2012.05.22 *Tue
5/13放鳥式
5・13.
オーナー三年目、千葉県長生村のアイガモ農法放鳥式に参加。
晴天澄み切った爽やかな空の下、JR八積駅からテクテク歩いて20分。
みんな車で来てるので、誰も道を歩いていません。
所さんの第一村人発見の意味がよーく分る、のどかな初夏の道のり。

ポン菓子の爆発音を聞いて
二回目の爆発で振りかけられたカレー味にうひゃと咽喉を焼きつつ、たんぼへ移動。
アイガモちゃん抱かせてもらいます。
生後三週目、ちょっと大きいので暴れがち。
おなかがあったかいなあ。
素氏、あやうく運がつくとこでした、どばっとどばっとやってたね、鴨君。
サイレンとともにといわれていたけど・・・村長の挨拶ちょいと長めで、
先にプオーってサイレンが鳴り渡る。


ハヤクシテクレって暴れてます。
せいのっで田んぼに飛ばす。
瞬間、わーーって集まる。

アイガモが放たれた田んぼは、水が澄んでいます。
綺麗にお掃除してくれています。
周囲に柵がしてあるのは、鴨の逃亡防止ではなく、野犬とかに襲われないようになんだって。
戻って。
おにぎり、トン汁、玉ねぎトマトサラダ、お漬物、たっくさん食べました。
手でもって帰れる分だけ、エシャロットとかソラマメとかも購入。
味が濃くて、ほんと美味しいんだ。
ソラマメの塩焼き大好きだ、肴に最高!
帰り道。
自転車ですれ違ったジャージにヘルメットな中学生が。
ふたりとも、「こんにちは~」って声かけてくれるのに驚く。
礼儀正しいのは爽やかだ。
でも、この閑散とした空間だからできるのかもねえ。
去年はオーナーなのに、一度も訪れることができなくて悲しかったので。
今年は秋の収穫祭も満喫しようと思います。
オーナー三年目、千葉県長生村のアイガモ農法放鳥式に参加。
晴天澄み切った爽やかな空の下、JR八積駅からテクテク歩いて20分。
みんな車で来てるので、誰も道を歩いていません。
所さんの第一村人発見の意味がよーく分る、のどかな初夏の道のり。

ポン菓子の爆発音を聞いて
二回目の爆発で振りかけられたカレー味にうひゃと咽喉を焼きつつ、たんぼへ移動。
アイガモちゃん抱かせてもらいます。
生後三週目、ちょっと大きいので暴れがち。
おなかがあったかいなあ。
素氏、あやうく運がつくとこでした、どばっとどばっとやってたね、鴨君。
サイレンとともにといわれていたけど・・・村長の挨拶ちょいと長めで、
先にプオーってサイレンが鳴り渡る。


ハヤクシテクレって暴れてます。
せいのっで田んぼに飛ばす。
瞬間、わーーって集まる。

アイガモが放たれた田んぼは、水が澄んでいます。
綺麗にお掃除してくれています。
周囲に柵がしてあるのは、鴨の逃亡防止ではなく、野犬とかに襲われないようになんだって。
戻って。
おにぎり、トン汁、玉ねぎトマトサラダ、お漬物、たっくさん食べました。
手でもって帰れる分だけ、エシャロットとかソラマメとかも購入。
味が濃くて、ほんと美味しいんだ。
ソラマメの塩焼き大好きだ、肴に最高!
帰り道。
自転車ですれ違ったジャージにヘルメットな中学生が。
ふたりとも、「こんにちは~」って声かけてくれるのに驚く。
礼儀正しいのは爽やかだ。
でも、この閑散とした空間だからできるのかもねえ。
去年はオーナーなのに、一度も訪れることができなくて悲しかったので。
今年は秋の収穫祭も満喫しようと思います。
CATEGORY : 日々の泡
2012.05.18 *Fri
四角
己を無知だと認識すると、一生苦悩し続けることになる。
けれど如何に苦しんでも、如何に自堕落になっていても
結果が伴わなければ個人の苦悩など塵にも劣るのだ。
そんなことを毎日考えて、脳が白くなる。
なので逃避行ばかりする。
映画を観てるとふわっとする。
ガラガラの映画館の中にいると、特にふわっとする。
名画座の映画がみんないいわけでもないけど、やっぱり昔の映画の方が好きだなあと思う。
だから土曜日は三本も名画座で観てしまった。
基本的に版権の切れた本しか読まないのは
もう全てが書きつくされているからと感じるからで
濾過されて輸入された近作の海外文学ですら、上手だとは思っても
傲慢にも、ああ、お勉強の結果だなと思うので、
(例えば、カルロス・ルイス・サフォンとかカズオ・イシグロとか)
日本の濾過すら受けていないものは、一年に一つくらい手にとって
ああ、お勉強すらできてないじゃないかと思うので。
それと同じように新しい映画っていうのは、とても受け入れ難く感じるのです。
手帳に残った2011年の記録。
全然数は観ていないのだけど、去年の映画館に行った記録。
「四畳半物語娼婦しの」成澤昌茂監督 1966
「眠れる美女」吉村公三郎監督 1968
「真夏の夜の夢」イジー・トルンカ監督 1959 チェコアニメ
「おじいさんの物々交換」イジー・トルンカ監督 1953 チェコアニメ
「クテャーセクとクティルカ」イジー・トルンカ監督 1954 チェコアニメ
「悪魔の水車小屋」イジー・トルンカ監督 1949 チェコアニメ
「二つの霜」イジー・トルンカ監督 1954 チェコアニメ
「電子頭脳おばあさん」イジー・トルンカ監督 1962 チェコアニメ
「天使ガブリエルと鵞鳥夫人」イジー・トルンカ監督 1964 チェコアニメ
「八時間の恐怖」鈴木清太郎(清順)監督 1957
「英国王のスピーチ」トム・フーバー監督 2010 英
「悪魔からの勲章」村山三男監督 1967
「わたしを離さないで」マーク・ロマネク監督 2010 英米
「裏階段」井上梅次監督 1965
「炎上」市川崑監督 1958
「肉体の学校」木下亮監督 1965
「黒蜥蜴」井上梅次監督 1962
「悪魔の手毬唄」渡辺邦男監督 1961
「獄門島」松田定次監督 1949
「ブラック・スワン」ダーレン・アロノフスキー監督 2010 米
「死刑執行人もまた死す」フリッツ・ラング監督 1943 米
「海の牙」ルネ・クレマン監督 1947 仏
「禁じられた遊び」ルネ・クレマン監督 1952 仏
「外套と短剣」 フリッツ・ラング監督 1946 米
「ナチのスパイめ!」ジュールス・ホワイト監督 1940
「鉄路の白薔薇」アベル・ガンス監督 1923 仏
「らぶれたあ」鈴木清順監督 1959
「花と怒涛」 鈴木清順監督 1964
一番面白かったのは、「死刑執行人もまた死す」だったな。
初めての弁士付生演奏付「鉄路の白薔薇」も幸福な時間だったな。
新作映画は、さっきも言ったように、新作小説と同じに上手上手で
人の心の琴線を技巧をもって鳴らそうとするので、
もし涙が浮かんだとしても
それは乾いた玉葱の茶色い外の皮をむいた事にしかならない。
それでも、小説の数倍「わたしを離さないで」は素晴らしかったと思う。
で懲りずに。
今年も月に数本ちょこちょこっと、浮かんでこようと思う。
ソクーロフの「太陽」を先週見た。
イッセー尾形の昭和天皇コントというコメントもあったけど
桃井かおり(皇后役)はどこでも桃井かおりというコメントもみたけど
役者の本領におんぶにだっこでも決して悪くはないだろう。
僕は、これを狂気を封じ込める最大の人の技とは何かと
考えながら観ておりました。
運命を受諾しながら、人は風が消えていく道をつくるためには
独自の風穴を穿つようにしなければ生きられないというこを。
もぐもぐと動かし言葉を飲み込み飲み込み
敢えて相手の問いに対してすでにある答えを放棄する。
幾度も繰り返された「あっ、そ」という返答。
特にクライマックスにおいて、
人間宣言を記録した青年の自決を留めたんだろうねという問いに対して、
侍従長が留めませんでしたと返した時に、何の変化もなく「あっ、そ」と返されると
足元に開いた非情な空洞を、瞬間ぽーんと跨ぐがごとく
意識に風穴を開いて意識を飛ばされたようにも感じるのであります。
そしてこの映画がロシア人によって造られた意味をも
僕は恐ろしく深い陥穽として認めるのでありました。
もう一本。
大島渚監督の奥さま、小山明子映画祭。
こんなすごい映画なのに、シネパトスはがらがら。
「白昼の通り魔」1966 は武田泰淳原作、大島渚監督。
小山明子の「愛は無償のものです」と講義する中学教師像と、その偽善と、
教え子(佐藤慶・通り魔)にどうしようもなく惹かれて壊れる様がもちろん凄まじいけれど。
僕は、「白日夢」で看護婦さん役でも出ていた
武智鉄二監督の娘・川口小枝ちゃんの演技の凄まじさに、すっかり参りました。
人の話を、恋愛を素直に受け止め、それと同等に農作業に重心を置き、
自分に降りかかる死と野蛮性をも飲み込み、そして降りかかった意味を、答を探しあぐねる。
一緒に無理心中した相手(戸浦六宏)が木にぶらぶらと縊死して揺れている横で
生き残って失神している間に、凌辱される絵の凄まじさったら、もう。
そしてラストの「また死ねなかったんだな」といいながら、死体を背負って山道を下る姿。
四人のなす、四角関係の現世欲がぐるぐるにとぐろ巻いて、
四人の一歩も譲らない演技と、ぎらぎら光る眼と汗のカットと。
挙げればきりのない、完璧なエロスタナトスの凝縮体の美しさと。
どうしてもっと、こういう映画、みんな観ないのかなあって。
自分の触れるものが、今目の前にある流行が、
決して新機軸でもなく、新発見でもなく
本当はもう遠い昔、遠くない昔に、
何度も何度も描かれたものの繰り返しに過ぎないと
(勿論すべてとは言わないが)
ちゃんと認識しているべきだろうと、僕は思うのだ。
たしかに、全てキンピカ、生まれたてのものと思ってお気楽に表層を撫でるのは
とっても、とっても楽なことだけど。
僕は、苦しくても、楽しいだけの話はできないのだよ。
けれど如何に苦しんでも、如何に自堕落になっていても
結果が伴わなければ個人の苦悩など塵にも劣るのだ。
そんなことを毎日考えて、脳が白くなる。
なので逃避行ばかりする。
映画を観てるとふわっとする。
ガラガラの映画館の中にいると、特にふわっとする。
名画座の映画がみんないいわけでもないけど、やっぱり昔の映画の方が好きだなあと思う。
だから土曜日は三本も名画座で観てしまった。
基本的に版権の切れた本しか読まないのは
もう全てが書きつくされているからと感じるからで
濾過されて輸入された近作の海外文学ですら、上手だとは思っても
傲慢にも、ああ、お勉強の結果だなと思うので、
(例えば、カルロス・ルイス・サフォンとかカズオ・イシグロとか)
日本の濾過すら受けていないものは、一年に一つくらい手にとって
ああ、お勉強すらできてないじゃないかと思うので。
それと同じように新しい映画っていうのは、とても受け入れ難く感じるのです。
手帳に残った2011年の記録。
全然数は観ていないのだけど、去年の映画館に行った記録。
「四畳半物語娼婦しの」成澤昌茂監督 1966
「眠れる美女」吉村公三郎監督 1968
「真夏の夜の夢」イジー・トルンカ監督 1959 チェコアニメ
「おじいさんの物々交換」イジー・トルンカ監督 1953 チェコアニメ
「クテャーセクとクティルカ」イジー・トルンカ監督 1954 チェコアニメ
「悪魔の水車小屋」イジー・トルンカ監督 1949 チェコアニメ
「二つの霜」イジー・トルンカ監督 1954 チェコアニメ
「電子頭脳おばあさん」イジー・トルンカ監督 1962 チェコアニメ
「天使ガブリエルと鵞鳥夫人」イジー・トルンカ監督 1964 チェコアニメ
「八時間の恐怖」鈴木清太郎(清順)監督 1957
「英国王のスピーチ」トム・フーバー監督 2010 英
「悪魔からの勲章」村山三男監督 1967
「わたしを離さないで」マーク・ロマネク監督 2010 英米
「裏階段」井上梅次監督 1965
「炎上」市川崑監督 1958
「肉体の学校」木下亮監督 1965
「黒蜥蜴」井上梅次監督 1962
「悪魔の手毬唄」渡辺邦男監督 1961
「獄門島」松田定次監督 1949
「ブラック・スワン」ダーレン・アロノフスキー監督 2010 米
「死刑執行人もまた死す」フリッツ・ラング監督 1943 米
「海の牙」ルネ・クレマン監督 1947 仏
「禁じられた遊び」ルネ・クレマン監督 1952 仏
「外套と短剣」 フリッツ・ラング監督 1946 米
「ナチのスパイめ!」ジュールス・ホワイト監督 1940
「鉄路の白薔薇」アベル・ガンス監督 1923 仏
「らぶれたあ」鈴木清順監督 1959
「花と怒涛」 鈴木清順監督 1964
一番面白かったのは、「死刑執行人もまた死す」だったな。
初めての弁士付生演奏付「鉄路の白薔薇」も幸福な時間だったな。
新作映画は、さっきも言ったように、新作小説と同じに上手上手で
人の心の琴線を技巧をもって鳴らそうとするので、
もし涙が浮かんだとしても
それは乾いた玉葱の茶色い外の皮をむいた事にしかならない。
それでも、小説の数倍「わたしを離さないで」は素晴らしかったと思う。
で懲りずに。
今年も月に数本ちょこちょこっと、浮かんでこようと思う。
ソクーロフの「太陽」を先週見た。
イッセー尾形の昭和天皇コントというコメントもあったけど
桃井かおり(皇后役)はどこでも桃井かおりというコメントもみたけど
役者の本領におんぶにだっこでも決して悪くはないだろう。
僕は、これを狂気を封じ込める最大の人の技とは何かと
考えながら観ておりました。
運命を受諾しながら、人は風が消えていく道をつくるためには
独自の風穴を穿つようにしなければ生きられないというこを。
もぐもぐと動かし言葉を飲み込み飲み込み
敢えて相手の問いに対してすでにある答えを放棄する。
幾度も繰り返された「あっ、そ」という返答。
特にクライマックスにおいて、
人間宣言を記録した青年の自決を留めたんだろうねという問いに対して、
侍従長が留めませんでしたと返した時に、何の変化もなく「あっ、そ」と返されると
足元に開いた非情な空洞を、瞬間ぽーんと跨ぐがごとく
意識に風穴を開いて意識を飛ばされたようにも感じるのであります。
そしてこの映画がロシア人によって造られた意味をも
僕は恐ろしく深い陥穽として認めるのでありました。
もう一本。
![]() | 白昼の通り魔 [DVD] (2006/04/27) 川口小枝、小山明子 他 商品詳細を見る |
大島渚監督の奥さま、小山明子映画祭。
こんなすごい映画なのに、シネパトスはがらがら。
「白昼の通り魔」1966 は武田泰淳原作、大島渚監督。
小山明子の「愛は無償のものです」と講義する中学教師像と、その偽善と、
教え子(佐藤慶・通り魔)にどうしようもなく惹かれて壊れる様がもちろん凄まじいけれど。
僕は、「白日夢」で看護婦さん役でも出ていた
武智鉄二監督の娘・川口小枝ちゃんの演技の凄まじさに、すっかり参りました。
人の話を、恋愛を素直に受け止め、それと同等に農作業に重心を置き、
自分に降りかかる死と野蛮性をも飲み込み、そして降りかかった意味を、答を探しあぐねる。
一緒に無理心中した相手(戸浦六宏)が木にぶらぶらと縊死して揺れている横で
生き残って失神している間に、凌辱される絵の凄まじさったら、もう。
そしてラストの「また死ねなかったんだな」といいながら、死体を背負って山道を下る姿。
四人のなす、四角関係の現世欲がぐるぐるにとぐろ巻いて、
四人の一歩も譲らない演技と、ぎらぎら光る眼と汗のカットと。
挙げればきりのない、完璧なエロスタナトスの凝縮体の美しさと。
どうしてもっと、こういう映画、みんな観ないのかなあって。
自分の触れるものが、今目の前にある流行が、
決して新機軸でもなく、新発見でもなく
本当はもう遠い昔、遠くない昔に、
何度も何度も描かれたものの繰り返しに過ぎないと
(勿論すべてとは言わないが)
ちゃんと認識しているべきだろうと、僕は思うのだ。
たしかに、全てキンピカ、生まれたてのものと思ってお気楽に表層を撫でるのは
とっても、とっても楽なことだけど。
僕は、苦しくても、楽しいだけの話はできないのだよ。
CATEGORY : 日々の泡
2012.04.26 *Thu
ばかり
怖い夢ばかりみる。
そう書いてみて、よくよく人の弱さを知る。
三日連続で怖い夢をみた。
それは事実だがそれ以上でも以下でもない。
「ばかり」と呼ぶのは、少なくとも八割以上該当しなければ使えないのではないかと思うが。
どうだろうか。
被害、マイナスの残像は人の統計観念など、簡単に吹き飛ばす。
夢日記をつけたとしても、毎日の夢は記録できない。
あれは断片のつながりで、目覚めた瞬間に、誰かに話したり文字にかえて再構築してはじめて、意味がうまれる。
怖いか怖くないか、
目覚める瞬間に切り取られたfilmを拾っても、本当は判断できない。
怖いかともう一度問われて、言葉を窮する。
怖いか、いや心臓の鼓動がおかしくなるほど衝撃のある日もたしかにある。
けれどむしろ、それは不快なイメージだ。
脅えるような、広い空間にいても、一人箱に詰められるような閉塞だ。
数えよう、何日続くのか、月に何度なのか。
平凡な、むしろ「ごくまれに」「たまに」としか呼べない、裏返しの鏡像こそ、悪夢の頻度にふさわしいと、自分に思い知らせるべきなのだ。
助手席に座った僕は運転手に話し掛ける。
「今日は死亡フラグが立ってるね」
車は100km/hをゆうに超え、山道をかけ上がる。
トンネルが見える。
トンネルに入る。
一瞬暗くなり、抜けた先からくる路線バスが中央分離帯に掛かって横転する
すぐさま爆発しながらこちらの車線に流れ込んでくる。
オレンジの焔が脚をもったかのように迫る。
車は右にハンドルがきられ、こちらも激しく分離帯にぶつかり、僕は身体中に衝撃を受ける
ボンネットが曲がり、割れたフロントガラスから僕は腕だけだし、後方を振り返る。
発煙筒を焚かないと。
そのことばかり考える。
どうやらシートベルトが外れないらしい。
ただ印象的なだけ。
不快なだけ。
眠りは怯えさせるものではないはずだから。
決して「怖い夢ばかり」ではないから。
そう書いてみて、よくよく人の弱さを知る。
三日連続で怖い夢をみた。
それは事実だがそれ以上でも以下でもない。
「ばかり」と呼ぶのは、少なくとも八割以上該当しなければ使えないのではないかと思うが。
どうだろうか。
被害、マイナスの残像は人の統計観念など、簡単に吹き飛ばす。
夢日記をつけたとしても、毎日の夢は記録できない。
あれは断片のつながりで、目覚めた瞬間に、誰かに話したり文字にかえて再構築してはじめて、意味がうまれる。
怖いか怖くないか、
目覚める瞬間に切り取られたfilmを拾っても、本当は判断できない。
怖いかともう一度問われて、言葉を窮する。
怖いか、いや心臓の鼓動がおかしくなるほど衝撃のある日もたしかにある。
けれどむしろ、それは不快なイメージだ。
脅えるような、広い空間にいても、一人箱に詰められるような閉塞だ。
数えよう、何日続くのか、月に何度なのか。
平凡な、むしろ「ごくまれに」「たまに」としか呼べない、裏返しの鏡像こそ、悪夢の頻度にふさわしいと、自分に思い知らせるべきなのだ。
助手席に座った僕は運転手に話し掛ける。
「今日は死亡フラグが立ってるね」
車は100km/hをゆうに超え、山道をかけ上がる。
トンネルが見える。
トンネルに入る。
一瞬暗くなり、抜けた先からくる路線バスが中央分離帯に掛かって横転する
すぐさま爆発しながらこちらの車線に流れ込んでくる。
オレンジの焔が脚をもったかのように迫る。
車は右にハンドルがきられ、こちらも激しく分離帯にぶつかり、僕は身体中に衝撃を受ける
ボンネットが曲がり、割れたフロントガラスから僕は腕だけだし、後方を振り返る。
発煙筒を焚かないと。
そのことばかり考える。
どうやらシートベルトが外れないらしい。
ただ印象的なだけ。
不快なだけ。
眠りは怯えさせるものではないはずだから。
決して「怖い夢ばかり」ではないから。
CATEGORY : 日々の泡
2012.04.26 *Thu
手順書
実験の世界では、ひとつひとつの工程を標した手順書のことを
プロトコルと呼んでいる。
事前に共通言語である基礎科学知識や機器の使用方法を知っていれば
たいていの実験はできるようになっている。
料理でいうところのレシピである。
あれも、大匙一杯が何ccとか短冊切りはどんな切り方か知っていれば
それ一枚と材料でなんでも作れるのと同じである。
人は、経験によってあまりにも多数のプロトコルを頭に入れている。
無意識にできてしまうことに、誰も感動など覚えないが
その手順の多さを数えてみれば余りの膨大さに眩暈を覚えるほどだ。
たとえば。
インスタントコーヒーを淹れてみよう。
薬缶とコーヒーと水とガスコンロがある。
薬缶の蓋の開け方、蛇口のひねり方、点火の方法、沸騰の意味すること、火や熱湯の危険性、瓶の蓋の開け方、匙で掬うという混ぜるという行為、溶けて茶色く温かなものができるという意味、それが飲んでいいものだと知ること、苦味と深い味わい、熱いという感覚、果てはなぜ飲むのかということ。
これらをもし、ひとつひとつ確認しないといけないとしたら。
もしすべての行為、すべての意味に疑問をもってしまうなら、迷いが生じてしまうなら。
わたしたちはもうそこで幾時間立ちつくしても、前へ進むことができなくなる。
毎日決まった時間帯に電車に乗れなくなってしまい、
僕は、朝8時から正午すぎまで、毎日違う電車に乗るようになる。
元々下り電車の終点までいくので、電車はいつもガラガラなのだ。
だから、人々はとても緊張を解いて、思い思いの時間を過ごしている。
思い思いに最低限の節度を守りながら、自分を解放しているので、
そこに日常の果てから少し歪んだ何かを僕は観察するのだ。
この沿線には、知的障害者の施設と、大手製薬会社の実験施設と、インド系の学校がある。
そこに通う彼らにも決まった時間があるはずなのだが、
この四時間余りの広い範囲のずれにも、定時というものから外れた人たちが、
優雅に、そうまさしく自己をふわりと解放させて乗車している。
英語で交わされる子供達の密談、大音響でゲーム機を叩く音、毎回違う厚いミステリの文庫、論文の束、駆け抜けるおじさん、鏡をしまっては取り出ししまっては取り出して除く少女。
終点につく。
そのホームにいることもある。
階段の途中にいることもある。
改札口の前にいることもある。
改札の外の別路線に向かう長い長い通路に立っていることもある。
朝だけではない、夕方に出会うこともある。
ただ、一度も車内であったことがないし、終点の駅以外で会ったこともない。
その女性は、週に何度も眼にする。
彼女はプロトコルを失った人だ。
四十代だろうか、濃いくらいに化粧をして、色味は派手だがスーツを着て、一見普通の会社員に見える。
けれど、瞬間あとに彼女はどれだけ混乱し、迷っているかを僕たちは知る。
いつもの同じ道、同じ階段、同じ電車。
けれども、それは本当は同じではない。
ポスター一枚が貼り替わっている、エスカレーターは違う向きに流れる、電車はもっと恐ろしい、毎回車両の模様も違えば、行き先も、車両の数も違う、そして周囲にいる人間はもっと違う。
僕たちが、同じものとカテゴライズして、同じと呼ぶものを同じと呼べない人もいるのだ。
そして、彼女は恐らくその些細と、取るに足らないと呼ぶ差異以上に、覚えることができないことが多すぎるのだろう。
階段を下りてきた瞬間、自分が、駅に向かっていたのか、離れて行こうとしていたのかさえ、分からなくなる。
何度も立ち止まる。
左手をこめかみにあて、右手は小刻みに指差している。
指の先には、消えかかっているプロトコルがあるのだ。
普通の人には書かれることもない手順が、何百と書きたされ、そのひとつひとつのチェック欄に印をつけては、また迷う。
階段の途中で立ち止まった彼女の脇を、大勢の人が一瞥を加えて駆け抜けてゆく。
僕はずっと考えている。
この人が、外見通り、どこかで仕事をしているとして、そこに毎日辿り着くには何時に家を出ないといけないのだろうかと。
けれど、よくよく考えれば、この人に仕事をしてもらうのは、どれほど難しいことだろう。
コピーをお願いして、コピーが出てくるのはいつだろう。
詮無いことだけど、ようやく僕は思い至る。
おそらく、この人は毎日、どこかこの終点の駅の周辺に向かうこと、それが仕事なのではないかと。
到着し、ラジオ体操の朝のハンコのように、何か一つのことをなし、そして帰宅する。
それが滞りなく、プロトコルなしに行えるようになることを。
何年も何年も、ずっと繰り返しているのではないだろうか。
僕たちの、無意識と言う名の恩恵を、
ある日突然、失われてゆく、当たり前と呼んだ時間を、
僕は、ぼんやり、愛しいような悲しいような、取り返しのつかないような気持で思い描く。
プロトコルと呼んでいる。
事前に共通言語である基礎科学知識や機器の使用方法を知っていれば
たいていの実験はできるようになっている。
料理でいうところのレシピである。
あれも、大匙一杯が何ccとか短冊切りはどんな切り方か知っていれば
それ一枚と材料でなんでも作れるのと同じである。
人は、経験によってあまりにも多数のプロトコルを頭に入れている。
無意識にできてしまうことに、誰も感動など覚えないが
その手順の多さを数えてみれば余りの膨大さに眩暈を覚えるほどだ。
たとえば。
インスタントコーヒーを淹れてみよう。
薬缶とコーヒーと水とガスコンロがある。
薬缶の蓋の開け方、蛇口のひねり方、点火の方法、沸騰の意味すること、火や熱湯の危険性、瓶の蓋の開け方、匙で掬うという混ぜるという行為、溶けて茶色く温かなものができるという意味、それが飲んでいいものだと知ること、苦味と深い味わい、熱いという感覚、果てはなぜ飲むのかということ。
これらをもし、ひとつひとつ確認しないといけないとしたら。
もしすべての行為、すべての意味に疑問をもってしまうなら、迷いが生じてしまうなら。
わたしたちはもうそこで幾時間立ちつくしても、前へ進むことができなくなる。
毎日決まった時間帯に電車に乗れなくなってしまい、
僕は、朝8時から正午すぎまで、毎日違う電車に乗るようになる。
元々下り電車の終点までいくので、電車はいつもガラガラなのだ。
だから、人々はとても緊張を解いて、思い思いの時間を過ごしている。
思い思いに最低限の節度を守りながら、自分を解放しているので、
そこに日常の果てから少し歪んだ何かを僕は観察するのだ。
この沿線には、知的障害者の施設と、大手製薬会社の実験施設と、インド系の学校がある。
そこに通う彼らにも決まった時間があるはずなのだが、
この四時間余りの広い範囲のずれにも、定時というものから外れた人たちが、
優雅に、そうまさしく自己をふわりと解放させて乗車している。
英語で交わされる子供達の密談、大音響でゲーム機を叩く音、毎回違う厚いミステリの文庫、論文の束、駆け抜けるおじさん、鏡をしまっては取り出ししまっては取り出して除く少女。
終点につく。
そのホームにいることもある。
階段の途中にいることもある。
改札口の前にいることもある。
改札の外の別路線に向かう長い長い通路に立っていることもある。
朝だけではない、夕方に出会うこともある。
ただ、一度も車内であったことがないし、終点の駅以外で会ったこともない。
その女性は、週に何度も眼にする。
彼女はプロトコルを失った人だ。
四十代だろうか、濃いくらいに化粧をして、色味は派手だがスーツを着て、一見普通の会社員に見える。
けれど、瞬間あとに彼女はどれだけ混乱し、迷っているかを僕たちは知る。
いつもの同じ道、同じ階段、同じ電車。
けれども、それは本当は同じではない。
ポスター一枚が貼り替わっている、エスカレーターは違う向きに流れる、電車はもっと恐ろしい、毎回車両の模様も違えば、行き先も、車両の数も違う、そして周囲にいる人間はもっと違う。
僕たちが、同じものとカテゴライズして、同じと呼ぶものを同じと呼べない人もいるのだ。
そして、彼女は恐らくその些細と、取るに足らないと呼ぶ差異以上に、覚えることができないことが多すぎるのだろう。
階段を下りてきた瞬間、自分が、駅に向かっていたのか、離れて行こうとしていたのかさえ、分からなくなる。
何度も立ち止まる。
左手をこめかみにあて、右手は小刻みに指差している。
指の先には、消えかかっているプロトコルがあるのだ。
普通の人には書かれることもない手順が、何百と書きたされ、そのひとつひとつのチェック欄に印をつけては、また迷う。
階段の途中で立ち止まった彼女の脇を、大勢の人が一瞥を加えて駆け抜けてゆく。
僕はずっと考えている。
この人が、外見通り、どこかで仕事をしているとして、そこに毎日辿り着くには何時に家を出ないといけないのだろうかと。
けれど、よくよく考えれば、この人に仕事をしてもらうのは、どれほど難しいことだろう。
コピーをお願いして、コピーが出てくるのはいつだろう。
詮無いことだけど、ようやく僕は思い至る。
おそらく、この人は毎日、どこかこの終点の駅の周辺に向かうこと、それが仕事なのではないかと。
到着し、ラジオ体操の朝のハンコのように、何か一つのことをなし、そして帰宅する。
それが滞りなく、プロトコルなしに行えるようになることを。
何年も何年も、ずっと繰り返しているのではないだろうか。
僕たちの、無意識と言う名の恩恵を、
ある日突然、失われてゆく、当たり前と呼んだ時間を、
僕は、ぼんやり、愛しいような悲しいような、取り返しのつかないような気持で思い描く。
CATEGORY : 日々の泡
2012.04.26 *Thu
ある日のことでした
その密やかなる隠れ里は唯一無二の臥処でありました。
道筋は果て、いままた振り返り。
幾百年、幾秒遡り、また明日はまだ見ぬ明日は。
ほんの少しだけ。
人の夜毎の夢にも現れ悪さを繰り返す小人たち。
なかんずく彼らにも優しき御手をかざしたまえ。
狂気を餌とし、敢えて貪食を好まず、
我らに狂いを吹き返す。
しばし狂気は我ら人の餌ともならん。
心地よく湿りし岸辺。
靴先つかまる片足のもげた蟹の骸。
潮を吹きしまま赤茶けて岩肌に絡まる海藻。
濁りきり深く視界を阻む宙天とわだつみの境界なき滲み。
私たちは明日はここから旅立とうと話し合う。
入江に終わりのないことを知っている。
入江はロゴスを飲み込み、吐き尽くす。
私たちは白い空洞である。
道筋は果て、いままた振り返り。
幾百年、幾秒遡り、また明日はまだ見ぬ明日は。
ほんの少しだけ。
人の夜毎の夢にも現れ悪さを繰り返す小人たち。
なかんずく彼らにも優しき御手をかざしたまえ。
狂気を餌とし、敢えて貪食を好まず、
我らに狂いを吹き返す。
しばし狂気は我ら人の餌ともならん。
心地よく湿りし岸辺。
靴先つかまる片足のもげた蟹の骸。
潮を吹きしまま赤茶けて岩肌に絡まる海藻。
濁りきり深く視界を阻む宙天とわだつみの境界なき滲み。
私たちは明日はここから旅立とうと話し合う。
入江に終わりのないことを知っている。
入江はロゴスを飲み込み、吐き尽くす。
私たちは白い空洞である。
CATEGORY : かつての左耳たち
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