イヤミに捧ぐ
毎日お土産をもらってばかりの日々ですが。
こちとら夏休み一日もなく、臨床に隣接した仕事のせいで一日呆然と辞典作業ばかりこそこそやって眼球痛めていながら、夕暮れになるとオペ室や外来を走り回って、知らぬ間に外は大嵐てな毎日で、くたくたになっています。
ちなみにこれは、ドバイなんぞに行った人のお土産。

そんななので、ぼんやりと子供の頃の夏休みのことを思い出していました。
僕はガリ勉ママの第一子だったので。
小3から塾通いでしたが(まあ、幼くして学校社会に馴染めず、塾の方が生き生きしていたから別によかったんですけど)、夏休みといえば毎年のように出されていた宿題の数々。
学校は港町にあったせいで、必ず「船」を作らねばなりませんでした。
僕は体育が延々と「2」のアヒルちゃんで、しかし柔軟と水泳だけは並だったから。
だったら浮かぶ船を造ればいいのに、まるでインドア派を象徴するがごどく、6年とも浮かばない船を造りました。
いやいや、妹二人も浮かばない船を6隻だったわけですから、ただただ飾り付けだけを、それも某薬局のカエルがマドロス風に甲板に立つケロヨン号、ストローや伊達巻きのパッケージやらを繋いだデッキ、万国旗はためく謎の貧相客船が18もできあがっていったわけです。
そして、「船を浮かべる会」(於プール)で水に濡らさないように佇むのは、きっと三姉妹とも同じ光景であったことでしょう。
また模造紙一枚で仕上げる、実験もいろんなことをやりました。
頑張ると、学校代表で大丸の展示会に飾ってもらえたから・・・というわけでもないんだけど。
変な実験が楽しかったの。
一番悲惨というか、臭かったのは。
ジャガイモの腐敗実験。
ビニール袋に水と一緒にいれたりして、いかにもカビそうなものを、さらに炎天下の屋上にさらして、腐り具合を観察すると。
デジカメなんてないのに写真まで撮って、よくまあ、袋を開けて、うわああああと叫んでいましたよ。
もうひとつの思い出は、夏休みアニメ大会。
どこのチャンネルでしたかねえ。
朝9:00-11:30くらい、みっちりみっちり、アニメがこれでもかと再放送の嵐です。
もしかしたら関西ではまだ同じことやってくれてるのかな。
僕は高校生になっても、あの時間を満喫していました。
いつもお膳代わりに、アイロン台で特等席を作って、取りあえずドリルなんぞ広げているわけですが、CM以外はほとんど画面に釘付け。
脇には、粉末を規定の二倍量使った緑鮮やかなサイダーやチューペット。
再放送が多かったのは「ド根性カエル」「エースをねらえ」「さるとびえっちゃん」「明日のジョー」「クリーミーマミ」「はじめ人間ギャートルズ」「妖怪人間ベム」とかかな。
大嫌いだった「かぼちゃワイン」「みゆき」「レインボーマン」「ハイジ」のことも、憎むゆえによく覚えています。
先日天に召された大先生の作品は、どうだったろう。
「おそ松くん」も「天才バカボン」も何度も観たけど、アニメ大会だったかどうか。
僕は、赤塚キャラはそんなに思い入れがなくて、バカボン一家もレレレのおじさんも、ダヨーンもケムンパスもそんなに好きじゃありません。
でも、イヤミだけは別。
イヤミの何もかもが可愛いってそう思えます。
まあ、「ギャートルズ」のガイコツや「怪物くん」のドラキュラ、「ドロロンえんまくん」のシャポーが好きに通じるところでしょうか。

と、前置きが長くなりましたが。
色々本は読んでるのですが、なかなか巧く熟成しないので。
本日ほぼ読了した、マルセル・エイメ「クールな男」(福武書店)のイヤミっぷりについて少々書こうと思います。
福武書店はすっかりベネッセになってから別世界に行ってしまいましたが、この文庫が発刊されていた時代は、素敵な海外文学が目白押し。
ゆえに、現在も絶版文庫の中ではなかなか入手しづらい古書に位置づけられています。
短編集の読み方は、できるだけ短いモノ、表題作というのが僕のとっかかりです。
いわばグラスの縁に唇を添えて、tastingしている時間。
(かっこつけるんじゃないよ)
今回の始まり「クールな男」にはちょっと首を傾げました。
ありきたりといえば、ありきたり。
たとえば場末の酒場で隣の二人組が気だるい面持ちで交わす噂話のよう。
いますよね、こういう人。
平凡からの逸脱か、生活苦も切羽詰まった状況もない立場から、己の信念(といえば聞こえがいいですが)若さ故の連帯に対する嫌悪感に苛まれ、アウトローに身をやつす人。
彼は浮浪者になり刑務所を転々とし、殺人を厭わない強盗団に身をやつす。
誰をも信じない男は、不意の気まぐれで仲間を裏切っても、風のように漂っているだけ。
噂話としては若干悪辣ですが、まずもって、目新しさを感じない一作目であったわけです。
しかしながら、他の話を読み進める内に、僕の眠たい目は俄然ピカリと開かれていきました。
分かりやすい人といえば、こんなに分かりやすい人はいないでしょう。
エイメは確実に性悪説に彩られています。
宗教心も一切もっていません。
徹底した人間不信と諧謔に満ち満ちているのに、それがどこかしら可愛いイヤミだと思えてしまうのは、なぜなのでしょうか。
「クールな男」では発揮されていなかった奇異な題材が、見事に読むものを惹きつけるからです。
そして、読後数分経ってもういちど筋を思い返そうとすると。
終盤までは克明に映像が浮かび上がってくるのに、結末がどうだったか、急に暗転する感覚に襲われます。
たとえば滅法面白かったSFもどき「ぶりかえし」では。
有能な弁護士である父をもつ18才の女性が、婚約者である父の部下の26才の男と甘い恋の囁きを交わすところから話は始まります。
彼氏とのいちゃいちゃを家族に咎められないかとジュゼットちゃんは戦いているのですが、何やら家族のなかで喧しいのは御年68のおばあさま。
「さあ、一年24ヶ月法に投票しなくちゃ。みんなもそうしておくれだよね」と。
この法案、右左翼的人物が多数登場するこの短編集では、またその手の政治的話題?くらいに思っていたのですが。
いやはや法案が可決された瞬間、世界は一変してしまうのです。
1年が24ヶ月になるのは暦の上だけではなく、国民の加齢進行も時間を半分になり、68才のおばあさまは、34才の肉体を手にいれて、「色情狂」と化してしまうわけです。
(面白いのは、この変化ががフランス国籍を持つ者だけに起こるという事実)
そう、老いを感じはじめていた大勢にとっては、この1/2効果はすさまじい幸福を呼び起こしますが、一方若さを謳歌していた者は・・・。
大人の自由を知った後に子供としての不自由を強いられ、貧弱な肉体に閉じこめられるという、二重の束縛下に置かれたのでした。
「ぼくがまちがっているって言うのかい、ジュゼット!物覚えが悪いんだな。でも、ぼくは決して子供時代のことは忘れないぞ。いつまでも続く期待と絶望の時代。はずみをつけて跳ぼうとすると、いつも罰をくらった。それに善良な両親。でも陰険で、慎重で、狡猾で、ぼくたちの目のまえで、禁じられた世界の扉をほんの少しだけ開いてみせる。でも、ぼくたちは何も見ないし、何も聞かないふりをしなくちゃならなかった。それに読んじゃいけない本。それから、ぼくたちには理解できないことになっていた会話。人を招待した晩は、ぼくらだけ部屋へ閉じこもってなければいけなかっただろう」167p
昨日までの婚約の喜びに打ち震える乙女ジョゼットは、惨めな子供に戻ってしまった我が身に泣きじゃくり、同じように少年に戻った兄ピエールの言葉に、より一層の悲惨を思い知る。
そして兄は仲間たちと法案を覆すために、集会から集会をかけずり回って演説をぶつ。
たとえ子供に戻っても気持ちは変わらないと信じていたジュゼットは、婚約者が肉体は同じように脆弱になってしまったにも関わらず、大人の味方をし、大人の女にしか恋を語ることはないと、手痛い婚約解消を告げられるのです。
いやあ、この設定、最高に面白い。
もう、以前の僕なら、もらっちゃうよ、これ!
と某二青年の恋路を書いていた半年前なら、必ず使わせてもらうと叫んでいたことでしょう。
ぼくは屈折した子供の話、子供ゆえに欲情に満ちあふれた子供の話、破壊的な子供の話が大好きなので。
そういう意味でも私的に傑作に値すると思うのですが。
話は、さらに暴力的に変化していきます。
泣きじゃくっていた少女は、無理矢理連れ出された集会の熱気にあたって、自分なりの砲弾の向かう先を知ります。
街頭では、法案を残したいと若く甦った大人達と、子供達の銃撃戦が開始されました。
ジョゼットは婚約者の元にもう一度向かいます。
もう縋ることなどしません。
「大人の女」しか相手にしないと言った少年を全裸にして、真実貧相になった肉体を嘲笑してやります。
すっかり弱った婚約者は、尻を蹴飛ばされて、散々に罵られても、うずくまることしかできません。
外では、延々と激しい砲弾の驟雨が続き、部屋の中では二人の少年少女が、空腹を満たすために全く口もきかずに、食べ物をむさぼっています。
ふーんだ。
ふーーーんだ。
あっかんべえ。
みたいな感じで。
なんだか、「愛の嵐」のあの素敵なジャムのシーンを笑い飛ばすが如く、アンチロマンに仕上げているようにも見えます。
けれど、僕にとっては、こうしたひねくれた描き方に相当素敵なものに見えました。
さて、ご想像通り。
法案は撤廃されました。
描かれてはいませんが、大人達は元の姿に戻って、暗鬱な日常を取り戻している頃。
みるみる二人の体は成長し、ジュゼットは豊満で魅惑的な肢体を取り戻しました。
愚かな婚約者は掌を返して、再び彼女に迫り始めました。
ジュゼットは、もう無知だった以前の彼女ではありません。
婚約者がいかに軽薄な男であるか、よくよく知ったのです。
そして、男を蹴飛ばして飛び出していきました。
もう中途から僕は、結末を幾重にも想像し、分岐点を頭の中で広げては愉しんでいました。
こういうRPGのアルゴリズムめいた予測が枝葉を延ばす瞬間を堪能できる読書は、特に楽しいものです。
主人公は、最後まで泣き暮らすことも可能だったでしょう。
兄と共に戦いに身を投じることもできたでしょう。
そして、新しい恋に向かって進むことも、99%可能だったでしょう。
でも、ジュゼットは、もっとも不可解で、もっとも哀れにも美しい選択をして、物語の扉を閉じてしまいます。
(読んだ人のおたのしみ♪)
おそらく、そんなことになったのだろうと。
もやもやと不定型な扉を使って、読者を遮断してしまいました。
勿論全体を覆う、アナーキーな天に唾する、観客に唾するアナロジーの数々もさもありなんですが、結末の曖昧さこそ、エイメの孤独の一端を明らかにする手法のように思えてなりません。
他者(読者)を惹きつけるだけ惹きつけておいて、雲隠れする。
勿論選ばれた結末は、想像の範囲外とまではいえないけれど、それこそ「クール」でもなく、「華麗なオチ」でもなく。
タコが放つ煙幕墨のごとく。
我々の余韻も残された想像力も見えなくして、消えちゃうのです。
この不埒な可愛いげのなさこそ、一部の偏屈者には愛しいと思えてしまうのでしょう。
「ぶりかえし」で示された、グラスの「ブリキの太鼓」に通じる強烈な皮肉は、「こびと」という短編にも受け継がれています。
精神は大人なのに、肉体は子供だった「ぶりかえし」。
一方の「こびと」では。
精神は侏儒、芸人仲間から大切にからかわれ、小さな肉体には邪気の入る余地がなかったはずの侏儒のまま、肉体は普通の成年男子と同じ、容姿は美貌を湛えてしまった男の物語。
普通の青年のなりになっても、彼は何もすることができません。
蛇男とからまり、甲高い声できいきい叫んでは観衆を笑わすことができた存在は、もはや曲馬団にとっては完全なお払い箱なのです。
新しく芸を習得しようと思っても、結局は何もできずじまい。
勿論、サーカス小屋から一歩もでたことのなかった彼にとっては、パブで酒を呑めば、金を払わねばならないことも、まったく知るよしもなかったのです。
そして、彼は、観客の中。
個を失った群衆の中に埋もれて、消えていきました。
舞台袖から観客席を眺めていた団長の、最後の囁き。
「こびとは死んだよ」は、連帯の闇の中に沈んでいった哀れな人間の姿を示唆しているのかもしれませんな
何も信用するな。
つながりをもつな。
全てを斜めから見て笑い飛ばしてしまう。
そんなエイメをまた、斜めからみて今度は切ないと思ってしまう、素敵な時間でした。
じゃ、またお家にあるはずの、他のエイメを借りて読んでみたいと思います。
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ご降臨

つ、つ、ついに!
来ました!
素氏に唆されたとはいえ、やはり手元に届いてみると、ぶるぶる震えちゃう。
絹山、生涯で一番高い古書です。
愛書家の方からすれば大したことないかも知れないけど。
ぽにょ様が目論んだスカートに匹敵します・笑。
ああ、でもこの装釘を目の当たりにしたら、
逸見君の後書き読んだら、
そして、拓次の絵を見たら(びみょーな部分もありますが)
ははーっとひれ伏さずにはいられようか。

そう、「蛇の花嫁」がやって来たのです!
きゃー。
僕が拓次と出会ったのは、高校生の時です。
「舞ひあがる犬」を合唱部で歌ったから。
あの沼に裸体を漬け込んでいくような衝撃的な感覚を、今も忘れてはいません。
だからこそ、「ライオン歯磨八十年史」なるどでかい、きっと殆どの人にとっては無意味な社史まで買ってしまうのです。
天野祐吉さんのとんでも広告史を舐めるように眺めて、ライオン歯磨広告の中から、異国の香りを掴み取ろうと躍起になるのです。
拓次と逸見君は二人とも、ライオン歯磨で働いていました。
広告部と意匠部に所属していました。
先に逝ってしまった拓次の詩篇を集めて発行されたのが、『藍色の蟇』。
そして『蛇の花嫁』は、拓次の遺品の中から、全て清書し目次まで作っていたものを、逸見君ともう一人の友人、澤田君が発行に漕ぎ着けたものです。
昭和15年12月30日発行。
定価四円。
奥付によれば、表紙は銀揉鳥ノ子紙、本文は沙漉鳥ノ子紙。
朱と墨の鮮やかな二色刷りで、小口はフランス装をペーパーナイフで切ったような不均一さがあります。
逸見君があとがきで、
と重い呟きを発しています。「藍色の蟇」は発表される詩集であつたのに比して、この「蛇の花嫁」は飽くまでも秘められた、しかもそれを知られることは「みづからを削られる」思ひの詩人のいのちではなかつたろうか
では、そんな拓次のまへがきを引用して、今宵は僕も溜息の海に落ちていきます。
わがおもひ盡くるなく、ひとつの影にむかひて千年の至情をいたす。
あをじろき火はもえてわが身をはこびさらむとす。
そは死の翅なるや。
この苦悶の淵にありて吾を救ふは何物にもあらず。
みづからを削る詩の技なり。
されば、わが詩はわれを永遠の彼方へ送りゆく柩車のきしりならむ。
よしさらば、われこの思ひのなかに命を絶たむ。

ロボットを目指す者
なんとかオペは切り抜けましたが、明後日も爆発かも。
「いっそ殺して」は、原稿修羅場だけの台詞だったのに。
素氏は僕が自分を低く評価しすぎるとよく怒りますが、
期待されることほど僕にとって辛いことはありません。
なぜか立花隆の「中核VS革マル」なんかを熱心に読んでいる昨今ですが、
(パルタイとブントの意味がようやく分かったよ。
倉橋由美子大好きなのに、今更さらさら)
一向に溜まった感想が書けないのであります。
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もし作家が、一作ごとに作風を意図的に変えていると信じているのに、受け入れる側にとっては同じに見えてしまったとしたら。
それはとても切ないことだ。
どうしてだか、僕は一作も読まないうちから、この人とは合うのではないかと、妙な思いこみをしてしまったせいで、先に買い集めてしまっていた。
特に「私を離さないで」はジャケ買い、タイトル買いという、海外文学にとっては、ますます本人のあずかり知らぬ所以で、彼は勝手に思いこみを受け、勝手に叱られてしまっているようだ。
カズオ・イシグロは血統的には日本人である。
けれども幼少から英国に渡り、思春期から現在に至るまで彼の地で生活し帰化した人だから、ほとんど日本的なるものを持っていない。
作風は、均衡と抑制がきき計算されたものだと云われている、らしい。
先に「私を離さないで」を読んで、唸りこんでしまった。
未読の方にとってはきっとキーワードすら与えてはいけないような小説だろうけど。
起こりうる近未来的予測を、その犠牲者の側から捉えたSF、まさしくバイオサイエンス的な小説である。
けれども、ここには科学の根拠となる理論は一切描かれていない。
ただ自覚を持たない、ただひたすら運命に向かって歩いていく「子供」が思春期を迎える様、そして一次的な養護施設から巣立った後の二次的な偽自由施設、そして終末の医療機関へという、三つの階段が描かれているにすぎない。
途中途中に、あからさまなキーワードが現われる。
「提供者」「クローン」という語を聞けば、きっと貴方が想像するそのままの世界が開けている。
では、ここで「彼ら」の運命を目の当たりにして、一瞬でも悲壮感を感じるのだろうか。
答は、ノー。
小説は施設で育ち、最も苦々しく親しかった友人と、長くその彼女と恋人関係にあった彼が提供し、死を迎えるのを看取る看護人の視線で全てを描き取っている。
一人称の小説は、ミステリーではミスディレクションの技巧に一役買うことが多いけれど、ここでは、ただ「見ている」眼、「語っている」唇だけでなく、もっと大勢の人間が「阻まれている」ことに気づく。
語り手だけでなく、施設で育った運命の子供たちは、思考を制御されているのだ。
彼らは、幾たびも疑問を抱く。
提供者にならない道があるかもしれないと、噂が広がる。
それでも、彼らは、本当の意味での運命からの解放を決して知ることはない。
簡単なことなのだ。
手錠も足枷もない。
面倒な過程などすっとばして。
逃げ出せばいいのに!
細やかに描かれた心理描写。
むしろ緻密すぎて、人が何となくの違和感としてしか覚えていない幼い頃の他人との軋轢が、ここでは手を変え品を変え、現われる。
勿論、それが僕にとってとても不快だったと言えるかも知れないが。
実は、彼らが一般的な個人よりも何倍も細やかな心を持っているという状況の一方で、確実に閉鎖された思考があること、生涯閉鎖されていることに気づかないことが問題だった。
作者が閉じこめたこの枠が鮮明に浮かび上がること自体が、とてつもない不快感の原因だった。
そして、カズオ・イシグロを信じたくて。
本当の心というものを見てみたくて。
「日の名残り」を読了したのだけれど。
彼が各作品で手法も題材も変えていると、訳者(ともに土屋政雄)は語るけれど。
悲しいくらいに、僕にはそっくりに見えてしまった。
執事は、優秀なる執事は、まさしく運命の子供達と同じに、枠に閉じこめられた者である。
敢えて云うなら、子供達が教師達に植え付けられた思考回路から抜け出せなかったのに対して、執事は、自ら骨の髄まで執事あることを目指し、いつしか枠に閉じこもってしまったのだから、より悪質である。
この枠には、一向にエロスの匂いがない。
抑圧を抑圧と感じない者は、単なるロボットだ。
「日の名残り」の中で、邸宅で共に働いた女中頭のアプローチを、それが非常に奥ゆかしく人間的なものであっても、いや人間的なものであるからこそ、数々の思い出の中でも、一場面としか残らないものとして描かれているのが分かったとき。
僕はもうすっかり慄然としてしまった。
別段ロマンスなど入れる必要もないのに、まるで、彼女の涙滴を無惨に刺してしまうような描写。
どうして彼女は、あの日泣いていたのでしょうと。
思い出すだけの無関心。
見えるけれども、見ていない。
あらゆる感情があるかに見せかけて、実際は寂寥の心臓。
こんな怖ろしい技法を使って。
こんな不快感を与えて。
そこまで計算し尽くして、一体彼は何を書きたいと望んでいるのか。
かつて無機質だと感じた作家など、完全に抜き去って、カズオ・イシグロは飛び去っていく。
後ろにゾンビめいたロボットを従えて。
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生臭さは梅雨のせいばかりじゃなかろうて

雨が近づいてくると、先に雨の匂いが鼻につく。
それはなんとも生臭いものだと感じるのは、絹子ばかりじゃないでしょう。
土曜日、梅雨の谷間をかいくぐり向かった「五反田愛書展」。
多分過去最高の支払い金額と、最高の重量を誇ったかもしれません。
ユイスマンス「彼方」は読了したけど、感想書くのはちょっと重いので、今日は、掘り出し物ならぬ、怪しい拾い物の紹介です。
僕がゲットしたのは、写真のような帯はなくて、もう少し状態が悪い。
でも、200円じゃなかったら、こんなお笑いSM小説買いますかいな!
1952年水谷書店発行、まさしく戦後のカストリ文化を匂わせる、仙花紙本の徒花中の徒花でありましょう。
ネットの海にも、某スパンキングサイトでさらりと取り上げられている以外には、感想が見当たらないので、恥と爆笑のために記録に残しておこうというわけです。
これ、邦題は「咽び泣く青春 テキサスの無軌道お転婆娘」と申しますが、原題は”Whips&Tears"と書かれています。
作者のブラックスミス君。
これがねえ、見つからないんだ。
いくら検索しても。
いやこんな生ぬるすぎる、えすえむなんて呼ぶのも恥ずかしい内容は、現地でも一向に顧みられないのかもしれませんが、どうも僕には、訳者の大谷進なる人物の創作なんじゃないのかと、穿ってしまうんです。
では、どんな内容かというと。
粗筋を書くよりも、冗長ではありますが、大笑いの章題を抜き出してみましょう。
きっともうこれだけで、読んだ気分が味わえるはず。
1.南国の荘園に隠された秘密―精力的な農園主ダン・ドーバー 女家庭教師と愛の戯れに悦楽の園をさまよう
2.鞭打ちの脅威に悩むメリイ―ダンの変態的なお仕置きの噂、交際社会に広まる
3.大変シックな女ばかりの学校―エロと怪奇な歓迎の儀式(お臀打ち)
4.メリイの悪夢―犬の戯れを見て
5.ファンニイとルイザのお臀を抱いて、その窪にキッスをするドリイ
6.少女メイ、二人の女から肉体の窪(泉)に愛の折檻を受ける
7.二人の美少女に対する変態なお仕置き
8.寝室でのお講義―性の神秘をメイは知ってるの?……更に女同士の悦楽に耽ること
9.乗合馬車の中で、ハンサム・ボーイのジョンを交えて、悦楽に耽るメイとヘレン
10.山陰より突如現われたる山賊に、娘達の宝石を弄ばれ、果ては陶酔の境に入るメイとヘレン
11.インディアンの襲撃―メイとヘレンの吊し上げ
12.ダン、メイ探索の旅に出る―女家庭教師の受難
13.後見人ダン・ドーバー、メイの若草の園を掻きわけ戯れる
14.メイとヘレンの逃亡―変な形の雲が出た
いやー、こんな親切な章題みたことがない・笑。
こんな身も蓋もない、情緒の欠片もない、タイトルみたことがないです。
簡単にいえば、生娘のメリイ(メイ・通称ベビィちゃん)が叔父さんと家庭教師にぴしぴしされて、でも一度厳しい寄宿学校にでも入れれば、もっと「いい女」になると追い出され。
行った先が、想像にかたくない百合の園だったと。
新入生の儀式はシーツを捲られて、みんなからお尻ぺしぺしされ、先生達もぺしぺしが大好きで。
夏休みに友達と家に戻る最中に、山賊に襲われ、次の瞬間、インディアンに襲われ。
どうなってんのか分からないまま、叔父さんの元に戻ってたと。
でも、お転婆ちゃんだから、家出しちゃったら、空には雲が浮かんでいた。
雲は落ち付いて何やらお臀のような形に丸くなりました。その間にもう一つの雲が千切れて長く伸びて「九つの尻尾の猫」の形に変わって行きましたが、見る見る中に結び付いてしまいました。それは、ヨオロッパ大陸へ逃げたところで、また二人の柔らかいお臀は鞭から免れないと、暗示している様に思われるのでした。
この短い引用の中にも、トンデモ魂は入念に仕組まれている。
そう、まずは文体に着目。
ですます調だけじゃ済みません。
はっきりいて、低俗な内容にまったく相容れない、童話風なんです。
たとえば、前半で叔父と家庭教師の絡みの部分。
そしてハンナはすっかり裸にされてしまいました。淫獣は、ごっくりと唾を呑んで、なおも攻めの手をゆるめませんでした。そして遂に目的を果たしてしまいました。が、不思議にも、あれほど狂おしく憧れてきたほどの大きな悦楽ではなかったのでした。彼はその意味を考えてみました。
ね、アンデルセンもぶったまげます。
これが官能小説なんて、誰が思えますかいな。
で、この話、訳者(と主張する大谷氏)の後書きによれば、ギリシャ神話や「ビリチスの歌」を引き合いに出して高尚さを強調する一方、これはまだ前半だから、読者の要望があったら、後半も訳すよと言っているのです。
そのくせ、山賊→インディアン→叔父さんの農場への行程は、ぶっとばしの抄訳ともいえないほどのつながりのなさ。
いいように解釈すれば、その部分はそそらないから飛ばした!といえるのかもしれないけど。
穿てば、大谷氏の創作がその辺で、面倒になってなんとか落ちをつけようと、雲がお尻や鞭に見えたなんていう、イソップも真っ青な因果応報に持ち込んだのではとも読めるのです。
創作かと感じたのは、ディテールに進むほど脆弱になっていくバックグラウンドといえばいいでしょうか。
舞台はテキサスとか一応はアメリカ気取りですが、実質的な描写は全くありません。
九尾の狐か!
すみません。。こういう種類の鞭があるらしいです。
cat-o'-nine-tailsっていう。

さらに今、帯を見ながら気づいたけど、仏蘭西が発信元と主張してる?
そのくせ、原題はなぜに英語なんだ?
完訳ってどの面下げていう!
とまあ、ツッコミ満載の一冊ですが。
敢えて欲情と呼ぶならば、主人公メリイとハンナの百合百合シーンくらいでしょう。
えすえむにおける精神性は一切触れられていないので、盛り下がることならいくらでも保証できるのですがね。
最後に二人を乗せた馬車の御者を務めたジョン君への賞賛で、爆笑して終えたいと思います。
山賊に娘っこたちを奪われて、ちっとも役に立たない脇役ですが。
「まあ?メイったら、およしなさいってば、けがらわしいぢやありませんか。アラアラアラ」
注意をする間もなく、メイはジョンの前に膝まづき男性の象徴に手を触れつつ叫びました。
「まあ?……何と立派な生き物なんでしょう。ヘレンこれなのね、何時かあなたが、お医者のご本を私に見せながら説明して呉れた、男の飛道具なのね」
表裏一体の必然
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アンテナが増えると、引っかかるものが増えるというのは当然の道理で。
それが増えた直後のだと愉しいという思いの方が多いのだけれど、アンテナの重みである日突然ぐわっと頭を掻き毟りたくなる。。こともなくはない。
素氏によれば、この本は発売当初ひそかなブームを巻き起こしたらしい。
ベストセラーなど目もくれない毎日だけど、その割りに今まで古書店で見過ごしていた。
変なタイトル。
悪魔崇拝的(嗚呼まさに、「彼方」は悪魔のイビキも同然でありますが)なものを想像して、あれれと首をひねり。
モノクロで製版された山本作兵衛氏の絵に惹きつけられた。
そして、古書店で、ちゃんとその画集が私を手招きして待っていたんだから、アンテナ作用も笑えます。
この絵から最初に連想したのは、香港タイガーバーム公園を彩るヘタヘタだからこそ無残な地獄絵巻。
無残と同居する活力と不調和な明るさは、本文の吸引力にそっくりそのまま引き継がれている。
一気に読了して、こんな一時も目を離せないような面白い本久々だなーと。
面白いの一言でまとめちゃいけないけど。
それでもオモロイという叫びが、こういういまや忘れられそうになっている歴史の新たな呱呱になるんじゃないのかな。。。とも思う。
どうしても浅薄な感想になってしまうけど、眼を覆いたくなるほど酷い扱いを受けた炭鉱人たちの悲惨さの裏側には、おかしみや愉しみがあり、必ずもう一度そこへ戻りたいと願ってしまう求引力があった。
この二面性を何よりも強く上野さんが訴えかけてきている裏には、筆者自身、かつて悲惨の側しかルポルタージュできなかったという、悔恨と慙愧があるから。
『追われゆく鉱夫たち』に対して筑豊の炭鉱労働者から与えられた批判を、私は忘れることはできない。その一つは、筑豊香月のS炭坑の労働者からの批判である。私はこの呪うべき圧制ヤマの労務係が食物もなくて寝ている鉱夫の家を訪れ、袋に入れた米をみせて「入坑する者にはこの米を与える」とそそのかし、せめて一食でも我が子に米を食わせようという親心から、鉱夫たちはよろめく足をふみしめて入坑してゆくと書いた。これに対して批判者は、おまえはなぜ真実を書かなかったと迫ってきたのである。彼の主張するところによれば、そのような卑劣な手段で労働者を坑内に追いこんだ後、労務係はふたたび米袋をさげて家を訪れ、米と交換に彼の妻の肉体を奪うのだという。「なぜそれを書かなかったのか。それを書かなければ、ほんとうのことを書いたことにならないではないか」と彼は追求するのである。
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上野氏はこの批判を受けて、闇にはさらに深い闇がひそみ、さらなる深い地底、いつ崩れるかもしれぬ地の底にある明るさをも見いだそうと試みている。
「笑い話」というのは、決して表面的な語ではなく、疲れ果てた鉱夫たちをわずか一時慰める口伝えの噺だ。
怪奇あり、艶笑あり、悲嘆あり、噴飯あり。
種々の内容にかかわらず、慰めと活力を与えた根元に、「笑い」という語を当てている。
また、鉱山独特の「ケツワリ」「八木山越え」「スカブラ」といった語にも、何層にも重なる意味が含まれているんだと、もう眼が離せない。
「ケツワリ」というのは、朝鮮語の「ケッチョガリ」が転じたもの。
被圧迫民として地底に投げ込まれた朝鮮人の悲惨な運命が、鉱山から鉱山へと点々と逃げ惑う日本の鉱夫にも定着したらしい。
上野氏も、「尻を割る」という生々しい語感が、一旦は定着したはずの底を叩き割るという、肉体的な痛覚の凄まじさに通じて、彼らに愛用されたのだと読み解いている。
で、その逃亡だけど。
逃亡に失敗すれば、晒し者として死に瀕するほどの責苦を与えられるといった一面から、監督側があえて逃亡へと追いこむパターンもあったらしい。
つまりマージンの甘い汁を吸い取った監督(納屋頭)は、追いかけるふりをして、逃がしてしまうことも。
決死の山越えの最中、真っ暗闇で人の気配を感じて睨み合い、二つの集団があわや殺し合いになりかける瞬間、相手もまた自分たちが向かおうとしているヤマからの逃亡者と気づいて、大冷や汗をかくことも。
また、どんな鉱夫よりも蔑まれた部落出身の男をかばった礼に、逃亡中、部落にかくまってもらった家族。
そして、猛者の中の猛者たちは、決して逃亡不可能といわれた離れ島から逃亡し、わざわざ俺はケツワリだ、いま○○にいるから早く探しに来いと葉書まで書き、一つ成功を収めると、新たな難所を求めて別の離れ島の鉱山へと入っていく。
「スカブラ」というのは、著者もはっきりとした語源が分からなかったらしいのだが。
「スカッとしてブラブラ」とある老人に言われた、あっけらかんな説明に妙に納得してしまう。
スカブラは、みんなと一緒にヤマには入るけど、一向に仕事をしない人間のこと。
鉱夫のおしゃれは、真っ白の手ぬぐいを各人各様に工夫して締めることだったらしいのだけど(熱い坑内は裸同然)、みんなあっという間に真っ黒にする手ぬぐいをスカブラだけが、白いまま輝かせているという具合。
じゃあ、彼がみんなから嫌われ、厭われていたのかというと、決してそんなことはなかった。
スカちゃんと呼ばれて、大事に可愛がられていた。
スカブラは、日に何度も現場と詰め所を往復する。
ツルハシを一度も振らずに詰め所に向かって、だらだらと係員とお喋りをし、ヤマに戻ってはみんなに休憩時間だ、ほらもっと精を出さないと終わらんぞと声をかける。
そうすると、何故か仕事はめきめきと捗る。
一方で、このおかしなスカブラが時計の代わりをしてくれない日には、一向に作業が進まない。
彼は決して単にラジオの時報を務めたのではない。彼はみずから地獄の柱時計の振り子となってゆれ動くことによって、みずからを時そのものと化していたのではあるまいか。そして既存の物理的な時刻とはまったく異質の秒を刻みつづけたのではないか。彼が休んだ日は、それこそ時間の流れが凍結してしまったように感じられるのも、けだし当然というほかはない。堪えがたい時をみずからの運動としての時と化してゆく者、それこそが寝太郎であり、スカブラであろう。スカブラとは、もっとも絶望的な秒読みの音に肉体を刻まれつつ生きてゆく楽天主義の名でなければならぬ。
p105
ああ、なんていいんだろう、この文章。
そして、落盤事故が起こった日、今まで一切仕事をしなかったスカブラは、三日三晩一時も休むことなく、仲間を助けるために働き続けた。
係官も、納屋頭も、どんな偉い奴も、みんなスカブラに怒鳴り散らされて、救助に向かわされた。
そんな出来すぎにも思える噺にも、純粋に頷いてしまう。
もっと巧く紹介できればいいんですけど。
ほんとにオモロイので、是非一読あれ。
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