2017-05

nanga def

『太陽系最後の日』の残していた短編3個読んで、本当の読了。
その残していた「かくれんぼ」「コマーレのライオン」「破断の限界」いずれも予想外に痺れてしまい。
先日の感想撤回しないと。
「かくれんぼ」の鼠は象より強し的な展開も好きだし、「破断の限界」の究極の選択ミステリも好きだ。
SFは無限にパラメータが与えられる自由度があって、そこに科学的な裏打ちがされると身も心も飛んでいくのだなあと。

最近、本を読んでると意識が飛ぶのね、集中力がぽとんと落ちるというか。
以前は夢想が広がって意識が消えたけど、今は眠りに近い。

精神フラット状態続く。
仕事は内外とも山積みだけど。
やりたいことが沢山出てきたのはいいことだ。

先日、未塗装の無垢のマトリョーシカ(五段組み)を誕生日プレゼントに買ってもらったのだ。
そいつで黒死館マトリョーシカ塗装する時間を捻出するのが近々の目標。
勿論、一番外側はテレーズ・シニョレに決まっています。
麗しの埴輪《ゴーレム》だもの、似合うに決まってる。
あと4体は悩むところだけど、虫太郎と法水は入れたいね。

早く校正終わらせたいけど。
これ手を抜けないからね、集中、集中。

**

自分も高校生の時、理系だったせいもあって地理しか選択しなかったのだけど。
社会科として物語化した過去としての世界史や日本史をやるより、
むしろ近現代史とか、思想史を一個の科目として別個に取り入れるべきじゃないかと最近よくよく思う。
ゲームやスマホにかじりつく子供も大変だけど、
それに違和感を感じない大人の方が、もうどうかしている。
この不穏な空気を、まったく感知せずに日々暮らしているのが怖くて仕方がない。
「考えない」痴愚な状態でいることの恐ろしさを感知しないままいることが、どういうことか。

僕の教科書は、何よりここ十年ほどで触れた戦前の雑誌にしのびよる影にありました。

個の鬱に埋もれている場合ではないと、思うようになってきた。
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dry cell

GWに作った眼鏡を取りに銀座へ行く。
こういうちょっと高品質・高級な販売系の人って、単純にすごいというか最早異星人だなと思う。
へつらわず、かつ上品に、商品そのものへの愛着と、それ以前の仕事への陶酔感に溢れている。
あまりにも己の求めるものと違うので。
ぎらぎらした肌で笑みを浮かべるその店員の一挙手一投足を、一種恐ろしいものとして呆然と眺めていた。

人の悦びとは、実に個人的なものである。



銀座gggで、「ロマン・チェシレヴィチ展」観る。
DNPの社会還元事業の素晴らしさよ。
ポーランドのポスターアート、および鏡像を使った「一つ目シリーズ」。
ロシア・アヴァンギャルドの風がまだ吹いている、
が、個人的には不穏感とか生理的に暗部を串刺しにされているような、不気味さを感じた。
かっこよさだけじゃ済まされない、視覚の暴力、一枚の拳。

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アン・ラドクリフ「ユードルフォの怪」を国からお金が出て挿絵を担当したコラージュ作品は、
不思議に不快のツボを外して、スマートさはそのままに、明朗でさえあった。
僕がもつ「ユードルフォ」のイメージからすると、垢ぬけすぎてはいないかと思えたのだが。

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銀座へ行く機会があったら、ぜひにとお勧めしたい。→HP

**

本日も精神は均衡を保つ。
なんというか、ずっと吸収していたいなと思う。
ほんの少しでもいい、賢くなりたいなあと思う。
知識や思考を重ねても、結局は無であるのかもしれないけど、
少なくとも極微弱な継承はある。

社会化した学校はいらないけど、ずっと勉強してるだけで一生終えられないものだろうか。
修道院のようなしごく禁欲的な場で、最低限の生活の糧を自給しながら
教えたいひとから教わりたい人へ。
とか考えていると、
場はまたもや社会を生んでしまのかと怯える。
それに、ここに宗教に近いものが介入しないようにするのも難しい、のだろう。
信仰はあってもいい、がそれもまた、個人に終始しなければ。



enantiomorphic

集中を要する仕事が積み上がり、みゅーっと頭痛がひどくなる。
手湿疹は足にも広がり、祭りはまだ継続中。
帰りは歩けないほど足がパンパンだ。

でも気持ちはフラットだ。
不思議だなあ。
おはようございますも、お先に失礼しますも、言わなくていい訳じゃないけど
まあ言わなくてもいい。
遅刻しても、ふわっと実験台の前に座り、がりっと集中して、すわっと帰る。
人の目や声を気にしないこと、ピペットとDNAだけを見ること、昼休み本を読むこと、近づきたくない部屋には入らないこと。
そうするだけで、ノイズの中でも一人を保てるのだと分かった。

それはもう少し外の世界に広げても同じことだろう。

先日明石にみんなで行ったとき。
初めて、自分の血のつながった姪っ子を抱っこしたのだ。
あれ?と思った。
急に40年前にワープ。
今はお母さんになった妹をずっと小学生の僕は抱っこしていたのだと。
普通にあやせたのは衝撃だったな。
おとなしい全然泣かない子供だったからかな。

先日、小田急線で目の前の若いお父さんと三歳くらいの男の子が座っていて。
よくもそれだけむずがれるなと30分くらい泣き叫んでいた。
彼曰く、電車が怖いのだと。
論理回路がつかめない、けどそういう子供もいるのだろう。

フラットになったといっても、僕の血肉を分ける恐怖は決して拭えないのだし。
人それぞれでいいのです。
血肉を分けた人に対して何も言う権利もない。
同時にその選択を理解する必要もない。
一方で決して分けない人も、何も言われる筋合いもない。

ただしこれを自由選択だとみとめないことに対しては、拳を挙げ続ける。

**

本当に心揺さぶる本を探している。

家の中にあるはずなんだ。

小説じゃなくてもいい。

感度の鈍った僕にでも
理解力が低い僕にでも
書かれない物語の翼を広げるような、心の奥底から滂沱の涙をこぼすような
そんな本が家にはある。
だって未読が9割くらいあるのだもの。
既読でも忘れてしまったものも山とあるのだもの。

なので、小人に阻まれながら、夜ごと本棚を漁っている。
海は深く、森はやさしい。





neptunium

自分をそこはかとなく究極的に追い詰めて、そこから解放された後にどうなるかの実験をしてみる。
そこはかとないのは、実は真の意味での究極と呼ぶには偽りがあるからなのだが。

まずもって、非常に状態がいい。
薬を絶って一週間経つと、腹の調子が実に元気がいい。
なにより精神のフラットさに驚く。
相変わらず僕は人と話さない。
が、それに対して、特別の意味を持たせなくていいのだと気づいた。

脳が暴れない。
狂暴な堂々巡りが収束した。
二次的ではあるが、
むしろ安定剤を絶つことで、急激に落ちて胃が墨に覆われ、全身を黒に染める狂気が消えた。
胃にぶらさがり、地底へといざなう鋼球が消えた。
抗ADHD剤を断つことで、脳の暴走が逆に収まった
ような気がする。

少なくとも高揚も下降もない、この地平線まで続く凪の状態を何と呼べばいいのか。
あの悪魔の声は今もふっと喉の奥に湧くが
以前とは異なった、ささやかな護符のようなものに形を変えた。

僕は公私を常に逆転させ、道をはずれることしか道がなく
正しい時間の使い方もわからず
己を赦すこともなく
また同時に
道に歩ませるよう、公私自体を完全に逆にしてしまおうと努める謹厳さもなく
生ぬるい生真面目さと生半可な反逆にずっと甘んじてきていた。
そういう屑っぷりを、重々承知してしまうと、フラットになる。

海抜ゼロメートルの海でも空でもない、
定点(0,0) から延びてゆく二次元の線上をのっぺり動く、
蛞蝓になる。

恐らく、そこにある鈍感さを、僕はずっと呪い続けて、抗い続けてきたのだろう。

では本当の鈍感を受け入れるとどうなるのか。

それが老いなのか、
終末なのか、
はたまた転向なのか。

いま、薄い目に見えぬ鎧を一枚纏っている気分だ。

たしかに鎧は有用な強靭さをもって、一切突き刺さらなくしているのだ。
外部の棘や刃はもちろんのこと、
内部から突き出たものも。

果たして、鎧自体が鉄の処女へと変化し
もう一度僕は、かりそめの感度を取り戻せるのか。

傍観者としてもよくよく観察せねばならない。


knowingly

絆創膏だらけの指。
絆創膏たりない。
眠ってるあいだにかきむしる。

湿疹の芯というのがあつて
つねに休眠状態でひそんでいる。
何匹かは常駐で花を咲かせて
ある日連鎖して友達たちも開花する。

水疱はじけてパチン、パチン。

飲み込んだ毒素が、
粟立ち花に変わってゆく。
正直ものだ、きみたちは。
花のまま残したいだろうに、踏みにじられて。
正直ものは許されない、
そういう痒みの祭り。

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絹山絹子

Author:絹山絹子
狸穴幼稚園の図書委員

kochairo@hotmail.com
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