えられない小さな声で一言につづめた。
子供の頃のこと、石や氷を彫る微妙なコツ、女の口説き方、日を追うごとに有馬も自然と耳を傾けていた。
耳障りに思えた話も、次第に声が小さくなると、壁に耳を当てるようになった。
かしましいお喋りというよりも、相手に聴くことを強要しない、けれど一局しかないラジオ放送のようだった。

ある日、遂に話す事がつきたのか、激しい砂嵐に嫌気がさしたのか、浅葉は壁を蹴飛ばして叫んだ。
「おい、そこにいるんだろ。聴いてるなら、一回ぐらい返事しやがれ」
ドス、ドス、ドス。
何度か蹴っては、部屋の中を歩きまわり、また蹴る。
有馬も伸びた髪が首筋を擦り、砂粒が絡みつく鬱陶しさに、苛立っていただけに、返事などするものかと反対の壁へと移動する。
それを察したのか、浅葉も反対側の壁を蹴り始めた。
窓際は、砂が多くて近付く気になれない。
有馬は次第に交互の壁へと移動するのにも疲れ、相手の癇癪がやむのを待っていた。
しかし、日が傾くまで、息を切らせて浅葉は壁にぶつかってくる。
思索以外にすることがあるわけではないが、こんな無意味な諍いを続けても仕方がないと、ついに有馬は立ち上がり、一度だけ壁を蹴った。

急に浅葉は静かになった。
よくもあれだけ音を立てておいて、こっちの反応が聴き取れたものだ、さあ、これからどうする。
こんな風に相手の出方を伺う自分の姿に呆れて、有馬が辞書を手に取ろうとしたとき、向こうから声がかかった。
「おまえ、今まで何人の女と寝た?」
ドス。
また間が開いた。
「はっはははは」、塔全体に響き渡るのではないかというほどの大きな笑い声だった。
別に気にすることでもない。

十五で有馬は肉体を餌として使う術を知った。
それも男相手に。
いままでに女と寝たのは、潜入先で不意を打たれて、女性幹部に媚を売る必要に迫られた一度きりだった。
身の危険を感じたとき、命乞いをする代わりに男の性器を平然としゃぶり、情報を得るためには汗臭い腹の上に跨って、最奥へと導いた。
敵にわずかな優越感と、充足感と、激しい射精を味あわせた後、情報を引き出し、首を掻き切る。
人を殺めた数も両の手を越えてはいたが、その事実は闇に葬られ、今回の投獄には、ただの「思想犯」として刑期を全うすればよかった。

本当は命が惜しいなどというよりも、男と寝るという手段が、救われない己の精神を貶めるのに何より相応しいと、陶酔していたのかもしれない。
だから下劣な輩に押し倒され、殴られ、前戯なしに突っ込まれ、黒ずんだ血が股の間を伝うほうが、有馬にとってはずっと気が楽だった。
そういう男たちは、自分の精の放出しか求めていないのだから。
噴き上げた精液の濃さや回数に、破顔している奴の方がずっと扱いやすい。
高慢ぶったインテリは、有馬の青い肉体に快楽を教えるのは自分だといわんばかりに、湿度の高い愛撫を繰り返し、老獪な連中は、彼の快楽の行方をじっと凝視することに終始する。
我を失わない彼らには、時間をかけて油断させるしかない。
それでも羞恥と淫乱の顔を上手く使い分けることで、彼は乗り切ってきた。

監獄における有馬の日課は辞書を捲る手を止めて、思念に引っ掛かる一語を手がかりに、意識を空に飛ばすことだ。
「搾取」「邯鄲」「循環」「軌範」「虚数」「哀恤」・・・・。
きっとここを出たときには、世界の状況も組織の思想も変遷し、考えていることは全て役に立たなくなるかもしれない。
元々、「ムシュカ」に籍を置いたことも、現世における自分の座標点を一時的に模索した結果に過ぎないのだから、組織への帰還を望む理由もないのだ。
呼吸など、肺や心臓に任せておけばいい。
食事など、極生理的な内臓器官の存在理由であって、細胞レベルの「生きる」という作用にしか繋がらない。
思考の継続だけが、他者と自己の境界線であり、己の存在理由となりうる、そう有馬は信じていた。

「おい、話してもいいか?」
有馬が一旦返答をしてから、浅葉は相手の機嫌を探るためにこう切り出すようになった。
ドス。
僅かに拳を壁に当てて、小さな同意の音が響く。
それは、塔の上部から他の囚人が発する雑音よりもずっとささやかな音ではあったが、浅葉は決して聞き逃すことはなかった。

毎日、浅葉が他愛のない質問を繰り返し、有馬が壁を打って答える、新たな日常が生まれた。
YESは一回、NOは0回、あとは数字で答えられる問いかけばかりだ。
有馬は、次第に思索する時間を少し削って、この遊びに付き合うようになった。
答えに合わせて、浅葉はこれまた馬鹿馬鹿しい思い出話をする。
しかし、何時の間にか、つまらないとは思いながら、有馬は自然と耳を傾けていた。
決して、どんな話を聞いても、笑うことなどなかったし、時には浅葉の発した廉価な言葉から新たな思索に没入し、返事が疎かになることもしばしばだったが。

壁一枚とはいえ、相手の表情も動作も見えぬ状況でも、浅葉は敏感に潮時を察して、口を噤み、毛布に包まった。
目を閉じるとまだ、血飛沫の臭いが鼻につく。
爪の間から、干からびて黒ずんだ血がはらはらと床の砂に混じる気がする。
ここに来てから、新たに目にしたものがない。
かつて暮らした街では、あんなに鮮やかに変化した空の色や雲の流れさえも、砂漠においては、「単調」の加担者に過ぎない。

浅葉は痩せて薄くなった己の胸に、どさりと圧し掛かってくる血まみれの肉塊を払いのける術が欲しかった。
なんでもいい、忘れさせてくれ。
働けというなら、いくらでも働いてやる。
全身から吹き出す汗と共に、何度も繰り返される虚像と腐臭が少しでも消えてはくれるはずだ。
単独受刑の恐ろしさは、この冷酷ないつ果てるともわからない「単調」に集約されていた。


ところで、外見上陰鬱に見える人間にも二種類あって、それは自己との対峙の仕方によって判別される。
自意識と自己の現状を過剰に連動させ、一歩ずつ後退し、フサギの虫にとりつかれるタイプ。
彼にとって世界は、自己を矮小化させ、卑屈にさせる物差しに過ぎない。

もう一方は、自意識を宙空に浮かせ、自己を他者のごとく客観視するタイプ。
彼にとって世界は、仮の住まいに過ぎない。
醒めた視線をさまよわせ、物事を心底愉しまず、退屈の虫にとりつかれるタイプ。

有馬は、完全に後者であった。
彼は、勤勉で弁達者であり、指導者の意志を100%理解し、隙のない理論武装で幾人もの反抗分子を論破してきたが、決して100%を越える言葉を吐こうとはしなかった。
なぜなら、有馬は与えられた思想や理論に指導者さえ気付かないうちに更なる滋味を加える術を知ってはいたが、出る杭が確実に彼らにとって癇質の的になることも熟知していたからだ。
とどのつまり、有馬の根底に流れるのは厭世的な無類の保守精神であって、極左に身を措くこと自体、訝しいことだったかもしれない。

社会変革を求めているのでもない。
勿論、思想や理論の実践には価値が見出せない。
だが、胸の奥底に、誰とも相容れない陰鬱な抗いの矢を押し隠して、孤独を貫くことが、つまらない日常に色彩を添える遊戯に思えたのだろう。
肉体ばかり鍛えて、あからさまに爆弾を抱えて突入するより、薄口のぺティナイフ一本を秘所に隠し、裸体を晒して潜入する方が、彼の美学にはわずか近かった。
「死」はすぐ隣にあってしかるべきものであり、いつ彼岸へ旅立とうとも、それも倦怠から解放される一つの手段だと、有馬は達観していた。

新たな情報を手土産に、有馬が「エコール・ド・ムシュカ」に辿りついた時、高尚な思想集団には司直の手が入っていたが、彼らは予め決められた基地へと移動しており、幾人かの人員を効率よく斬り捨てることで、壊滅の危機を免れていた。
『情けをかけられしクサは、もはやクサではない』
冷徹な掟がそこには敷かれていて、裏切者はもとより、愚かに捕まったものにも刺客が放たれると、組織では聞かされていた。
たとえそれが、空虚な仮の棲み家の掟だとしても、権力を振りかざされるまでもなく、有馬にはこうした組織の制裁は甘んじて受ける覚悟が出来ていた。
敵陣で全ての秘密を守ったとしても、縛についたこと自体が、彼には非常な屈辱であったのだから。
しかし実質的には「国家」という敵には、投獄以外の懲罰は思いつかないようだったし、在籍していたセクトにも、刺客を送る程の厳格さもなかったらしい。
彼は己が制裁の標的にならないことに、逆に僅かばかり歯がゆさを感じていた。


二人が投獄されてから、二ヶ月余りが経った或る日、ちょっとした出来事が起きた。
浅葉が蹴りすぎた壁の一部が、欠落したのだ。
崩れた破片は、勢いよく有馬の独房に転がってきた。
いずれの部屋も光量は少ないから、開いた穴から漏れ出す光はない。
有馬はじっと、隣室の男の動きを窺っていた。

何の前触れもなくその穴が開いたとき、浅葉は怯んだ。
そこを突き崩せば、相手が見える、ゆっくり向きあって話ができる。
人懐っこい彼が、ここ数ヶ月望んでいた小さな希望がそこにある筈だった。

不可解なことに、今まで饒舌だった浅葉はそこに近付こうともしなかった。
退屈な日々に変化を与えてくれる絶好の対象であるはずなのに、穴から手を出してみる事も、再び蹴って穴を広げようとも、
そしてその穴について口を開くことさえしなかった。
逆に一番離れた壁にもたれて、空を眺めていた。
こんな時、砂漠の空には珍しい雲を迎えていたが、それは白濁した変化に乏しい景色で、何の面白みもなかった。

なぜ、浅葉は穴に近付かないのだろう。
彼は、決して物を言わず、ただイエス・ノーの信号だけを送り返す、淡白な隣人の態度が気に入っていた。
勿論、最初は「気取ってやがる」とか「暗い奴」と罵ってはみたものの、そうした悪態が壁に反射して己に撥ね返ってくる居心地の悪さに、何ともやりきれない気分を味わっていた。
それに、散々つまらない女の話をしても、「おい、聞いているか」と尋ねれば、即座に反応が返ってくる、何の義理立ても必要のないこの場所で、律儀な奴だと感心もしたのだった。
今までの浅葉なら、気に入った相手には、とことん擦り寄っていった。
しかし、今回は気に入ったとはいえ、相手の声さえ聞いていない、年齢も人相もわからない囚人だ。
投獄の理由さえ、「殺人」「窃盗」ではないとは聞き出せたが、「思想犯」などという語彙に恵まれない彼にとっては、相手の素姓を確かめる質問すら見つからず、ますますつかみ所がなかった。

たかだか、監獄で隣り合っただけの人間に、それほど悩む必要もない。
それでも、ここで意志の疎通ができるのは、こいつしかいないんだからと、相手を刺激して嫌われてしまう自分を想像して、頑なに動けなくなっていた。

先に行動を起こしたのは、有馬の方だった。
さすがに彼も、穴が開いたことに驚きはしたが、これでこの塔から脱走できる手立てが出来た訳でもない。
そう思うと、さしたる興味も湧かなかったのだ。
それより、あれだけ毎日話しかけてきた隣人の動きが急に静まってしまったことのほうが、気に掛かった。
まさかとは思うが、強く蹴りすぎて、足を痛めているのではないか。
食事と排泄物の処理以外、ここでは何も補償されていない。
病に冒されていようと、緩慢な自死を助長するように、放置されると聞いていた。
そもそも「国家」は、害虫どもがみずからの手を汚すことなく、自滅してくれることを望んでいるのだ。

白い有馬の手が、穴をすりぬけて浅葉の房に侵入して来た時、ずくっと生温いものが浅葉の胸の辺りを疼かせた。
ここに来て二ヶ月余り、直射日光に当たることが減ったとはいえ、いつも屋外で肉体労働をしていた浅葉の体は、まだまだ浅黒かった。
なのに、目にしたその指は、その掌は、黒く煤けた石壁から浮きあがってみえた。
色だけではない、傷跡も、関節の節くれも、静脈が形作った小さな瘤もみえない、するりとした手なのだ。

隣にいる人間が男だということを、浅葉は承知していた。
監守が何度か間違って運んだ食事に、「アリマ ソウイチロウ」のネームタグがついていたからだ。
それに、この塔には男しか投獄されないと噂にきいたこともあった。
あれが男の手だとしたら、やけにそそる手だと思った。

白い手は、わずか数秒しか見えなかったはずだ。
しかし、浅葉はその「手」の幻覚にうなされた。
「手」は誘い、体を這い回る。握る、促す。
収監されてすぐに、猥本はベッドの下に投げ捨てられていた。
長い間の禁欲は、浅葉にとって大した苦にもならず、淡々と流れていたのに、有馬の手を見て以来、股間に熱が集まる。
あの「手」に続く腕、脇の窪み、首筋、・・・自分と同じ垢に汚れた青黒い囚人服を身に着けている筈なのに、なまめいた裸体を想像した。
夢想する半透明に輝く肉体には、乳房はない。
だが、中心部には何もない、まるで切り落とされたかのように。
屹立した自分のものを掴みながら、女の裸も想像できないのかと、胸の内で自分を罵った。

***********
今から4年前に書いたとある少女マンガのパロです。
とはいえ完全なパラレルですので、登場人物以外は全て捏造。

この話を半年ほど前に読み返して、粗筋をパンダ氏に説明したところ、まるで「蜘蛛女のキス」みたいだと言われました。
どうしてかすごく悔しい気分になって、それでも原作を読んでみようと思い立ち、ストーリー以上にその小説実験のすばらしさに目を瞠りました。

夏の某新刊では、この逆手をとって「蜘蛛女のキス」と大好きだった映画にオマージュ…そんなものにはなりえないのですけど、ささやかな感謝をこめて、お話を作ります。

最近、自分の文体や展開に壁にぶつかってばかりで、多分この「無の塔」を踏み台にできるのか、あるいは、自己模倣でつぶれてしまうのか、戦ってみようと思いました。
そんなこんなで、こんなものをお蔵だし。

X月X日、美術館ニテ

口にしてはならない欲望を、口にした時、人は裸体をさらけだすような羞恥と興奮を覚えるだろうか。
もし蔑んだ目で見られ、社会的制裁をうける覚悟ができているといいながら、狡猾な隠匿を図るならば、それは嗜虐者の風上にもおけぬ、明らかな裏切り行為だ。
ただ、そうした「裏切り」を告白することで、彼らは二重に封印された恍惚にひとり酔いしれるのかもしれない。


僕は十六の時から、「死」の甘美な匂いに吸い寄せられていた。
ちょうど、同じ頃、自分に同性愛傾向があることに気づいた時でもあった。

高校一年の国語の授業は、僕にとって苦痛だった。
教師がどうしたとか、内容がどうということはない。
自分が教科書の余白に描いた落書きが気になって、硬直していただけである。
それが、物理の教科書なら物理の時間、何もできなくなっていただけだ。

中程のどの頁に描いてしまったか分かっているくせに、その頁を不用意に開いてしまって、教師にその絵を見られるのではないか、前の席の奴が振り向きざまに見るのではないか、そう思うと気持ちが高ぶって、違う頁を開いているのに、指がかたかたと震えた。
活字がびっしりと並んだ頁を開いているのに、その絵が悩ましげに浮かびあがっている気がして、その度に股間の幼いふくらみが痛いほど張り詰める。
また、その机の下の秘すべきことが、露見するのではないかと心臓が痛む。
それなら、そんな愚かしい落書きをしたものを捨ててしまって、新しいものにすればよかったのにと、今は冷静に裁量できるのだが、あの時は、新しい教科書を購うすべも思いつきはしなかったのだ。

問題の絵は、桜の大木にクラスメートのKが裸体で磔られている絵だった。
教科書に載っていた或る作家の随筆に惹かれ、他の作品もと読んだ桜を題材にした小説が僕の妄想を具現化した。
今まで、特別他人を意識したこともなかったのに、何故Kを贄にしたのかわからない。
Kは凡庸な級友であって、特に何かに秀でていたわけでも、劣っているわけでもなかった。
それに、その稚拙な線で縁取られた人物をKと思いこんでいるのは僕だけであって、他人が見ても誰かは判別できなかったろう。
唯一、他の者より肌の色が白く、悪ふざけで付いた引っかき傷が、妙に赤く印象的だっただけかもしれない。

両の腕は高く掲げられて、二本の大枝にそれぞれ縄で固定されている。
首はのけぞり、頭、背中、尻は荒れた木肌の幹にびったりとはりついて、曲げられた足は宙に浮き、足首を幹の後で縛られている。
自身の体重に重力がかかるから、浮いた体を支える両手首には、どんどん縄が食い込んでいく。
裸体の中心にあるものだけが、重力に反して天に向かって咆哮してるのだ。
その絵を見てはならないと誓った禁忌は、毎日のように破られ、絵の中のKの全身には切り付けられた痕が、加えられていく。
Kは血をたらたらと流し、その目はあらぬ方に向かって空ろに開き、そして「死」を迎える刻が遠くないことを予感させた。
処刑されるものが見せる表情の中に、明らかに苦痛に悶絶する以外に、快楽に繋がる顔があることを、成長するにしたがって知るようになったが、拙い描線に裏打ちされて、妄想の中のKは遂に大量のスペルマを撒き散らして、息絶えるのだった。

二十代も半ばにさしかかると、僕は自分に決定的な悪癖があることに気付いた。
決して罪咎を問われることはなかったが、何人もの人たちそして自分を失望させてきたのだ。
それは簡単に言えば、物事の完成真近になると、完結を放棄してしまうという癖だった。

たとえば、精緻に作ったプラモデルをあと僅か数本のパーツをとりつける、あるいはあと一箇所色を塗るだけで完成するという段になってしまうと、投げ出す。
資格習得のために通った学校も人より早く学科をこなしても、卒業試験になると退学する。
たとえ、資格が取れてもそれを生かそうという気概がない。

それでは、仕事も長続きしないだろうと思うが、新しい人間関係を築くのが面倒だという新しい課題にぶつかる。
そこで、なるたけ同じ職場に身を潜めていたりするのだが、一度上司に認められたりすると、もう嫌で嫌で仕方がない。
猫かぶりに生真面目に微笑んでいた顔は、前日までは相手に誉められたい一心で作っていたくせに、それが成就されるや、過剰な期待が振りかかるのが恐ろしくて、逃げ出してしまうのだ。
逃げ出す理由が見つからなければ、わざわざ相手に疎まれる能無しを演じてでも、立ち去ろうとした。

恋愛関係においても、この傾向は顕著だった。
同性愛者であることを隠すこともなかったが、決まった相手を探そうという努力はなかった。
それでも性欲は高まるから、同じ嗜好の人間が集まる場所に行き、じっと待つ。
自分から仕掛けるのは面倒で、顔も見えない映画館の暗闇や公園のトイレでことを済ますこともなんどかあった。
僕の肉体的特徴も、学歴も、些細な趣味の語らいも必要とされない、ただ肉欲に支配されたドライで動物的な交わりが、一番性に合っていると信じていた。

Fと同棲するようになったのは、些細なきっかけだ。
或る夜、道端で酔っ払った僕を拾い、一晩介抱した彼のところで図々しくも、数日厄介になっていた。
今思うと、本棚に詰め込まれた書籍が魅惑的だったとか、まめに世話を焼いてくれたとか、居心地のいい空間に身を横たえていただけの軽い気分だったのに、Fには僕が随分と我侭で、放埓な人間に映ったようだった。
外で別の男と寝て、Fの家に真夜中過ぎに戻ると、Fは血相をかえて僕にくってかかった。
僕がゲイだと知らずに、涙ながらにこう言ったのだ。
「毎日君と居ると、おかしくなりそうだけど、おかしくなってもいいから、君といたい。男に告白されて、さぞかし気持ち悪いだろうけど、どうかここにいてくれ」と。

彼の告白は怒気をはらんで、僕の肩を掴んで揺さぶりながら延々と続けられたが、僕にとってもここまで感情を爆発させる相手に恵まれていなかったから、Fに興味を持たざるを得なかった。
いまだに僕がFの目にどう映っているのか、何が「おかしくなりそう」なほど自分が変っているのかも掴めず、Fの世話になって五年が過ぎていた。
相変わらず、僕はセックスの相手を求めて外遊を続けていた。
実際、訳もわからず肉体が火照ると、誰かに組み敷かれないと、気持ちが収まらなかった。
Fは、セックスを求めることがなく、僕が迫ると決まり悪そうな顔で僕を抱きしめて、揺籠になって安住の地を提供することがほとんどだった。

一年前、僕に小さな不幸が訪れた。
耳下腺を襲ったウイルスによって右耳の聴力を喪失し、永遠の耳鳴りを授かったのだ。
Fは相変わらず、優しく看病してくれたし、病いの衝撃に打ちひしがれた僕には、嘘偽りなしに彼の慈悲は慰めとなったのだ。
しかし、発病から半年過ぎた頃、体調によって激しく打ち響く耳鳴りにも慣れるにしたがって、また日常生活における支障も軽減されるにつれて、僕の中にアンビバレンツな感情が芽生えはじめた。
ひとつは、当然ながら、残された聴力を失ってしまったらどうなるのかという懼れ。
・・・・・・・・・・・・もうひとつは、失ってしまいたいという、暗い欲望。

実感に基づけば、片耳の聴力がなくなった場合、伝達許容量は決して0.5にはならない。
健常者よりも残された片耳の感覚は、研ぎ澄まされ補足され、0.8程度にはなっているだろう。
しかし、両耳の聴力を失えば、全きゼロ、まさに耳鳴りのノイズだけが走る無音の世界に陥る。
懼れは、その世界を迎えたとき、己に課せられる不自由に耐えられるのかということにあった。
そして何よりFに与えてしまう多大な負担が、二人の関係を終わらせてしまうのではないかという怯えにも繋がった。

暗い欲望。けっして、口にしてはならない欲望。贅沢な破滅を夢見る、許されない欲求。
それは、雑多に流れ込んでくる音声によって構築された人間関係から離脱し、沈黙の世界に没入したいという感情だった。
勿論、ひとつの感覚器を絶ったくらいで、世界との関わりを絶無にする事はできない。
逆に、こんな方法を取らなくても、一人で山ごもりでも、あるいは簡単に「死」でも選択すれば煩わしさからは開放されるのだ。
僕はFと暮らしながらも、Fの帰らない時間が愛しかった。
一人押し入れの隅に隠れて、本を読んでいる時間を愛する子供と同じだった。
だから、予期されるその音のない世界は、きっと自分を一人にしてくれる場所だと黒い誘惑者は僕を招くのだ。
でも、愚かしい想像はつきつめれば、その無音領域にずっと居なければならないことを暗示する。
いつまでも押し入れにいて満足できる子供がいるだろうか。
押入れの外まで暗くなってしまえば、怖くて出なければならない、誰かしらを求めていかずにはいられない。
本当に孤独が必要なら、Fを求めてはならないのだ。

Fに与える負担について、Fが居なくなる寂しさについて考えながら、この暗い欲望の果てには、Fに捨てられたいという欲望もあることが鏡像のように、しっかり屹立していると思い知らされる。
Fの愛情が重荷になって、息苦しくなっているのも否めないのだ。



前週の日曜からはじまった、ある展覧会に僕は来ていた。
会期終了までまだゆうに二ヶ月あるからだろう、人気の高いはずの現代美術家の作品の周囲は閑散とし、薄く張った絨毯を歩く足音さえも、響きわたるような静けさだった。
こういう場所では、耳鳴りはラジオのチューニング途中のような細かなノイズとなって身を潜めている。
空調で一定に保たれた湿度や気温の中でも、昼下がりの気だるさは漂い、柱の角々に座った学芸員の半数は、睡魔に襲われて首を垂れていた。

展示の半ば、百号キャンパスの大作の前で、思索ありげに腕組みしていた僕の耳に、その時、女の甲高い悲鳴が黒板を引っかくように、一筋聞えた。
館内は白いパーテーションで幾重にも区切られ、必要以上に曲折しているので、声がした方へ振りかえっても、死角となって状況が飲めず、立ち尽くす人が数人目に入るだけだった。
長い一拍をおいて、次の悲鳴が聞え、床をどかどかと走りまわる足音が響きはじめた。
見通しが利く柱の角まで、20メートルばかり。
パーテーションを取り払えば、単純な構造体である筈の空間は、必要以上に迷路めいて、自分がどの座標軸にのっているか判別がつかない。
目の前の大作の他に、三枚の小さなデッサン図がかかり、絵のない面には背丈の二倍はあるガラスにグラスファイバーのカーテンが垂れ、その前に背もたれのない四角のゆったりとしたソファが並んでいた。

何か異様な気配が転がり膨れあがる雪だるまのように近付いて、心臓を圧迫する。
次々と上がる悲鳴。
静寂に包まれていた僕の内耳は混乱し、精確に情報がつかめない。
甲高い叫び声、走りまわる沢山の足音、高音域と低音域が交錯している。
世界にはありとあらゆる音が犇きあっているが、人はその中から自分に必要な音だけを取捨選択して、情報を得ている。
ただ、僕のように、外音の増加にあわせて内音も複雑に反響してしまう感覚器では、その濾過作用が上手く作動しないのだ。
否応なく高鳴る心音に呼応して、ずっくずっくと血流がノイズに変換され、悲鳴に似た高周波のぴんと張り詰めたノイズも混じりはじめる。
処理可能な量をはるかに上回った外音と内音のミクスチャアが、脳髄で激しく明滅する。
こうなると、もう僕は聴覚を捨てて、視覚に頼るしかなくなるのだ。

火事や地震ならば、入口に近い方に戻るのがいいのだろうが、その角を戻ってはいけないと第六感が知らせた。
奥の展示室へ逃げようとしたとき、「助けて!」と絶叫する女性が飛び込んできた。
顔面は全く血の気をなくし、振り乱した髪は頬にはりつき、紫に黒んずんだ口の端からはだらだらと唾液をたらして、顔を構成する部品がことごとく褶曲し、そしてどさりと倒れる。
衣類は背中をななめに裂かれ、吹き出る血液に染まり、もはや元の色も分からない。
誰かが刃をふりまわしているのだ。
悶絶する彼女が、恐怖のあまり絶ち尽くす女子高生とおぼしき若い女の足首を掴んだ。
「ひっ」息をつめる短い叫び声を上げた少女は、歩行を阻まれたまま、その場にへたりこんだ。

こんな酸鼻な光景が、パーテーションの死角の向こうにも続いているのだと確信した時、あいつが現れたのだ。
酩酊したように、歩行はジグザグに揺れて、壁や窓にぶつかっては大きく体を傾ぐ。
目は血だまりのようだ。
返り血が、幾方向にもしぶき、恐ろしい模様になって、男の貧相なTシャツを飾っている。
右手に握った刃を振り上げ、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。その繰り返しだ。
刃が描く弧の中に、物質がはいっていようと、いなかろうと男は連続運動をやめようとしない。
展示物のかかった白い壁にも、陰惨な模様をまきちらす。
ぶつかる対象が、ソファでも人間でも、同じ動きを繰り返す。

ねじの切れかかった不気味な自動人形のように、僕のいる場所に近づいてきた。
先程、へたりこんだ若い女性は、恐怖で硬直した足を動かす術が見つからず、まるで熊に襲われた人間が演じるように、床に臥した女性に覆い被さって、血の通わぬ物体に身を転じ、湧きあがる震えを必死に抑えようとしている。
僕もまた、逃げ出せず、その場に愚かしい塑像のように立ち尽くした。
筋肉は萎縮し、足は一歩も前へ出せないのだ。
しかし、視覚だけは冷静沈着に男の姿を捉えていた。
凝視すれば、相手にその視線を気付かれて、自分の身が危ないとわかっていながら、目を離すことができない。
日常の時間軸ならば、彼が刃を振り下ろす速度、右へ左へと体を翻す動きが、もっと早く見えているはずなのに、視覚が過敏になっているせいか、まるでコマ送りをしているように、空間で動くものすべてが緩慢に見えるのだ。

ぶるぶるした卵白に浮かぶ真っ赤な男の眼球は宙を見つめているだけだ。
対象物を捉え、認識する機構が脱落している。
だから、床にうずくまった二人の女性の体に足が引っ掛かった時、男はあっけなく毛躓いて倒れた、僕のつま先すれすれに。
「ううう、ううう・・・」獣を思わせる唸り声。
男は勢いよく立ちあがり、なんの躊躇いもなしに、自分の行く手を阻んだ慄く女に刃をつきたてた。
引き抜くと血しぶきが舞いあがり、僕の白いズボンに無数に汚辱の斑点を吹きつける。
男が振りかえった。

どろり、濁った眼球が零れ落ちそうな視線。
ああ、僕はその時、その全く意味をもたない無感情な視線に射抜かれて、磔にされた気分だった。
そう、かつて僕がいたずらに描いた磔刑図の少年のように、遅からず訪なう「死」を甘受する身。
ひた隠しにしてきた赦されない欲望を、露わにし、轟々と風が鳴る荒野に野ざらしにされる。

耳殻の奥で、延々と反響していたノイズが不意に消え、世界は凍りついたように思えた。
背後に回った男の左腕が、僕の首を挟みこんだ。
息苦しさよりも、頚骨の一節一節がぎりぎりと締め付けられる痛み。
背中は荒い呼吸で上下する男の胸に押しつけられ、男の汚れた汗の飛沫は僕のうなじに弾け飛ぶ。

次の瞬間、入口の方から慌しい複数の足音が、怒号と共に乱入した。
容赦ない殺傷運動が停止し、僕を羽交締めにした男の周りに、警備員が円をなす。
「おい、もう馬鹿なことはやめろ!」「それ以上人を殺めるな!」
男は答えない。
右腕に握り込まれた刃は金属的な光沢を失って、手指と一緒に錆止めのペンキをかぶったように、大量の血で穢れている。

左耳のすぐそばで鳴る男の息づかいが、あまりにも大きい。
警備員の動作が滑稽な無声映画のように、かくかくと関節をひとつずつ捻るように見える。
耳朶にかかる淀んだ熱風は、僕の体温を徐々に攪拌し始める。
満員電車や映画館の狭い個室の中で、真近に感じる懐かしいすえた男の匂いだ。
眩暈を覚えるほどに、Fと暮らしはじめてから遠ざかっていた、獣の匂い。
Fに操を立てていたわけではないし、性欲を満たすために遊び歩いてはいたが、それでも相手は得体が知れた範疇の男たちだった。

この匂いには、希望も幸福もなにもない。
ただがむしゃらな、交尾だけを暗示させる匂いだ。
「死」がそこにある。
男が持つ、切っ先が僕の体を切り刻む。
極上の痛みと闇が、そこにある。
そう思うと、僕は男の汚れた衣類を破って、性器にむしゃぶりつきたいような興奮を覚えた。
僕自身も猛っているのが、はっきりわかるのだ。
ゆらりと勃ちあがり、血管を波打たせ、蒼ざめた亀頭から喜悦の涙を流している。

警備員は、相変わらず、口をパクパク開けて、何事か叫んでいる。
彼らには、僕がどんな風に見えているだろう。
人質にとられた恐怖で、ガタガタと震えているように見えるだろうか。

張力限界にまで引き伸ばされた均衡が、プラトーを迎え、崩れようとしていた。
男の呼吸はあくまで荒く、途切れてしまった刃の対象をどこにもって行こうかと、唸りながら観察している。
しかし、男の目には本当は何も映っていないのだろう。
網膜に結んだ像は、単純な像にすぎず、なすべきことを決定する情報とはなり得ない。
僕が、こいつの次の行動をきめてやらねばなるまい。
美術館一杯に、はりつめた悲鳴と戦慄を、もう決壊してやってもいいはずだ。

僕は、首を傾け男にしなだれかかった。
そして、男の耳元に囁いたのだ。


熱い、熱い、熱い、熱い、・・・・・・・・痺れ。
閉じられていた外音のバルブが一気に口を開け、そして一瞬にして、消えた。
内側から発するノイズは恐ろしいほどの勢いで加速増大し、右脳を押しつぶすように爆発したあとに、さわさわと鎮火した。

激しく床に振り落とされたもつれた肉体の中から、僕は腕をあげ、左頬に当てた指先にぬめる液体を感じた。
そして、そっと上方へ指を伸ばし、探った。
顔面の横に位置する飛び出した器官は、美しく刈り取られていた。
渦巻き模様の指紋を象るあらゆる溝に、爪と肉とのはざまに、血液が流れ込む。

その時、薄れていく意識のなかで、明らかに内腿に流れる液体をも感じたのだ。
Kが絵の中で最期の瞬間に放ったのと同じ、大量の白く濁ったゼラチン質を。
強烈な快楽を。
迎えるべき絶望の壁面に向かって、ぶちまけられたのだ。


新聞には、事件は次のように記されていた。

・・・・X日午後三時ごろ、都内XX美術館(X区XXX)に男が乱入し、持っていた出刃包丁で八人を無差別に切り付けた。容疑者、XXXX(高校教諭・36)は館内で警備員に取り押さえられ、XX署に殺人・傷害の疑いで逮捕連行された。容疑者は精神錯乱状態で、事情聴取は不可能として、一旦警察病院にて入院のもよう。また、被害者は美術館に来ていた女性・XXXX(21)さん、勤務中の学芸員XXXX(34)さんをはじめとして七人がすでに出血多量により搬送先の病院にて死亡、最後に怪我を負った男性XXX(29)さんは顔面に損傷を受け、意識不明の重体。
容疑者XXの勤務先であるXX高校校長によれば、XXはX月より欠勤が多くなり、授業も中途で退室するなど、勤務態度に対して何度も訓告を受けていた。また、X日は朝から無断欠勤であったという。・・・・・


事件から一週間後、ようやく意識を取り戻した僕は、警官が面会を申し込んでくる前に、事件のあらましを知ろうと新聞に目を通した。
マスメディアでは、ヒステリックに犯人が極度のノイローゼ状態にあったことや、無差別に死を迎えてしまった女性たちの家族の無念さを主に取り上げていたが、被害者の中で唯一生き残った僕については、重体ということも手伝って、ほとんど情報をもたらしていなかった。
何よりも僕は、犯人の死を望んでいた。
無差別殺人を行った彼の非道ぶりに、鉄槌を食らわさんためではない。
まったくの自己防衛のために、彼の口を封じたかったのだ。

新聞を与えてくれたのは、ほかならぬFである。
目覚めた時、泣きはらし充血した目で心配そうに僕を覗き込む彼の掌に、「大丈夫」と指で字を書いた。
「よかった・・・・・」
Fの唇はそう動き、しゃくりあげながら涙を流しつづけた。
でも、もう僕には、彼の嗚咽も優しい声も、二度と耳にすることはできない。

「疲れただろうから、少し眠った方がいい」
新聞を取り上げ、毛布と布団を襟元近くまで引き上げ、眠りを促すように僕の瞼を閉じさせたFはICUからでていった。
薄目を開けて、スライドドアの向こうに消えるFの姿を目で追いながら、事件の光景を反芻し、心の中でFに話かけた。

「あの男は自殺して、僕の裏切りを永遠に秘してくれると思ったが、あいつは死ななかった。
でも、狂気の果ての自供は僕を破滅させることはないはずだろう。
僕が裏切ったのは君の愛情だ。
告白すれば、君は僕を捨てるだろうか。
いや、君は気付いても隠しつづけるにちがいない。敏感過ぎて、悲しみをひた隠す君だから。
捨ててくれていいんだ。
僕は、本当はそうやって酷くされることを望んでいるんだから。

犯人に刃を突きつけられて、僕はこう言ったんだよ。
『左耳を切り落としてくれ』 とね」


********
絹子は左耳の中にある有毛細胞の100%を殺してしまいました。
そして、他人には聞こえない色んな音を毎日蒐集しては、小さな壷に溜め込んでいるのです。

このお話を書いた頃、絹子は世界から壷にもぐりこんで、あらゆるお仕着せの「愛情」から身を引き剥がしたいと望んでいました。
いまは・・・想像するだけです。絹子’という存在が、音をなくした世界で彷徨し、絶望する様を想像しぞっと総毛立ちながら、口の中にできた角砂糖を舐めているのです。

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プロフィール

絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
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