うつろな眼の色 溶かしたミルク

読書記録、日々の呟き、サークル「蝸牛のささやき」活動記録。

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無人島のお供に―「彼方」(1)

もう何度も書いてきたように思うけど。

ウツ神が背中にのしかかろうと、辛い時間が重なろうと。
僕は自分が、「ツイテイル」と信じて疑わない。
無宗教だけど、限りなくプロテスタントに近しい場所で、守護神が手助けしてくれていることを、一度足りとも疑ったことがない。
だからこそ、いつもウツと同時に、贅沢貧乏を味わっている。

僕は垣根が高い。
一見低く見える部分もあるかも知れないけど、隙間なく張り巡らされた感知器に、一瞬でも触れられたら。
赦さない。
僕は、どういえば、真の意味で伝わるのか分からないけど。
もう悲しいほどに、他人が苦手なんだ。
昔は、「嫌い」という言葉を使ったけど、今は、たとえば、テレビの箱の中(今は箱も薄くなってるらしいけど)、ラジオの中から、見え聞こえするだけで充分。
でもネットは、単方向で済まないことが多いから。
それゆえに、ひたすら発信か収集だけで、留めておきたいのだけど。
発信時に、語りかける口調を使ってしまうのは、いわば極限定された個人、あるいは偶像に対する呼びかけに過ぎない。

ということで。
「閉鎖」とは「閉鎖」以外の他意を含んでいないのです。
精神だけ潔癖症の僕には、「継続」において心の片隅に持っていたある種のさもしさが、我慢なりませんでした。
こんなにも他人が苦手なのに、一方で反応を求める行為を続けることに、耐えられませんでした。
だから、もう「嘘」をつくのはやめようって、思ったんです。
以上、この件に関しては、二度と触れるつもりはないので。
この意味不明な呟きから、ニガヨモギの先端でも見つけていただけば幸いですと。

で、そんな僕は。
ちょっとした知人100人に囲まれて共同生活3日間過ごすよりも。
無人島に1年いる方がいいので。
世の中のありきたりな質問であるところの。
「無人島に持っていく、一冊は?」という質問に叶う本を、時折考えていたりします。

何度読んでも飽きたらず、ちょっとやそこらでは暗記できず、感情的に走りすぎもせず、興味つきない語録が溢れている。
とくれば、多分現在最初に思いつくのは、「黒死館」でしょうが。
「彼方」も仲間に入れてやりたいなあと、思うのです。
そして、両者には、無人島のお供にふさわしい共通点があり、同時にふさわしくない共通項も併せ持っていたりします。
語彙語彙語彙語彙語彙の海は。
澄んだ海水に漂う未知の生物で、確かに賑やかで楽しく、煙にまかれては、またきらびやかな色彩に惑わされるのですが。
いかんせん、図鑑を持ち込めないので、生き物の学名を知ることができません。
かように、「黒死館」も「彼方」も、万が一暗記できたとしても、本当のぶら下がる過剰なモビールの真意を知ることができないのです。
つまり、無人島にも竜宮にも、司書はいなくてもいいから、∞図書館を設置してもらわないと、調べものをして遊ぶことができず、ちょいと欲求不満が重なってしまうのです。

そうなると、こいつは矛盾なわけで、あえなく二冊は鞄から出さなければならなくなりました。
じゃあ、絹子の一冊といえば。
いまのところ、電話帳・笑。
もっと正確に言えば、タウンページよりハローページ。

遊びの想像はそれこそ無限大に膨らみます。
たとえば、7桁の番号であれば、全頁を000-0000から999-9999まで、並べ直してみる。
抜けが出ている確率を調べる。
フリガナは振られていないから、変わった名字や名前の読み方を想像する。
番号に+-*/を組み込んで、美しい数字を作る。
名字と名前を組み合わせて、お馬鹿な名前や、洒落のきいた名前を作る。
麗しい名前ができれば、それに見合ったお話を想像する。
最高のデータシートの塊じゃないですか。


彼方 (創元推理文庫)彼方 (創元推理文庫)
(2000)
J.‐K. ユイスマンス

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と話はどんどん横道にそれたけど。
「彼方」はストーリーはトンデモ系です。

ユイスマンス作品はみんなそうらしいけど、小説の体裁を辛うじて保ちながらも、評論といったほうが手っ取り早いです。
でも、「彼方」はまだ筋がある分、逆に筋を辿ると、アラアラと口が開いてしまうこと請け合い。
そう、小難しく捉えること人が多いのは百も承知の上で。
敢えて僕は笑い飛ばせるよ!
だから可愛いんじゃないか!
と撫でてしまえるのも、「黒死館」と共通するところであります。

今晩は、感想第一回だから。
詳細は次に送るとして。

ああ時代巡れど、同じことに嘆く人多し。
かような嘆きを吐かせてしまうところも、げに愛しいのお。
ってところを引用したいと思います。

主人公デュルタルと友人のデ・ゼルミーの掛け合いって、一人の人間が創作対談作ってるみたいな偽物臭い感じが出てるんだけど。
反駁仕合わずに、一本の流れに収束しがち。
とはいえ、一応の相づちは打つけど、お互い好き放題にしゃべくるから、おかしくってしょうがない。
法水と久我鎮子みたいに、自己陶酔しつつ(笑)炎上してもらいたいんだけどね。


「うん、いまド・レー男爵閣下の訴訟を克明に調べているのだが、読むにも書くにもあまり興味の起こらないところでね」
「だが、いったい、その本はいつごろできあがるのか、やっぱり分からないのかい」
「分からないね」と、デュルタルは伸びをしながら答えた。「しかし、いつまでもできあがらないほうがいいと思うよ。これを仕上げてしまったら、ぼくはどうなるんだ。ほかの題目を捜して、章の割りふりや何か、書き出しのくだらない段どりをやらなければならない。そうなると、きまってぼくはすることが手につかずに、何時間もいやな思いをしなければならないのだからね。まったく、考えてみると、文学にはただひとつの存在理由しかない。それは文学にたずさわるものを生活の嫌悪から救うことだ」
「それから、いまどき心から芸術を愛している連中の貧苦を、情ぶかくまぎらせてくれるのと」
「そういう人間はごく少ないね」
「しかもますます減って行くね。新時代の人間はもはや賭博的な遊戯と競馬以外には興味を感じなくなった」
「そうだ、そのとおりだ。今の人間は賭博ばかりしていて、決して本を読まん。本を買って、その成功と失敗を決定するのは、いわゆる社交界の女だ。生ぬるいねばねばした小説が世の中に横行しているので、ショーペンハウエルのいう貴婦人(ラ・ダーム)のおかげだ。ぼくにいわせれば小さな鵞鳥どものおかげさ」
デュルタルはちょっと言葉をとぎらせてから、またつづけて
「ああ、だがそんなことを問題にする必要はない。いま多少残っている真の芸術家はもはや大衆を考慮のなかに入れていない。彼らは客間や文学の常連の喧噪からはるかに逃れて、生活し仕事をしている。彼らがこころから感じる唯一の恨みは、本が印刷されて、大衆の汚らわしい好奇心にさらされるのを見ることだ」

(中略)

「いまの文壇と自称する社会を見て、いつもながらに第一に印象されるのは、偽善的な性質と低劣な趣味とだね。たとえばディレッタントなどという言葉は、数かぎりない醜態をおおいかくしているじゃないか」
「そうだね。なにしろ伸縮自在で、実に融通のきく言葉だからね。だが、それよりもっと浅ましいのは、ディレッタントという言葉を讃辞だと思って、得々として肩書きに使っている現代の批評家どもが、実は自分で自分の横面をはるにも等しいのに気がつかずにいることだ。なぜなら、煎じつめてみると、これくらい理屈にあわない言葉はないからね。ディレッタントは個人的な性格ではない。なぜなら、ディレッタントは嫌いなものがひとつもなくて、何もかも全部好きだというのだろう!だが、個人的な性格のないものに、才能のありえようはずがないじゃないか」
16章 p296-299




うーん、気持ちいい。
かくいうユイスマンスは、社会的には終生、実直な内務省官吏であったのでした。
いいなあ、こういう二面性と禁欲をはらんだ内燃機関。

もったいないお化けのラインダンス

團十郎切腹事件團十郎切腹事件
(2007/02/28)
戸板 康二

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第一巻、毎日少しずつ舐めるように読み進めて、ようやく終わったところです。

この本を読んでいて、思ったこと。
凄く当たり前の大前提だけど、「探偵小説って、幻想なんだ」
ほんと当たり前の話だけど、特に日本のミステリってそのことを忘れてる気がする。
勿論、幻想っていい意味の、気持ちいいなあ、この中に身を浸してると、些末な雑事が吹き飛ぶなという意味で。
刑事が靴底減らして走り回るとか、例の社会派と呼ばれる一群には到底展開することの出来ない、別世界がここにある。
たしかに、動機を探れば、むしろ芸の世界のことゆえに、絞り上げるごとき妬みや醜悪な感情も渦巻いているけど、落としどころが全く違う。

それは、もったいないお化けに取り憑かれることもなく、思いついたネタを惜しげもなく短編の中でさらしてしまう行為に繋がっている。
竹野君が、なにしろ余りにも早く手の内をさらすのだ。
「これが実は雅楽の目の付け所だったと後に分かるのだが、その時はまだ…」
みたいなノリ。
ポイントを次々に上げてしまって、めくらましなんか全くない。
大どんでん返しなんて、ミスリーディングなんて姑息は一切使いませんて。
クロースアップマジックの驚嘆に匹敵する感じ?
コインもトランプもみんな見えてるのに、わあみたいな。

で、特に「等々力座殺人事件」なんて、もう「もったいなーーーい」って叫ばずにいられなかった。
これだけのネタ、絶対長編になるのに。
普通、みんなこの十分の一のネタで、ぐじぐじ格闘するんだよと。

竹野君は、それなりのおじさん記者みたいだから、アタフタしないけど。
雅楽は時々、にまーーっと笑っている。
その奥で、戸板康二もまた、にまーーっとしているのが、見え隠れする。
そういう幸福なミステリです。

そういえば、一年位前、テレビ版の雅楽ものを、素氏の古いコレクションから見せてもらました。
竹野君が近藤正臣で、江川刑事が山城新吾だった。
テレビ版も面白かったけど、不思議と原作を読んでも二人の顔は被ってこなかった。
一方、雅楽は勘三郎が浮き上がってきて、電車の中でもニマニマしてました。
素氏はちょっと違うというので、最終巻まで読んで、イメージが違ってくるのか、練り込んでみるのもまた楽しみです。

可愛い子には旅をさせ

昨晩は悶絶した。
というのも、アラートをかけていても滅多に引っかからない某銅版画家R氏の逸品が一週間前からオークションにでていて、ずっと見守り続けていたのに、最後の夜にすっかり失念して入浴してしまったのだ。
最後の最後に入札しようと思ってたのに。
金欠甚だしいけど、福澤さん二枚まで出しても!と意気込んでいたのに。

でもその他の種々チケットは続々と集合中。
本日いく予定の「レオナルド・ダ・ヴィンチ −天才の実像」から「澁澤龍彦展」「パルマ展」と…最近ノンビリモードにしているはずなのに、予定は目白押し。
ちなみに、日曜日は「夜明けまえ 日本写真開拓史1」に向かいました。
写美は規模は小さくても魅力的な展覧会が多くて、ここのところ一番お出かけしている場所ともいえます。
今回は名刺サイズでも際だった肖像写真、彩色風俗写真が一杯で。
彩色写真は、そのとってつけた色の風合いが、逆にノスタルジックで可愛くてしょうがない。
ちょっとホホウと思ったことは、恐らく写真技師というものが際立って稀であった時代に於いては、技師の名前がブランドとして成立していたのだと理解できたこと。
名刺サイズであれば裏側にきっちりと名前が印刷されていて、台詞に貼り付けられた場合には金箔押しで名前が刻まれている。
背筋が伸びた、自信たっぷりな雰囲気が微笑ましかったです。

やっぱり、なんとしても九月末の大事な日には、写真館に行こう。
無理矢理にでも引っ張っていこう。
できればスナップでは決して味わえない、あのぬったりとした銀粒子が語りかけてくるようなモノクロで撮ってもらえるようにおねだりしてみよう。

さて、ズンドコ杯の締め切りも目前なのですが(一週間前には読了しているんですが、副読本も併読して唸っている最中です。今回は、何も書けないじゃなくて喋りたいことが多すぎてまとまらないよー)、本日は岩波文庫月間5冊目ということで。
ちなみに、緑と赤を交互に出しているのは恣意的です。
白、青、黄も素氏は所有しているけど、ハードルが高いわね。
以前は岩波文庫の存在自体をハードルの高いものとか、鹿爪らしいとか考えていたのですけど、読めば読むほど面白くなってくる。
懐の深さと、結構ヤバイ話が転がってますぜダンナ、ということを実感している次第です。
思い起こせば、松岡正剛の「千夜千冊」にしても記念すべき第一回は緑の中谷宇吉郎の「雪」ですもん。
ちなみに我が家には「千夜千冊」の約1100夜分が、ちゃっかり両面カラーレーザーで打ち出され、背中にタイトルまで付けてファイリングされて並んでいる。
二年前のパラダイスな職場の時代にがふんがふん印刷しまくったのだ。
嗚呼、パラダイスな職場に行きたい!


カンディード 他五篇 カンディード 他五篇
ヴォルテール (2005/02)
岩波書店
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おバカちゃんの話である。
話全体が、プププなおバカに彩られている。

纏めていうなら―――
「三つ子の魂百まで」バカ!
「人の不幸は蜜の味」じゃなくて…「辛酸を集めてはやし大冒険」バカ!
「死んだはずだよお富さん」バカ!
「18世紀文学って、やっぱりあけすけでエッチね」バカ!

いやはや、だんだん読んでいる私もバカなのがよく分かってきます。
ちなみに以下、悉くけなしているように見えますが、あにはからんや、誉めてます、可愛がってます。

主人公カンディードは幼い頃にパンタグロス博士に植え付けられた「あらゆるものは善なり」の教えに忠実である。
実際忠実なんてものではない、己自身に、あるいは周囲の恋人や恩義ある人々にこれでもかと不幸が見舞われても、しくしく泣いていても、何かといえば、論客をみつけて、教えが正しいですよねと確認せずにはいられない。
肉体に与えられた傷み、経済的な陥落、精神的な打撲を負っても、少々ことが好転したならば、にっこり顔をあげて、「世界はすべて善として仕組まれてるんですよね」と言わずにはいられないおバカちゃんなのである。
それは、世界各地を当初は逃亡から、ついでは愛しいキュネゴンド姫を求めて荒々しく駆けめぐる間に、多種多様に差し出された宗教の一つと呼んでもおかしくはない。
異端者に下される裁きは、こと日本人などにとっては笑えてしまえるのだけど(実際笑うのがこの本の読み方なのだろうけど)本質をじっとみると、笑えない…けど笑う、この堂々巡りである。

で、「すべては善である」教の申し子は、ひとつの趣味があり、それが他人の不幸話の蒐集なのである。
つまりは「お前は一番不幸だっていうけど、みーんな苦労しまくってんだよ」と言われて、一度他人の不幸話を聞き始めると、もっともっと聞きたいと堪え性のない青年なのだ。
天真爛漫や純真は一歩間違えれば、他人を傷つける刃になるのだが、あるいは学習能力のない人間は愛想を尽かされるのが落ちなのだが、カンディードの場合、先に述べた鋼をも打ち砕く信条を掲げているがために、妙に憎めない奴になっているのである。
カンディードのバカさ加減においては、集めても集めて、どんな波瀾万丈も他人の論理も消化されないまま、腹の奥底ので眠っているので、彼にとって不幸話は「蜜の味」にならない。
むしろ、弾圧のために存在する必要のない一神教に守られた、物質的にも満たされた、「ありえないものの象徴」としてのエルドラドだけが、時折彼の胸を掻きむしるというのも、象徴的である。

話自体がおバカに彩られているというのを典型的に表しているのは、ゾンビの出現である。
墓場から腕を突き出して歩いてくるならまだいい。
いやはや主要な登場人物の大半が無惨に殺されたと思いきや、つぎつぎと蘇ってくるのである。
カンディードがその目で惨殺されるのを見た、あるいは自ら手にかけた人間までもが、かっはっは、傷が治ってなと現れるのである。
その強烈さは、魔法なんていうチンケな手腕に到底及ぶことができない、リアリズムの究極である。
そうシュールレアリズムと呼んでもおかしくないかもねえ。

諷刺というものが、一般に「ひねり」であるとするなら。
この作品は、パン生地をぎゅうぎゅう捻っているうちに、ぶちぶちにちぎれて四散してしまい、その発酵不十分な断片がべたべた顔についてしまって、大笑い、そんな感じに受け取りました。
非常にふざけた感想で申し訳ないんですが、楽しめることは請け合えます。
究極の脳天気弁士カンディードは、肉体をもって戦い、口吻をもって戦ってきた様々な周囲の人間に感心こそすれ、最後まで納得のいく答を得られません。
ついに自ら見つけた答とは、むしろ作者の全否定にちかい、全否定の裏側はあらゆるものをあるがままに受け取るべしという声となって聞こえてくるのですけど、いかがでしょうか。

一通り読むと、ほんの少し西洋の宗教史のお勉強になるのかもしれません(無理があるかな)。
でも私は何度訊いても覚えられない○○派という言葉が飛び出るたびに、巻末を捲り、なるほど〜と頷いておりました。
基礎知識のある方には、ヴォルテールのイヤミな前歯が一層光って見えるのではないかと思います。

キャンディ キャンディ
テリー・サザーン、メイソン・ホッフェンバーグ 他 (2007/02)
角川書店
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最後に素氏に教わった豆知識。
私は映画版しか観たことがないのですけど(音楽が滅法よかった)、↑の元ネタなんですって。
変格はカンディード→カンディー→キャンディーと覚えるべし・笑。

※私が読んだのは、1956年発行吉村正一郎訳(絶版)の方で、「カンディード」しか収録されていません。
現行本は、全六編なのでお買い得だと思います。
でも吉村さんの解説は捨てがたいな。

フェティシュの極北 「片腕」

川端康成 「片腕」
新潮文庫 『眠れる美女』所収


時々夢見ることはないだろうか。
アンソロ編集なんていう作業を。
先日、コルタサル短編集「悪魔の涎」を読んでいたら、ああジャズなアンソロならば、絶対にこの「追い求める男」を入れるのにとウズウズした。
ついでに言えば、ジャズな短編といえば、奥泉光の「その言葉を」は殿堂入りである。
数年前、早稲田の学祭にもぐりこんで講演を拝聴したときには、フルートの演奏をしてもらってドキドキした。
さらにスーツ姿でかしこまってあたふたする学生スタッフを尻目に、背後で流れる別のバンドの地響き合わせて、にまっとしながら演奏してくださった姿も素敵でした。

本好きではあっても、読書量のめっぽう少ない絹子は、アンソロ作成なんて到底無理な話である。
せいぜいが国書刊行会の「書物の王国」たちの目次をめくり、これもいいなあれも素敵と酒をちびちびやるのが精一杯。
(実際に素氏と、一冊中何篇読んだ?という遊びを、全巻揃い購入記念にワイワイやってしまったのだけど)
でも、まーた、そんな熱病を呼ぶ、もしかしなくても一部で有名なはずの短編に出会ったのであった。

これはねー、もう。
「人形愛」「フェティシュ」という項目があれば、文句なしに入れたい作品ですよ。
そして、この文庫に収められた「眠れる美女」「片腕」「散りぬるを」は、ぶっちゃけていえば、ロリっこ変態小説という括りで編纂されたにちがいないものです。
美少女たちは眠っている。
近寄る男は、喋られたら困るのである。
目を覚まされたら、恥ずかしくて苦しくて、逃げ出してしまう。
でも、体の一部分なら、撫でることも、お喋りすることもできるというのが、また素敵。

体の中でどこが一番官能的かといえば、そりゃ色々あるとは思いますが、多分指先の動きほど淫らなところはないのではないかと思う。
二月に発行した同人誌でも、こんな挿絵を章頭に入れて、ささやかに官能をくすぐる遊びをやってみた。

hand1.jpg


なぜ、川端康成が全身の中で、腕を選んで愛でることにしたのかといえば、彼がそこに一番ぐっときたに決まっている。
指先が這い回る、男の胸の上で。
掻き抱いてくれる男の首を。
抱いてしまう、しなやかな二の腕を。
そして外されたのは、肩の丸み(全身に含まれるあらゆる丸みを象徴する)ごとだった。
それこそ、間接人形のあの球体を目の当たりにした時に走る、昏い官能と同じこと。

「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」と娘は言った。
そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた。


この冒頭を読んで、うわーっとならない人がいたら、もうどうかしているとしかいいようがない。
曲がりもしない、喋りもしないただの白い棒きれになったかもしれない腕に、彼女は唇を押し当てて生気を送り込んでくれる。
そして男はいそいそと、コートの下に腕を隠して孤独な部屋に戻る。

この文庫のさらに、美味しいところは解説が三島だということだ。
彼は、「片腕」が雑誌掲載されたとき、男が部屋に持ち帰るまでの部分を読んで(つまりはそれが「第一回」と知らずに)、素晴らしい完結をもった珠玉の短編だと感に入ったらしい。
それが、後に単行本化されると、続いているではないか!
そして嗟嘆する。

たしかに第一回の部分だけでは、女の片腕を借りて帰るという寓意が、美しい寓意にとどまって、その代わりに明確な感覚的リアリティーが感じられるが、全篇を通すと、その基本的なアイディアの執拗な展開に、却って悪夢のような感覚的粘着力が感じられ、これが単なる寓喩などではなく、作者の精神ののっぴきならない軌跡を描いているのがわかる。それはアイディアなどではなく、オブセッションだったのである。


ふふふー。
こんなことを言ってしまう三島も大概な(愛着をこめて)人だとにんまりしてしまうのだけど。
オブセッション愛好家としては、ネバネバしてもらって、大変結構なのだけど。(サラサラした百間も大好きなんだけど)

こういったある種奇抜な幻想を提示した際に、書くほうは「どこで終わらせるか」に心底悩んでしまうものだと思う。
放り投げるのか。
落とすのか。
いわば、導入部だけで読者の目の奥の劇場に任せてしまった方が、スマートで楽な場合も多い。
世間一般の猥雑さとはかけ離れた、それでいて見事にいやらしい戯れをした後、男は片腕を抱いて眠りに落ちる。
そして…。
終結のさせ方、あるいは読者の想像に任せきれない描写を読んでいると、彼が死神に肩を叩かれるタイプの人間だと感じてしまうのは、私だけだろうか。
(福永武彦なんて、死神がずーーっと側にいるので、なんだかお友達になってしまったような柔らかさがあるんだけど)

※今回初めてカテゴリーに「P文庫」が登場。
ちなみに、P文庫はパンダこと素天堂氏本棚から借りたものの謂いです。
それにしても数多ある蔵書の最初の感想文が、これって、なんだか笑える。

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